更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard(75)
杞憂で終わってくれれば、それに越したことはない。
そう願ってはいても、頭の中の思考は悪い方向へと向かっていく。
悪いことばかり考えていると現実に悪いことが起こってしまうものだ…。
怜迩は、いつもならたった一人しかついていないはずの黒服まみれの男に円らなくりっとした目で、2、3度ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、見慣れた男に目を向けた。
「1人増えたの?」
と冷静に問うた怜迩の声は、子供には不似合いのどこか大人びた声だった。
可愛らしさとは無縁のものだった。
「そうですよ」
怜迩の言葉通りなので、問われた一哉も特に否定はしなかった。
怜迩は、眉一つ動かすことなく、続けて問うた。
「何かあったの?」
突如、1人増えた自分の身を守ってくれる存在に、いくら子供とは言え、何かあったと思わざるを得ないだろう。
気のせいだとは思いたいところだったが、気になる以上、何か策を講じておくべきだろう。
己の考えに従って、一哉は早々に怜迩にとって自分と同じ存在をもう1人用意した。
但し、それは草壁の者ではない。
兄達の不満はありありと手に取るように分かった。
水原に代々仕えてきている草壁家の人間として、水原の直径の孫である怜迩を守る任につくことは、一番の名誉に近いことだ。
現在、一哉にとって2番目の兄である宗司と3番目の兄である御津には、今正式に誰についているわけでもない。
水原には、弥一がついている。
綾には、今は怜迩に掛かりっきりになってはいるが、もちろん一哉だ。
もし、新たに怜迩につける人間を選ぶとしたら、残りの2人のどちらかだろうということは、他の使用人、果ては当人達ですら疑いもしなかった。
しかし、一哉が選んだのは、全く草壁家とは縁のないものだった。
とはいえ、兄達の不満にいちいちそれを気にしている一哉でもなかった。
口をついて出てくる不平、否、雑言も涼しい顔でやり過ごした。
「おや?何かあった方が怜迩様は良かったですか?」
どこか意地の悪さを含ませたような笑みを口許に張り付かせたまま、逆に聞き返した一哉だったが、怜迩は口を閉ざしたまま一哉を見返した後、ふいっと顔を逸らしてしまった。
「別に…、ない方が皆、嬉しいでしょ。そのための新しい人なんでしょ」
「その通りです」
可愛げの欠片もない物言いだったが、ふふっと笑いながら、歩きだした怜迩の後を追う一哉だった。
良家の子女が通う怜迩の小学校では、警備に自信を持っているからか、それが生徒の関係者であっても、部外者として学内に居座ることを良しとしない学校だった。
送迎時間こそ人でごった返す学校周辺もひとたび、朝の波をすぎれば、時折、聞こえてくる子供達の声を除いて、静かな校舎だけが残る。
一哉たちに見送られた怜迩は、颯爽と今にもかけださんばかりの勢いで校舎ないへと姿を消した。
怜迩の姿が見えなくなった後、一哉はふぅっと息を吐き出すと肩を下ろした。
「することないだろ。しばらく、遊んできていいぞ」
背後に立って自分と同じように怜迩の姿が校舎の中へと消えていくのを見守っていた男に相手を見ることもなく言うとそのまま男を置いてどこかへと姿を消そうとした。
慌てたのは、一哉の一歩後ろに控えて一哉と同じように怜迩の後姿を見送っていた男だった。
こちらも去ろうとしている一哉の大きな背中に慌てたように声をかける。
「す、すみません!あのっ!ちょっと」
慌てて俄かに上擦った声を張り上げると2、3歩足を進めた後、足が止まり、ゆっくりと振り返った。
「何だ?」
と問う声は、自分を見つめる視線は、冷え冷えとしていて、一瞬息を呑んでしまう男だった。
「いいのですか?」
視線だけで校舎をちらりと見ると一哉の顔をじっと強い眼差しで見返した。
自分は間違っていないと―心の中で繰り返しながら…。
「伊達」
ただ、己の名を呼ばれただけなのに伊達と呼ばれた若い青年は、背筋をぴんと伸ばした。
「余計なことは、するな。時間の無駄だ」
きっぱりと無駄と言い切った男に、伊達は目を大きく見開いた。
本来ならば、自分には回ってこないはずだった大役に緊張を覚えつつも使命感に燃えていた青年には、その一哉の言葉が信じられなかった。
「…余計、なこと…ですか?」
「ああ。学校が部外者を入ることを良しとしないんだ。俺達が何もできるわけないだろ。時間は有意義に使え」
とだけ言い捨てるともう振り返ることはしなかった。
残された伊達は、自分がどうしていいかわからずにその場に立ち尽くすことしかできなかった。
数時間後、再び姿を見せた一哉は一瞥をくれただけで、伊達から視線を逸らすと黙って伊達の横に立ち、朝見送った子供が帰ってくるのを待った。
ただ、一哉の視線から数時間もの間、動くことなく、じっと待っていただけの自分を馬鹿にされたような気がしてむっとしたように眉間に皺を寄せた。
「ここでずっと立っていたのか?」
その問いに不服そうな声を喉の奥から絞り出す。
「…そうですけど…、何か」
「何か起きたか?」
伊達の言葉を遮って、強い声音で問う。
その強さは、自分の言葉に自信を持っている男の声だった。
答えにまごついたのは、勿論、伊達の方だった。
「…それは」
「時間の無駄だと言った筈だ。次からは、どこかで時間潰してろ」
「でも…何か起きた時に…」
尚のこと食い下がってくる伊達に、一哉はこれ見よがしにため息を吐き出して見せた。
「こっちとしては、学校との間に余計な波風を立てたくないんだ。これは、綾さんの意志だ」
「…旦那様は何と?」
「怜迩様のことに関して、旦那様に口出しをする権利は与えられていない、いや、綾さんが与えさせない。わかったか…」
念を押すように、きつい視線を送るとしぶしぶと言った態で、伊達は頷き、まるで怒られた後の子供のように顔を俯けた。
横目でそれを見ながら一哉は、続けた。
「暇なら仕事をやるが?」
幾分か柔らかくなった声のトーンに伊達は、ちらりと視線だけをそう告げた男に向けた。
にやりと口許の端を吊り上げただけの男の目は決して笑ってなどいなかった。
小馬鹿にされたように感じた伊達は、眉間に皺を寄せて言い切る。
「結構です。自分で、やることくらい探せます」
強い口調に、ふんと軽く鼻で笑うと一哉は子供の声が聞こえ始めた校舎へと目を向け、伊達の顔を見ないまま言った。
「ま。そんな役立たずはいらんがな。お前を選んだ俺の信用に関わる」
その言葉は、伊達の闘志にますます火をつける言葉だった。
眦を吊り上げ、悔しそうに唇を強く噛んだまま、伊達は怜迩が出てくるまでの間ずっと過ごしていたために、怜迩が戻ってきて真っ先に、怜迩に「怖い顔してどうしたの?」と指摘されてしまい、答えに窮してしまう結果となった。
幼い子供の素朴な疑問にあたふたとしてしまった伊達は、己の横で苦笑を浮かべていた一哉の顔を知らない。
杞憂で終わってくれれば、それに越したことはない。
そう願ってはいても、頭の中の思考は悪い方向へと向かっていく。
悪いことばかり考えていると現実に悪いことが起こってしまうものだ…。
怜迩は、いつもならたった一人しかついていないはずの黒服まみれの男に円らなくりっとした目で、2、3度ぱちぱちと瞬きを繰り返した後、見慣れた男に目を向けた。
「1人増えたの?」
と冷静に問うた怜迩の声は、子供には不似合いのどこか大人びた声だった。
可愛らしさとは無縁のものだった。
「そうですよ」
怜迩の言葉通りなので、問われた一哉も特に否定はしなかった。
怜迩は、眉一つ動かすことなく、続けて問うた。
「何かあったの?」
突如、1人増えた自分の身を守ってくれる存在に、いくら子供とは言え、何かあったと思わざるを得ないだろう。
気のせいだとは思いたいところだったが、気になる以上、何か策を講じておくべきだろう。
己の考えに従って、一哉は早々に怜迩にとって自分と同じ存在をもう1人用意した。
但し、それは草壁の者ではない。
兄達の不満はありありと手に取るように分かった。
水原に代々仕えてきている草壁家の人間として、水原の直径の孫である怜迩を守る任につくことは、一番の名誉に近いことだ。
現在、一哉にとって2番目の兄である宗司と3番目の兄である御津には、今正式に誰についているわけでもない。
水原には、弥一がついている。
綾には、今は怜迩に掛かりっきりになってはいるが、もちろん一哉だ。
もし、新たに怜迩につける人間を選ぶとしたら、残りの2人のどちらかだろうということは、他の使用人、果ては当人達ですら疑いもしなかった。
しかし、一哉が選んだのは、全く草壁家とは縁のないものだった。
とはいえ、兄達の不満にいちいちそれを気にしている一哉でもなかった。
口をついて出てくる不平、否、雑言も涼しい顔でやり過ごした。
「おや?何かあった方が怜迩様は良かったですか?」
どこか意地の悪さを含ませたような笑みを口許に張り付かせたまま、逆に聞き返した一哉だったが、怜迩は口を閉ざしたまま一哉を見返した後、ふいっと顔を逸らしてしまった。
「別に…、ない方が皆、嬉しいでしょ。そのための新しい人なんでしょ」
「その通りです」
可愛げの欠片もない物言いだったが、ふふっと笑いながら、歩きだした怜迩の後を追う一哉だった。
良家の子女が通う怜迩の小学校では、警備に自信を持っているからか、それが生徒の関係者であっても、部外者として学内に居座ることを良しとしない学校だった。
送迎時間こそ人でごった返す学校周辺もひとたび、朝の波をすぎれば、時折、聞こえてくる子供達の声を除いて、静かな校舎だけが残る。
一哉たちに見送られた怜迩は、颯爽と今にもかけださんばかりの勢いで校舎ないへと姿を消した。
怜迩の姿が見えなくなった後、一哉はふぅっと息を吐き出すと肩を下ろした。
「することないだろ。しばらく、遊んできていいぞ」
背後に立って自分と同じように怜迩の姿が校舎の中へと消えていくのを見守っていた男に相手を見ることもなく言うとそのまま男を置いてどこかへと姿を消そうとした。
慌てたのは、一哉の一歩後ろに控えて一哉と同じように怜迩の後姿を見送っていた男だった。
こちらも去ろうとしている一哉の大きな背中に慌てたように声をかける。
「す、すみません!あのっ!ちょっと」
慌てて俄かに上擦った声を張り上げると2、3歩足を進めた後、足が止まり、ゆっくりと振り返った。
「何だ?」
と問う声は、自分を見つめる視線は、冷え冷えとしていて、一瞬息を呑んでしまう男だった。
「いいのですか?」
視線だけで校舎をちらりと見ると一哉の顔をじっと強い眼差しで見返した。
自分は間違っていないと―心の中で繰り返しながら…。
「伊達」
ただ、己の名を呼ばれただけなのに伊達と呼ばれた若い青年は、背筋をぴんと伸ばした。
「余計なことは、するな。時間の無駄だ」
きっぱりと無駄と言い切った男に、伊達は目を大きく見開いた。
本来ならば、自分には回ってこないはずだった大役に緊張を覚えつつも使命感に燃えていた青年には、その一哉の言葉が信じられなかった。
「…余計、なこと…ですか?」
「ああ。学校が部外者を入ることを良しとしないんだ。俺達が何もできるわけないだろ。時間は有意義に使え」
とだけ言い捨てるともう振り返ることはしなかった。
残された伊達は、自分がどうしていいかわからずにその場に立ち尽くすことしかできなかった。
数時間後、再び姿を見せた一哉は一瞥をくれただけで、伊達から視線を逸らすと黙って伊達の横に立ち、朝見送った子供が帰ってくるのを待った。
ただ、一哉の視線から数時間もの間、動くことなく、じっと待っていただけの自分を馬鹿にされたような気がしてむっとしたように眉間に皺を寄せた。
「ここでずっと立っていたのか?」
その問いに不服そうな声を喉の奥から絞り出す。
「…そうですけど…、何か」
「何か起きたか?」
伊達の言葉を遮って、強い声音で問う。
その強さは、自分の言葉に自信を持っている男の声だった。
答えにまごついたのは、勿論、伊達の方だった。
「…それは」
「時間の無駄だと言った筈だ。次からは、どこかで時間潰してろ」
「でも…何か起きた時に…」
尚のこと食い下がってくる伊達に、一哉はこれ見よがしにため息を吐き出して見せた。
「こっちとしては、学校との間に余計な波風を立てたくないんだ。これは、綾さんの意志だ」
「…旦那様は何と?」
「怜迩様のことに関して、旦那様に口出しをする権利は与えられていない、いや、綾さんが与えさせない。わかったか…」
念を押すように、きつい視線を送るとしぶしぶと言った態で、伊達は頷き、まるで怒られた後の子供のように顔を俯けた。
横目でそれを見ながら一哉は、続けた。
「暇なら仕事をやるが?」
幾分か柔らかくなった声のトーンに伊達は、ちらりと視線だけをそう告げた男に向けた。
にやりと口許の端を吊り上げただけの男の目は決して笑ってなどいなかった。
小馬鹿にされたように感じた伊達は、眉間に皺を寄せて言い切る。
「結構です。自分で、やることくらい探せます」
強い口調に、ふんと軽く鼻で笑うと一哉は子供の声が聞こえ始めた校舎へと目を向け、伊達の顔を見ないまま言った。
「ま。そんな役立たずはいらんがな。お前を選んだ俺の信用に関わる」
その言葉は、伊達の闘志にますます火をつける言葉だった。
眦を吊り上げ、悔しそうに唇を強く噛んだまま、伊達は怜迩が出てくるまでの間ずっと過ごしていたために、怜迩が戻ってきて真っ先に、怜迩に「怖い顔してどうしたの?」と指摘されてしまい、答えに窮してしまう結果となった。
幼い子供の素朴な疑問にあたふたとしてしまった伊達は、己の横で苦笑を浮かべていた一哉の顔を知らない。
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2008
Vizard(74)
今にも駆け出さんばかりの浮き足だった足取りで先を行く怜迩の後を、一定の距 離を保ちつつ追いかける一哉だった。
約束でもしているのだろう。
急いで目的地へと向かっている怜迩は、前だけを必死に見つめ、背後など全く見向きもしない。
一哉は、そんな怜迩の姿にもう少し周囲に気をつけろと小言の一つでも言いたい気分だったが、まだ年端もいかない子供に言ったところで、理解できるわけでも、ましてや実践できるわけもないだろう。
容易にそれが想像つくため、一哉はそのことについて考えることを放棄して後を追いかけることに集中することにしたのだった。
一哉が妙な違和感を感じ始めたのは、いつからだろうか―。
自分以外にも、怜迩の後をつけている存在を感じたのだ。
それは、ともすれば見逃してしまいそうなほどの小さな違和感。
眉間に皺を寄せながら、足を止めて一応周囲に目を配ってみる。
しかし、これと言って怪しい人物も物陰も見えない。
気持ち悪さだけを感じながらも気のせいかと首を傾げた一哉だったが、再び足を動かして、怜迩の後を追うことを再開させた。
――一抹の不安を感じながらも…。
その後も一哉は、周囲に気を配りながらも少し離れた位置から怜迩の動向を見守り続けた。
だが、不安は一向に払拭されない。
それどころか一哉の身の内に積もっていくばかりのようだった。
1人になった自室で、椅子に深く腰掛けながら難しい顔をして考え込む。
気のせいかもしれない。
―だが、この不気味な不安感は何か?
素直に気のせいで片付けられない自分がいる―。
それは、長年の勘とも言えるべきものかもしれない。
考えに耽っていた一哉の耳に遠慮がちに扉をノックする音が聞こえてくる。
ふっと意識をそちらに向けると、一人でに扉が開いた。
そこから顔を出したのは、綾だった。
綾は、素早い身のこなしで室内に身を滑りこませると椅子に座っている一哉に近づいてくる。
「怜迩は?」
「さっき寝たわ」
「不貞腐れてた?」
「寝るまでずっと一哉は意地悪だって言ってたわよ」
つい数十分前までの息子の姿を思い出したのか、くすくすと声をあげて笑う綾に、一哉は苦笑を浮かべた。
「約束を守らなかった怜迩が悪い」
厳しいことを口にしながらも、顔には笑みが浮かべられているのだからその厳しさは表には出てこない。
寧ろ愛情がありありと表れている。そんな表情だった。
「あら、それじゃ仕方ないわね。でも、あれだけぐずぐず言うほど何をさせたの?」
「うーん。大したことはさせてはないと思うんだけどな…素振りを3倍にしただけだけどな」
さらりと恐ろしいことを口にした一哉に綾は一瞬、顔を凍りつかせた後、すぐに噴出した。
今日の一哉の予定には、夕方から剣道の稽古の時間が組まれていた。
しかし、遊びにすっかり夢中になってしまった一哉は、その時間も忘れて遊びすぎてしまい、その時間までには帰ると言ったのに帰ってこれなかった。
当然、「仕方ないですね」と笑って許す一哉ではなかった。
お仕置きとばかりに、その後の剣道の稽古中にいつもよりきつい練習メニューを課したのだった。
不平を言えば、怒られるだけでなく、更にペナルティがつくことを知っている怜迩は、態度では不満だということを表しつつも口には出さずにこなしていた。
しかし、最後の方は、半泣きになりながらではあったが―。
「それは、8歳の子にはきついんじゃない?ベッドに入ってすぐに寝付くのも仕方ないわね」
「これでしばらくは時間に遅れる事はないと思うけど…」
そう口にした一哉はどこか気がそぞろだ。
綾は、怪訝な顔つきで一哉の顔にぐいっと近づけるようにして覗き込んだ。
突如、視界いっぱいに広がる綾の不満そうな顔に彼は、おどろいたように目をぱちぱちを繰り返した。
「何?」
「難しい顔して何考えてるの?」
「あ、いや…。ちょっと気になることが…」
言葉を濁した一哉に更に不満そうに綾は顔をずいっと近づけた。
「何?」
知らないことがあることが許せないというように綾も一哉と同じように難しい顔をして2つの瞳を覗き込んだ。
「何って…何かはよくわからないけど」
「はっきりしないわね」
「はっきりしないんだから、仕方ないだろ」
「ぜんっぜんわかんない!」
ぷぅと頬を膨らませて言う彼女を横目で見ながらも一哉は、何と口にしたら良いか迷いあぐねていた。
考えるだけでも疲労感を感じていた一哉だった。
「何だかよくないことが起きそうなんだよな…」
としか言うことができなかった。
それだけで、綾に伝わるわけもなく…。
綾はますます眉間に深い皺を刻んでいく。
「良くないことってどんなことよ」
俄かに声音がきつくなってしまう。
「んー。わからない」
「何よ…」
「ただ、今日、変だったんだよな」
「今日?」
不満を口にしようとした綾の言葉は、ぽつりと語り始めた一哉の声によって遮られた。
「そう」
「今日って…」
「怜迩が遊びに出かけていったときだよ」
「何が変だったの?怜迩は、時間こそ破りはしたけど、いつもと何も変わらなかったじゃない」
数時間前のことを思い出しているのか、綾は一哉から視線を逸らして何もない空間を見つめた。
「そりゃそうだよ。何もなかったし…」
「じゃあ、いいじゃない」
「そうだったらいいんだけど。どうもな…」
「何がそんなに気になるの?」
「怜迩を追いかけている奴がいるかもしれない」
想像もしていなかった一哉の言葉に、綾は目を瞠って、一哉の顔を信じられないものでも見るかのような瞳で見つめた。
「それって…」
「まだ、憶測の段階だけど」
一哉は、綾を見返すわけでもなく、自分の両手を組み、その指を遊ばせながら淡々と応えた。
問う綾の声は、俄かに震えていた。
「何で?」
「理由までは、わからないけど。探せばいくらでもあるだろ」
「それは、そうかもしれないけど…」
「気のせいかもしれないけどね」
その言葉は、できればそうであって欲しいという一哉の思いが籠められた言葉だった。
誰かにこの不安を消して欲しかった――。
2008
Vizard(73)
「ねぇ、ねぇ。遊びに行ってきてもいい?」
子供の少し甘えたような懇願する声が響く。
毎度のことながら、遠巻きに眺めるものたちは、微笑ましい光景に目を細めるばかりだ。
まだ、幼い小さな手で大きな大人の男の手を掴むと力加減もなく、ぶんぶんと振り回す。
その所為で体を揺さぶられながらも、自然と顔は綻ぶばかり―。
上背のある男を首をこれでもかと曲げて、仰ぎ見ながら上目遣いにしきりに懇願する少年。
すらりと伸びた手足、はっきりとした顔立ちは将来が実に楽しみな風貌だ。
ましてや、これが血の繋がった息子ならば可愛くないわけがない。
今も良い答えを期待したらんらんとした瞳でじっと男を見つめている。
「今日は…」
「わかってるってばぁ。それまでには帰ってくるから!お母さんが一哉が良いって言ったら行ってきても良いって言ったんだもん。ねぇ、いいでしょ?」
ソプラノの声がそう告げるのを聞いて、子供にぐいぐいと腕を引っ張られながら「全くあの人は…」と心の中でため息と同時に零す。
自分に注がれる期待に踊る瞳を見つめ返しながら、苦笑を浮かべつつも仕方なさそうな声で告げる。
「きちんと時間までには、帰ってくるんですよ」
苦笑いとともに彼が云うとぱあっと少年の顔が輝き、嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
「うん!ありがと!」
「その代わり、今日は…」
「いってきまぁす!」
男が皆まで告げる前に、脱兎の如く飛び出して行った少年の耳に男の言葉は届いてはいなかっ。
男がはぁっと息を吐き出しながら、がっくりと肩を落としているとくすくすと笑う声が聞こえてきて、そちらに目を向けると肩を揺らしている同僚と目が合う。
肩を竦めて見せる男に、首を横に振る彼女達。
「あら、でかけちゃったの?」
そこへ、ぎしっと古い家特有の床の軋む音をさせて現れた女が問う。
「…ええ、そうですよ。では、私もいってきます」
息子に自分が良いと言ったのならば遊びに行ってきてもいいと―そう告げた張本人である女に少し恨めしげな視線を送る男に、彼女は気づいているのか気づいていないのか意味深に笑うだけだった。
「よろしくね」
女の言葉を背に受けながら、本来の自分の職務である既にこの場から姿を消した少年の後を追うべく玄関へと向かった。
いつもの午後の一時が、いつものように流れていた。
男の仕事は、たった今まで自分にしがみついていた少年から危険を遠ざけること―。
とはいえ、始終ついて回るのも子供からしてみれば鬱陶しいものこの上ない。
遊びたい盛りの子供からすれば尚更のことだ。
だから、いつも後からこっそりとついていくだけに留まっている。
それは、男の独断で決めたことだったが、子供の母親も容認しているが故に今まで不満等が出たこともない。
「おや、怜迩様どこかにお出かけで?」
「うん!遊びに行ってきまーす」
庭で水やりをしていた老人が小さな少年の姿に気づき、声をかけるが、少年―怜迩は、この後のことに気を取られているのか相手を見ることもなく老人の横を通り過ぎながら大きな弾んだ声で答えると颯爽と姿を消してしまった。
微笑ましい光景に老人の頬の筋肉も緩む。
そんな老人の耳に庭に敷き詰められた砂利を踏む足音が聞こえてきて、口許に笑顔を象ったままそちらへと顔を向けた。
「ご苦労様です」
老人の視線に気づいたその靴音の持ち主である男が一礼すると、口から軽い笑い声を零しながら、目を細めた。
「お元気で何よりです。ついこの間まで、はいはいしていたような気がするのは私だけですかなぁ」
もう姿の見えなくなった誰もいない空間を細めた目で見つめては、誰に聞かせるでもなくそう口にした。
老人と同じように視線を老人から恐らく怜迩が姿を消したであろう方向へと向けていた男に、老人は喉の奥で笑った。
「私のような老いぼれとこんなところでのんびりしていると見失ってしまいますよ。子供は見当もつかないところにすぐ行ってしまいますからな」
という老人の言葉にそれもそうだと思った男は、老人に一礼すると足早にその場を去り、怜迩の後を追いかけた。
今から遡ること数年前――。
国内有数企業の社長の溺愛する娘―水原 綾は決して事実が他者に知られてはいけない出生を持つ赤子を産み落とした。
赤子の父親は、水原が娘にボディーガードとしてつけた草壁 一哉である。
対外的には、赤子の父親は、綾の戸籍上の夫である旧姓・堺―水原 正一の子供となっている。
名を怜迩と名づけられた子供は、成長して8歳になっていた。
彼は、親の欲目なしにも、聡明で勘の鋭い子供だった。
遊びの中に潜ませた英才教育の数々―。
彼は、まるでスポンジが水を吸うかのように吸収してしまっている。
但し、初孫であり、唯一の孫である怜迩を猫かわいがりし、甘やかす水原の存在や、その他の人間に至れり尽くせりの生活を教えられた子供は、同年代の子供よりも傲慢で、自分勝手な子供として育っているのかもしれない。
そんな兆候がみられた。
それでも誰も咎めるものなどいなかった。
―否、咎められるものがどこにいようか…。
この8年間、戸籍の上での父親である堺は、怜迩の前に姿を見せたことはなかった。
全くということではないのだが、少なくとも怜迩の記憶に残っている父親の姿は、朧気だ。
怜迩は、父親というものが、知識として何かは知っているが、実体としての父親は知らない。
それこそ、まだ赤子の頃に何度か対峙はしているのだが、そのたびに一哉が堺から遠ざけた。
何かをしでかしかねない暗い瞳に本能的に危険を感じた一哉の判断だった。
強ち、それは間違いではなかったのかもしれない。
堺は、いわば怜迩が成長するまでの繋ぎでしかないのだ。
怜迩が成長して、水原を告げる人間に成長したときには、用済みとなる。
その時のことを想像しては、実際に危機感を堺は感じていた。
己の血を引いていない己の子に、忌々しさすら感じていた。
それは、日を追うごとに徐々に増していくばかりだった。
いっそのこといなくなれば、全ては自分のものになる―。
男の危険な思想を一哉は感じていたのだろう。
一哉は、怜迩を堺に近づけないその点だけは徹底した。
怜迩が意志を持ち始める頃には、既に怜迩は堺には全く近寄らないようになっていた。
2008
Vizard(72)
「あーー。うーうー」
赤子が何かを訴えようとする姿は、実に愛らしい。
むちむちの肉感たっぷりの小さな短い腕をいっぱいに伸ばして弱弱しい力で、スラックスをぎゅっと握る。
自然と顔が緩むのは、スラックスの持ち主とて例外ではなかった。
周囲を確認した後、しゃがみこむと掴まり立ちをしている赤子に顔を近づけた後、赤子の脇に手を入れ、ひょいっと軽々しく抱き上げる。
「日に日に重くなってくなぁ」
そう感慨深げに呟くと自分の目線と顔を合わせるようにする。
円らな瞳とばっちり目が合い、きょとんとした表情の赤子の顔はどこかおかしい。
だが、赤子の顔はすぐにくしゃりと歪み、ふみゃと小さく声が上がり、慌てて確りと抱き上げた。
「ああ、ごめんごめん」
ぽんぽんと背中を軽く叩いてやるその仕草は、既に慣れた手つきで実に安心して見ていられる。
そんな赤子を抱き上げる男と赤子の姿を見て、同じ空間にいた人物がくすくす笑う。
ふっとそちらに顔を向ける男に、彼女は言う。
「すっかり懐かれたみたいね」
少し離れた位置にある椅子に腰かけながら、机の上に置かれたソーサからカップを持ち上げた後、傾けながら流し見る女は、綺麗に揃えられた爪といい、手入れの行き届いた艶やかな髪は、子供を産んだ一児の母には到底見えない。
乳児の温もりを感じながら、女の姿を見つめた後、もう一度乳児に視線を戻した。
「怜迩…」
小さく乳児の名を口にすると彼は、自分の額と乳児の額をあわせた。
円らな瞳をまん丸にして、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら自分を抱いている男を見る乳児。
男は、額と額を合わせたまま、乳児の名前を口にした時と同様に、小さく口を動かして、密やかな願いを述べた。
「…強くなれ…」
突拍子もないその言葉は、親としての願いか―。
または、己が息子に苦境を強いることへの罪悪感か―。
一日を屋敷の中で過ごす綾に一哉のようなボディーガードのような存在は、不要だった。
一哉は、綾というよりも自分達の子どもである怜迩の側にいた。
一番近くにいる一哉に怜迩はすっかり懐いている。
水原は、初孫の誕生を甚く喜び、不要だと言わんばかりの人数の世話係を怜迩に与えた。
とは言っても、大勢の人数がいても邪魔なだけだ。
それだけでなく、綾が必要以上に人を付けることを嫌がったこともあり、結局一哉のほかに1人だけだ。
堺と言えば、子供が産まれたことによって水原からの信頼を得ることはできたが、肩身が狭いことに変わりはない。
ほとんど屋敷に寄り付かない生活のままだった。
1年近く経過しても、怜迩の顔も数えるほどにしか見たことがなかった。
たとえ、見たとしても堺には、憎い存在のようにしか映らなかった。
その視線の危うさに気づいていたのは、一哉だけでなく綾も同じだった。
綾が、怜迩の出産と育児のために大学を休学して1年近く経つ。
綾としては、中途半端なまま終わらせることはしたくなかった。
そろそろ、復学しようかと思っている綾だったが、不安は家に残していく怜迩だった。
堺の怜迩を見る不気味な暗い視線に不安を覚えずにはいられなかった。
一哉を残していけば大丈夫だろう…とは思っているものの、自分の目の届かない範囲だけに怖いのだ。
「綾。話って何だい?」
夜半過ぎ、話があると言って部屋に現れた娘を父親は、快く迎え入れた。
話があると部屋に入ったものの、何も言い出そうとしない娘に水原が急かすように尋ねる。
ゆっくりと父の顔を見据えて考えていたことを口にした。
「私、大学に復学するわね」
「…」
いいかしら?という疑問系ではなく、決定事項としてそれを口にした娘をまじまじと水原は見つめた。
もう少し遅くからでもいいのではないかと思うのは、何も彼だけではないだろう。
大学は、最長で8年在籍することが可能だ。
急いで1年で復学せずとも、子供が―怜迩が3歳くらいまでなるのを待ってからでもいいのではないかと思っていたのだ。
「そういうことだから」
と言うだけ言って部屋を出ていこうとした娘の背中に、水原は少し動揺で上擦った声で問う。
「もう少し、待ってからでも…」
「嫌よ」
「綾」
頑として譲らない顔で自分の顔を見てくる綾に困惑せざるを得ない。
「子供もきちんと産んだわ。これで、義務は果たしたことだし、後は、私の好きにさせてもらうわ」
既に何度か見たことのあるきつい眼差しに、ぐっと息を呑む水原だった。
一拍の間を置いた後、綾は「それと…」と勿体つけるように、そして、はっきりと宣言した。
「これからは、お父様も指図は一切受けないわ。覚えておいてくれるかしら?」
「何?…綾、待ちなさい!」
言いたいことだけ告げると背を向けて部屋を出ていこうとした綾の背中を厳しい声で呼び止めようとした水原だったが、まるで綾は彼女の言葉を体言するかのように振り返ることも立ち止まることもしなかった。
バタンというドアが閉まる音だけが響いた自分以外の誰もいない部屋で、水原は大きく息を吐き出し、肩をがっくりと落とした。
いつからこうも娘との不和が続いているのか―。
しかし、自分の所為だとは思わない水原だった。
恐らく、彼が認めるか気づくまでは、娘との溝は一向に深まることはないだろう。
困った水原は、最近、富に綾を宥めることに長けている一哉を呼び出した。
しかし、思ったような結果は得られなかった。
その後、次の春から綾は、大学に復学した。
今まで―怜迩を産む前なら、一哉を連れていたが、それは宗司だけになった。
代わりに一哉には、怜迩を守ってと頼んだ綾だった。
守るという言葉は大仰すぎるかもしれないが、綾は怖かったのだ。
色のない堺の怜迩を見る視線が…。
その言葉通り、怜迩の側には常に一哉がいた。
怜迩の話し相手や遊び相手は、一哉だった。
産まれたときから常に自分の側にいる一哉に怜迩はよく懐いていた。
屋敷の中の誰よりも―。
一哉も一哉でただ、甘やかすだけのようなことはしなかった。
将来のために――。
綾もボディーガードとしては、少し行き過ぎている感の否めない一哉の怜迩への接し方へ注文をつけるようなことはしなかった。
そして、綾自身、いつになるかは分からないが、決して遠くない未来のために在籍した文学部とは関係のない、経済の講義を受けたりしながら、綾なりに考えて残りの在学期間を過ごした。
父親の死後、堺と離婚したときのために―。
怜迩が、後を継げるようになるまでの間、自分が代わりとなれるように―。
2008
Vizard(71)
綾が戸籍の上での夫である堺ではなく、使用人の中の1人に過ぎない一哉の子供を生んでからそう時間も経たないうちに関係者に発表された。
国内有数企業の会長である水原の娘である綾が、ゆくゆくは後継者となるべく産まれてきた子供とその子供を産んだ綾に目通りしたいという人物は、吐いて捨てるほどいる。
申し入れのあったものを父親が選別して、あわせる。
綾自身、何度か顔を合わせた者も居たが、次から次へと入れ替わるように現れる人物達に辟易しつつあった。
丁度、疲れがピークに達した頃に父親に連れられるようにして、一度も綾の入院している病院に訪れることのなかった堺が現れた。
はじめ堺の姿を見た瞬間、綾は目を瞠った。
何故こんなところにのこのこ姿を現したのかと言いたい気持ちはあった綾だったが、父親の手前何も言うことができなかった。
ただ、疲れも手伝ってか鋭い睨みだけは消し去ることもできずに強張った表情のまま堺を睨み続けた。
「綾、どうした?そんな怖い顔をして…」
綾のその態度を怪訝に思った父親が声をかけると漸く綾は、堺から目を逸らした。
そして、そのまま父親を睨みつけた。
上機嫌のまま現れた父親は、当然のことながら娘の強張った表情に驚きを隠せなかったようで、面食らったような顔で娘を見た。
「どうかしたのか?」
「…どうかしたのかですって?」
父親の間抜けな問いに食ってかかるように声をあげる。
間違いなくその声音は、不機嫌さを擁していた。
驚きの表情を隠しもせずに、目を見開いて自分を見つめる父親に不満をぶつけた。
「次から次へと人がやってきては、あーだ。こーだ。言いたい放題。これじゃ何のための産後入院かわかんないじゃない。家に帰ってた方がよっぽど楽よ!」
「あ…綾」
綾の癇癪に困惑の表情を浮かべるその時、廊下では規則正しい靴音が響いていた。
部屋の前に立ったその靴音の持ち主は、部屋の中から聞こえてきたヒステリックな声にドアノブにかけた手がぴくりと震えた。
室内にいるであろう部屋の住人が、不満を喚き散らしているのが用意に想像ができた。
その様子から近親者が訪れているのだろうと即座に判断するとドアにかけた手を一度、離してノックをするために軽く握った。
扉に3度、拳を打ち付けてノックしてから室内に入った。
「失礼します」
娘の癇癪にすっかり困惑していた水原は、その声に助けだと言わんばかりに娘から逃げるように部屋の扉付近に顔を向けた。
つられるようにして水原の近くに立っていた堺もそちらへと目を向ける。
綾は、その声の持ち主が即座に誰か分かったので、父親や堺と同様にすぐに顔をそちらへと向けていた。
6つの瞳にほぼ同時に見られたのは一哉だったが、動揺することもなく、自然な様子で部屋にいた者たちに問いかける。
「いかがなさいましたか?」
「あ…いや」
言い淀む水原。
そんな彼を差し置いて、一哉は室内に足を踏み入れると綾の側へと行き、自分が病室から席を離れていた理由でもある綾に頼まれて売店まで行って購入してきたものを差し出した。
「お嬢様。こちらでよろしいでしょうか?」
差し出されたものを受け取った綾は、先ほどまでの癇癪が嘘のように形を潜めていた。
「ええ。ありがとう」
にこやかに笑って受け取る。
水原は、娘の癇癪が収まったことに胸を撫で下ろしたが、面白くないのは堺だった。
但し、それは一哉限定のようだった。
すぐに父親へと向けられた視線は、先ほどよりも穏やかにはなってはいるものの、まだ不機嫌さを表していた。
「それで、お父様達は何の用?疲れてるの早くしてくれないかしら?」
「あ、ああ…」
娘の機嫌の悪さに困惑の色を隠しきれないまま、歯切れの悪い様子で今日、堺を伴ってまで訪れた本題に入ろうとする。
「子供の名前だが…」
最初から自分が決めると言って譲らなかった産まれてから数日経過した子供の名前。
それを聞いたところで、綾の機嫌は何も変わらない。
ツンとした様子で、次を促す。
「やっと決めてくれたの?遅いから忘れているのかと思ったわ」
これでもかというほどのたっぷりと嫌味を籠める。
気色ばんだ水原に対し、綾は涼しい顔だ。
流石に見かねた一哉が綾に釘を刺す。
「お嬢様」
綾は一哉を見て、少しばつが悪い思いをしたのか小さく「わかったわ」と吐き出した。
これで大丈夫かと水原は綾と一哉の様子を見て、次を切り出した。
「それで名前なのだが…、『怜迩』でどうだい?」
どうだといわんばかりに自信満々の表情で、娘の反応を待つ。
―嫌と言ったところで、変える気などないくせに…。
とは、思っていても口には出せない綾。
軽く息を吐き出して2、3度首を縦に振った。
「お父様が考えて、その名前にしたのだから、悪いなんて言える訳ないでしょ」
「そうか」
娘の応えに満足そうに笑う父親。
そんな父親を横目で見つめる綾。2人の間には、明らかな温度差があった。
水原は、満足気な表情のまま姿勢正しく立つ一哉に向き直る。
「これからは、綾だけでなく怜迩も頼む」
「承知致しております」
主でもある男からの言葉に頭を深く下げる。
この病室での用件はもう済んだのか、水原の意識はもう別のところに向いていた。
「それで…怜迩は?」
「怜迩は、今は寝てるわ。残念ね」
「あぁ、まぁ仕方ないか…。お前も疲れているだろうし、怜迩の顔を一目見てから帰るとしようか。正一君、君はどうする?」
「僕も仕事があるのでこのまま帰ります」
「そうか。ほとんどここへ来てないんだろう?偶には…」
「いえ」
水原の気遣いにも首を振って、帰るということを主張する。
強い主張に水原もそれ以上、勧めることもできずに頷くと病室を出て行くために扉へと足を進めた。
「お送り致します」
2人の後を追うように一哉が後を追う。
ガラス張りの新生児室の前まで来ると堺と水原の2人の姿は対照的だった。
嬉しそうに孫の寝顔を満足気に見つめる好々爺たる水原と忌々しいものを見るかのような暗く淀んだ眼光の堺。
一哉は、ガラスの向こうにいる怜迩よりも横に立つ陰惨たる顔付きの堺が気になって仕方なかった。
しばらく見つめた後、満足した水原は病院を去ろうと足を踏み出した。
しかし、水原が動いた後も気づかないのか鋭い眼光で赤子を睨みつける堺。
言い様の知れない不気味さがある。
「正一君…。どうかしたか?」
後ろをついてくると思っていた人物がついてこないことに不審に思った水原が声をかけるとはっとしたように顔をそちらに向けて、小走りで後を追う。
その姿を眇めた目で見ながら、一哉は独り言ちた。
「…気をつけた方がいいな……」
それは、声を発した一哉の耳を掠めただけで他の誰の耳にも入らなかった。
まるで自分に言い聞かせるかのような言葉。
それだけ呟くと2人を見送るためにゆっくりと後を踏み出した。