更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard(72)
「あーー。うーうー」
赤子が何かを訴えようとする姿は、実に愛らしい。
むちむちの肉感たっぷりの小さな短い腕をいっぱいに伸ばして弱弱しい力で、スラックスをぎゅっと握る。
自然と顔が緩むのは、スラックスの持ち主とて例外ではなかった。
周囲を確認した後、しゃがみこむと掴まり立ちをしている赤子に顔を近づけた後、赤子の脇に手を入れ、ひょいっと軽々しく抱き上げる。
「日に日に重くなってくなぁ」
そう感慨深げに呟くと自分の目線と顔を合わせるようにする。
円らな瞳とばっちり目が合い、きょとんとした表情の赤子の顔はどこかおかしい。
だが、赤子の顔はすぐにくしゃりと歪み、ふみゃと小さく声が上がり、慌てて確りと抱き上げた。
「ああ、ごめんごめん」
ぽんぽんと背中を軽く叩いてやるその仕草は、既に慣れた手つきで実に安心して見ていられる。
そんな赤子を抱き上げる男と赤子の姿を見て、同じ空間にいた人物がくすくす笑う。
ふっとそちらに顔を向ける男に、彼女は言う。
「すっかり懐かれたみたいね」
少し離れた位置にある椅子に腰かけながら、机の上に置かれたソーサからカップを持ち上げた後、傾けながら流し見る女は、綺麗に揃えられた爪といい、手入れの行き届いた艶やかな髪は、子供を産んだ一児の母には到底見えない。
乳児の温もりを感じながら、女の姿を見つめた後、もう一度乳児に視線を戻した。
「怜迩…」
小さく乳児の名を口にすると彼は、自分の額と乳児の額をあわせた。
円らな瞳をまん丸にして、ぱちぱちと瞬きを繰り返しながら自分を抱いている男を見る乳児。
男は、額と額を合わせたまま、乳児の名前を口にした時と同様に、小さく口を動かして、密やかな願いを述べた。
「…強くなれ…」
突拍子もないその言葉は、親としての願いか―。
または、己が息子に苦境を強いることへの罪悪感か―。
一日を屋敷の中で過ごす綾に一哉のようなボディーガードのような存在は、不要だった。
一哉は、綾というよりも自分達の子どもである怜迩の側にいた。
一番近くにいる一哉に怜迩はすっかり懐いている。
水原は、初孫の誕生を甚く喜び、不要だと言わんばかりの人数の世話係を怜迩に与えた。
とは言っても、大勢の人数がいても邪魔なだけだ。
それだけでなく、綾が必要以上に人を付けることを嫌がったこともあり、結局一哉のほかに1人だけだ。
堺と言えば、子供が産まれたことによって水原からの信頼を得ることはできたが、肩身が狭いことに変わりはない。
ほとんど屋敷に寄り付かない生活のままだった。
1年近く経過しても、怜迩の顔も数えるほどにしか見たことがなかった。
たとえ、見たとしても堺には、憎い存在のようにしか映らなかった。
その視線の危うさに気づいていたのは、一哉だけでなく綾も同じだった。
綾が、怜迩の出産と育児のために大学を休学して1年近く経つ。
綾としては、中途半端なまま終わらせることはしたくなかった。
そろそろ、復学しようかと思っている綾だったが、不安は家に残していく怜迩だった。
堺の怜迩を見る不気味な暗い視線に不安を覚えずにはいられなかった。
一哉を残していけば大丈夫だろう…とは思っているものの、自分の目の届かない範囲だけに怖いのだ。
「綾。話って何だい?」
夜半過ぎ、話があると言って部屋に現れた娘を父親は、快く迎え入れた。
話があると部屋に入ったものの、何も言い出そうとしない娘に水原が急かすように尋ねる。
ゆっくりと父の顔を見据えて考えていたことを口にした。
「私、大学に復学するわね」
「…」
いいかしら?という疑問系ではなく、決定事項としてそれを口にした娘をまじまじと水原は見つめた。
もう少し遅くからでもいいのではないかと思うのは、何も彼だけではないだろう。
大学は、最長で8年在籍することが可能だ。
急いで1年で復学せずとも、子供が―怜迩が3歳くらいまでなるのを待ってからでもいいのではないかと思っていたのだ。
「そういうことだから」
と言うだけ言って部屋を出ていこうとした娘の背中に、水原は少し動揺で上擦った声で問う。
「もう少し、待ってからでも…」
「嫌よ」
「綾」
頑として譲らない顔で自分の顔を見てくる綾に困惑せざるを得ない。
「子供もきちんと産んだわ。これで、義務は果たしたことだし、後は、私の好きにさせてもらうわ」
既に何度か見たことのあるきつい眼差しに、ぐっと息を呑む水原だった。
一拍の間を置いた後、綾は「それと…」と勿体つけるように、そして、はっきりと宣言した。
「これからは、お父様も指図は一切受けないわ。覚えておいてくれるかしら?」
「何?…綾、待ちなさい!」
言いたいことだけ告げると背を向けて部屋を出ていこうとした綾の背中を厳しい声で呼び止めようとした水原だったが、まるで綾は彼女の言葉を体言するかのように振り返ることも立ち止まることもしなかった。
バタンというドアが閉まる音だけが響いた自分以外の誰もいない部屋で、水原は大きく息を吐き出し、肩をがっくりと落とした。
いつからこうも娘との不和が続いているのか―。
しかし、自分の所為だとは思わない水原だった。
恐らく、彼が認めるか気づくまでは、娘との溝は一向に深まることはないだろう。
困った水原は、最近、富に綾を宥めることに長けている一哉を呼び出した。
しかし、思ったような結果は得られなかった。
その後、次の春から綾は、大学に復学した。
今まで―怜迩を産む前なら、一哉を連れていたが、それは宗司だけになった。
代わりに一哉には、怜迩を守ってと頼んだ綾だった。
守るという言葉は大仰すぎるかもしれないが、綾は怖かったのだ。
色のない堺の怜迩を見る視線が…。
その言葉通り、怜迩の側には常に一哉がいた。
怜迩の話し相手や遊び相手は、一哉だった。
産まれたときから常に自分の側にいる一哉に怜迩はよく懐いていた。
屋敷の中の誰よりも―。
一哉も一哉でただ、甘やかすだけのようなことはしなかった。
将来のために――。
綾もボディーガードとしては、少し行き過ぎている感の否めない一哉の怜迩への接し方へ注文をつけるようなことはしなかった。
そして、綾自身、いつになるかは分からないが、決して遠くない未来のために在籍した文学部とは関係のない、経済の講義を受けたりしながら、綾なりに考えて残りの在学期間を過ごした。
父親の死後、堺と離婚したときのために―。
怜迩が、後を継げるようになるまでの間、自分が代わりとなれるように―。
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