「あの…。ちょっと、気になることが…」
言い難そうな顔でそう口にした伊達の言葉に一哉は、眉一つ動かすことなく耳を傾けた。
反応できなかったのではない。しなかっただけだ。
相手の出方を図っているという方が正しいかもしれない。
伊達から聞かされた内容は、一哉にとってみればさして驚くようなことでもなかった。
既に、知っていたことを聞かされても驚けという方が無理な話ではないだろうか。
一哉にとって詰まらないことを聞かされただけの時間であり、そのまま反応を求める相手に反応を返すことなく、捨て置くことも簡単だったが、一度だけ笑ってみせた。
呆けた顔をしたままの相手に一言。
「殊の外、間抜けじゃなくて良かった」
その言葉の真意は、何か―。
伊達が神妙な面持ちで口にした名前は、既に一哉の与り知るところだ。
その男と伊達の関係も把握済みだ。
とはいえ、2人の関係は一哉にとっても驚くべきことだった―。
まさか、自分自身が雇うのを決めた男が、何の狙いがあってか怜迩をつけている男が知人どころではなく、親しい間柄だったとは思いもよらなかった。
まさに、偶然の一致。それだけなのだ。
一哉が、最初に不審に思ったタイミングは、伊達のものと全く同じだった。
怜迩を通わせている学校には、怜迩の他にも資産家の子供が通う学校だけに、登下校時に自分と同じような存在がちらほら拝見することができたのだが、伊達が山崎の姿を見つけ、怪訝に思いながら声をかけたその日、一哉は遠目に伊達と山崎が話しをする姿を見て目を細めた。
全てとは言わないが、一哉は登下校時に学校前に現れる部外者の顔はほとんど把握していた。
その中で伊達と少しだけだが、会話を交わした男は初めて見る顔だった。
男は、伊達と2、3言だけ交わした後にすぐにどこかへと姿を消した。
それが答えだった。
学校に関係のあるものがこの場にいたのならば、すぐに姿を消すなどとはしない筈だ。
学校に通う子供を迎えに来たのなら、子供が出てくるまで待っているはずだ。
また、学校関係者に用があるならばこんなところで立ち止まっていることなく、中へと入っていけばいいだけの話だ。
中に入ることもせず、また、これから出てくる子供を待つわけでもなく、慌しく去っていく男からは、怪しさと不審しか抱かなかった。
体のどこかで警鐘が鳴るのを感じた一哉は、すぐさま行動に移した。
その日のうちに男の身元は割れた。
伊達と男の関係も―。
ただ、何故この場にいたのか狙いは分からなかった。
狙いは怜迩なのか―。
それとも別の何かか―。
時間の経過とともに、一哉の危惧は大きくなっていき、彼に危機感をもたらした。
偶然とはいえ、男と言葉を交わしていた伊達にも疑いの目が向き始めたのは自然なことだろう。
一哉が自分のネットワークを使って男―山崎のことを調べさせたは、いいのだが、一向に尻尾を出さないというか、相手も同業者だ。簡単に尻尾を掴ませるようなヘマもしない。
時間が経過しても、一哉が知ることができたのは、どうやら山崎の狙いが怜迩であるということ。
そして、伊達と何やら親しい間柄であるということだけだった。また、伊達についても図りかねていた―。
男の存在に気づいていながら、一哉に報告してきたのは、遅すぎるくらいだったことも一哉の疑心暗鬼に拍車をかけていた。
時間を浪費しただけで、大した情報も得ることができずに一哉は痺れを切らした。
空白の時間を作った。
態と怜迩が、1人になる時間をお膳立てしてやったのだ。
その日、突如として寄り道をするように命じた一哉に伊達が怪訝な顔つきでまた、不満げな様相をしているのを気づいてはいたが、敢えて、そうさせた。
いくら相手の出方を見るためとはいえ、怜迩を1人にすることはそのまま彼の危険に直結する。
恐らく、綾が知ったら怒り狂ったかもしれない。
あぶりだすためとは言え、みすみす危険に晒すなどとは、仮に綾が知ったとしたら怒り心頭だろう。
当初、半ば思いつきだけで怜迩が1人になる時間を作った一哉だったが、それに素直に相手がかかってくれるとは思ってもみなかった。
しかし、相手は通常であれば、一哉と伊達が一緒にいるはずの怜迩の側に誰もいないという千載一遇のチャンスに飛びついた。
伊達の運転する車で、到着した頃には、既に怜迩が出てきてもいい時間だったのだが、そこに怜迩の姿はなかった。
苛立たしげな様子で、車から降りた伊達を横目に一哉は、伊達とは違う方向に目を向けた。
ここにいなければ、怜迩がいる場所とすれば校内にまだ残っているか或いは、既に校外に出ているかのどちらかだ。
伊達が、校内にいる関係者に怜迩の居場所を聞こうとするのならば、自分は逆を気にして然るべきだ。
助手席の窓から車の背後を見ると小さな物陰を見た。
直感的に何かを感じた一哉は、衝動的に飛び出した。
乱暴にドアを閉めると後方を確認した。
間違える筈もなかった。すぐに道路に飛び出そうとしている後姿が怜迩だと分かった。
何故、道路の真ん中にいるのだという疑問が浮かびあがってくる前に、道路の向こう側に転がったサッカーボールの存在に気づいて状況を把握した。
そして、前方から近寄ってくる車に気づき、体に緊張感が走る。
「戻れ!」
一哉は、前方に向かって進んでいた伊達の背中を呼び止めた。
呆けた顔をして、自分を見ている伊達に向かって間髪入れずに声を張り上げた。
「ぼけっとするなっ!!」
伊達に背を向けると先に一哉は走りだした。
すぐに背後から、追いかけてきたと感じた男は、すぐに横を風が通りすぎるとともに、体が小さな子供を抱いて地面を転がった。
直後に己の目の前を急ブレーキを効かせたために盛大な音を鳴らして車が通り過ぎていき、数メートル先で止まった。
辺りには、タイヤとアスファルトの摩擦によってタイヤのゴムか、アスファルトの表面か何かが溶けたような嫌な匂いが立ち込める。
伊達と怜迩の無事を確認した後、一哉は迷わず車に向かって駆け寄った。
急停止によって車体が揺れ、その影響によって大きく体も揺さぶられたに違いない。
運転席に座る男はハンドルにもたれるようにして、背中を丸め、大きく深呼吸を繰り返していた。
一哉は、その男の姿を窓の外から一瞥した。
一哉が太陽の光を遮るようにして立っていたために、不自然な影ができたことによって車内の男は、顔をゆっくりと持ち上げた。
しかし、次の瞬間持ち上げた足で一哉が強く車体を蹴り付けたことによって生じた音にびくりと体を震わせた。
そして、さらに男―山崎は、一哉の般若然とした鬼気迫る表情にひっと喉の奥で悲鳴を飲み込んだ。
それと時、同じくして、ガラスが一瞬に割れる音がしたと思ったの束の間、自分の脳が揺れるのを山崎は感じた。
砕けたガラスがぼろぼろと零れ落ちる音と、ぐわんぐわんと揺れる視界。
一哉が車を力いっぱいに蹴り付けるとべこっと車体は変なへこみを作った。
力を入れれば入れるほど、己の体に返ってくる反動はさらに強い衝撃となる。
硬い金属を蹴ったことによって自分の右足は、じんじんと痺れてはいたが、構わずに肘を思いっきり力を入れて、窓ガラスに叩き付けた。
ピシッと言うガラスに日々の入る音がしたと思ったら、次の瞬間には粉々に砕け、そのまま運転席に座っていた男の右頬にヒットした。
醜い悲鳴が一哉の聴覚を刺激する。
一哉の肘が入った頬を押さえながら呻く男を気にすることなく、一度引いた腕を伸ばして肘についたままのガラスの破片を振り落とすと、もう一度腕を伸ばして、かかっていたロックを外すと、乱暴に扉を開け、痛みに呻く男を引きずり下ろした。
一哉は、男の頤を掴み上げ、ぎりぎりと力を入れて締め上げた。
苦しげな呻き声に煩わしげに眉間に皺を寄せた。
「覚悟はできてんだろうな。てめぇ」
地を這うような声に、今にも意識さえ飛んでしまいそうな男は、戦慄を覚えた。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (80)
伊達に怜迩を狙った男の見張りを命じた後、怜迩を連れ帰るために、自分たちが乗ってきた車に戻る。
すぐ様、屋敷に送り届けるとただならぬ一哉の様子と傍らにいつもついている伊達の姿ないことに出迎えた使用人の者たちが何かを感じたのだろう、綾を呼び寄せた。
怜迩の世話を使用人に任せて、一哉はすぐさま綾に自分が見てきたものとこれからの予測をあくまで私的な見解に過ぎないが述べた。
綾の驚きようと言ったらなかった。
ただ、怜迩の無事が確認できていたので、そこまで動揺を周囲に見せることはなかった。
すぐに伊達と怜迩を狙った男を残してきた事故のあった現場に戻るという一哉を送りだし、綾は綾で父親である水原にすぐに連絡を取り始めたのだった。
ハンドルを握る一哉の眉間には、深い皺が刻まれていた。
自分が巻いた餌に飛び掛ってくれたのは、いいが…。
伊達と繋がりのある男と伊達を残してきたことを早くも後悔していた。
もし、伊達が逃がしていたら―。
とはいえ、一哉とて考えなしに伊達と山崎の2人を残してきたわけではない。
もし、伊達と山崎の2人が繋がっていたとしたら、2人を残すことで何かを燻りだせるかと思ったのだったが、万が一のために秘密裏にもう1人信用に値する人間を置いておくべきだったと自分の誤算を悔いていたのだ。
そもそもが思いつきで行動しただけに招いたものだから、後からいくら悔いたところで後の祭りだ。
ここまできたら、数あるリストの中で伊達という男を選別した自分の目を信じるしかないというところか―。
少し離れた位置に車を止めて、まだ人だかりが出来ている間を縫って、自分が置き去りにしてきた2人の許へ急いだ。
遠目に、まだこの場に2人がいることを確認してほっと胸を撫で下ろした。
しかし、一哉が安堵したのも束の間、山崎の体が急に立ち上がり、伊達の横をすり抜けて逃げようとしたのを目にした瞬間、ちっと舌打ちをして、体を群集の中から出そうとした。
だが、一哉の危惧を余所に、背後から伸びてきた伊達の手が山崎の体を引き寄せ、地面へと叩き付けた。
ザザァという地面と人体のすれる音が聞こえてきた直後、伊達の恫喝が聞こえてくる。
「あんた。どこまで、醜態さらせば気が済むんだ!」
苛立ちにも似た、怒声だった。
そして、直後の懇願にも似た忠告。
「いい加減、諦めろよ…」
車の中で抱いていた悪い予想が、全くの杞憂だったことを知る。
一哉は、ふっと頬を緩めるとゆったりとした足取りで、群集から抜け出すと、2人に近づいていった。
くすくすと笑いながら―。
一哉の笑い声は、2人の耳にも届いたようで、2人はゆっくりと振り返った。
1人は、動揺したように不安に揺らめく瞳で、もう1人は恐怖に怯えた瞳で自分を見ている。
伊達の横に立つとポンッと労うように肩を叩いた。
「上出来だ」
何が?と怪訝に思った伊達が問う前に珍しくも一哉が彼に答えをくれた。
「お前が、命じられたことも忘れて情に流されるような温い男じゃなくて良かったと言っているんだ。そんな不思議そうな顔をすることないだろう」
最後の揶揄うような言葉に、はっとして伊達は、顔を締めなおし、佇まいを正した。
そして、初めて気づいた。
この状況においても男が自分を試していたことに―。
なんという男だと脱帽すると同時に、やはり恐ろしさにも似た感情を抱いてしまう。
同時に褒められたのだという嬉しさのようなものも感じていた。
一哉は、すでに伊達には興味を失ったように、今は、ただ山崎に威圧感を与えるべく、凶悪な笑みを浮かべて上から見下ろしていた。
「さて、洗いざらい吐いてもらおうか…」
「…」
口を割らないという意志の表れか、ただ、恐怖に戦いて何も口にすることができないだけなのか。
どちらかは分からないが、男は一哉の言葉に何の反応も示さなかった。
「五体満足で帰れると思うなよ」
顔をずいっと近づけて、低い凄むような声に息を飲んだ。
切れ長の奥の瞳が今にも人を殺しそうな殺人鬼のような鈍い光を放っていた。
背筋があわ立ち、今すぐにでもこの場から逃げ出したいと思ったが、逃げ出す事などできなかった。
逃げ出すような隙もなければ、体も動きそうになかった。
がっくりと項垂れた男から、離れると一哉は背後に立ったまま控える伊達に次の命令を下した。
「お前は、ここを片付けろ」
「…はい」
「終わったら、屋敷へ戻れ。また、連絡する」
「…あの、」
―山崎をどうするつもりなのか。
山崎には、今先ほど一哉が口にしたように五体満足で帰れないと伊達自身も告げたはずなのに、そう簡単に割り切れるわけもなく、彼の行く末が不安になって尋ねようとした伊達だったが、肝心な言葉は出てきてはくれなかった。
不安に泳ぐ伊達の瞳に、一哉はそれを悟ったのだろう。
ふっと顔を緩めて、伊達の耳に顔を近づけて彼にだけ届く小さな声で告げる。
「吐くもの吐けば、解放してやる。奴が黙っているようならば、多少は覚悟して貰わなならんがな…。その後は、奴のクライアント次第だ」
という一哉の答えは、今の伊達に出来ることは何もないということだった。
小さな声で、「わかりました」と応えた伊達は、後はもう何も見ないようにと2人に背を向けた。
明らかに落胆している伊達の背中を見つめ、今の彼の複雑な心情を慮ると仕方ないかと嘆息を小さく漏らす一哉だった。
だが、そうゆっくりもしていられないのが現状だ。
場の収拾を伊達に任せて、項垂れる山崎を連れて、一哉はその場を離れた。
伊達は、車のレッカーや群集の整理に殊の外時間を取られてしまった。
全てを終える頃には、日が暮れていた。
静けさを取り戻した道路に佇んでいると、恐らく怜迩が追いかけようとして道路に飛び出した原因であるボールが転がっている。
それをじっと見つめていた伊達は、ゆっくりとそのボールを拾い上げると腕に抱えて、一哉に命じられたように屋敷へと帰るために帰路についたのだった。
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2008
Vizard(79)
車の急ブレーキ音は、辺りに大きく響いていた。
その騒音に気づいて、何事かと不審に思い、外に出てきた者たちは、道路沿いに佇んで見物人と化していた。
ざわめく人の声と衣擦れの音に混じって、自分へと近づいてくる重い足取りの足音が耳に入ってくるのを一哉は車外から引きずり下ろした男を片手で締め上げながら感じた。
重みは違えどその足音の持ち主が誰かは、聞きなれた足音に見なくても分かっていた。
それに合わせるようについてくる小さな足音も。
彼らは一哉のすぐ側までくると、ぴたりと足を止めた。
次に聞こえてきたのは、ひどく力の無い声だった。焦燥と疑念にかられた男のもの―。
「あんた。何がしたかったんだ…」
一哉によって締め上げられていた男は、その伊達の問いに応えることなどできずに苦悶の声を漏らすだけだった。
ふっと手を緩めると一哉は、背後を振り返り、厳しい顔をしたまま伊達を振り返った。
ゆっくりとした動作で地面に放り捨てた男に背を向けると伊達に近づき、ぽんと肩を叩いて、彼の耳に口を近づけささやくように命じる。
「お前が、この男を見張っておけ」
とだけ命じ、一哉は伊達の傍らに立ち、伊達の手を不安気に握る怜迩の前に立ち、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「怜迩様、お怪我はありませんか?」
問われた怜迩は、きょとんとしたままの目で一哉を見ると、一瞬の間を置いて、こっくりと頷いてみせた。
「…うん。伊達がきてくれたから大丈夫」
「それは、良かったです。さぁ、帰りましょうか?」
「…うん」
不安感を抱かせないようにとの一哉の笑みかもしれないが、相手に拒絶や疑問を抱かせることを良しとしない雰囲気を持っていた。
幼い怜迩は、ひとつの疑問を持つこともなく、一哉の言葉に大人しく従うだけだった。
とはいえ、怜迩とて、緊迫した空気はその体で感じ取っていたのだ。
ただ、ここに自分は不要な人間だと悟っていたから、余計なことを言わなかっただけのこと―。
遠ざかる2つの足音を耳にしながら、伊達はゆっくりと呻き声を上げる男に近づいた。
恐ろしいほどに矮小な男に見える、それ。
自分の知る男とは思えなかった。
―だが、自分の知る男であるのに間違いはなかった。
ただ、佇んで男を見下ろしていた伊達だった。
というよりも、困惑が彼の中で大きく占めていて、どうしていいのかわからないという所が正しい答えだったのかもしれない。
「だ…伊達」
やがて、痛みが落ち着いてきたのだろう負傷していた男―山崎が苦しげな声で、伊達の名を口にした。
その呼びかけにはっとしたように目を開き、伊達はぼんやりと山崎を見つつも虚空をみていた瞳の焦点を男に合わせた。
「た、頼む。見逃せ…」
山崎の懇願に伊達の瞳はさらに見開かれ、今にも瞳が零れ落ちそうなほどだった。
信じられないものを見るかのように尚、無様なことを口にする男を見続けた。
頭の中で何もまとまってなどいないのに、何かを告げようとして開いた口は言葉を紡げるはずもなく、喉の奥で空気だけが空回りしていた。
「…あ、あんた…」
「頼むっ!あ、あの男は、草壁だろう。あいつに目を付けられて無事でいられた人間はいない…。俺は、まだっ」
姿勢を正して、地面に額を擦り付ける男のなんと無様なことか―。
思わず目を覆いたくなる。
だが、現実は無情だ。
今、伊達の目に映るものが何を差し置いても、彼の現実でしかないのだ。
伊達の中にいる過去の男の姿は、もうここにはいなかった。
気づけば伊達は、今の今まで微動だにすることなかった足を振り上げて男の顔を蹴り飛ばしていた。
人の肉を蹴る不快な感触と鈍い音が、辺りに響く。
見物人と化していた人間達の、息を飲む音が彼の聴覚を刺激する。
「…だ、…伊達。頼む…」
それでも、男の懇願の声がやむことはなかった。
「黙れ」
伊達自身、思っても見なかったほど冷え冷えとした声が口から出た。
愕然とした表情で自分を見てくる男に侮蔑の眼差しを向ける。
「遅いんだよ。あんたは、あの人にケンカを売ったんだ」
ケンカなどという可愛いものではなかったが、既にハレーションを起こした伊達の頭では、ぴったりと当てはまる言葉など他に思いもつかなかった。
もう目の前の男が、自分の記憶の中にある男ではないと思えるようになっていた。
無様すぎる男の醜態を目にして――。
「俺に懇願するよりも五体満足で帰れるかどうか心配してろ」
「…お前…」
「俺のクライアントは、草壁 一哉あの人だ。クライアントの命令は絶対。俺達の仕事はそういうもんだ。友人、先輩、後輩そんなもの関係ない。そう、俺に教えたのは、あんただろ」
いつかの時分に己が告げた言葉を数年後、告げた相手からそっくりそのまま返されるなど誰が予想していただろうか。
落ち着いた、いや、落ち着きすぎていて不気味な印象さえ与えるほどの抑揚の無い声で伊達は告げる。
「覚悟しておいた方がいい。あの人は噂に違わぬ怖い人だ―。あんたのクライアントの洗いざらい吐くまで許して貰えない。それだけで済めば安い方だ。失敗に終わったが、あんたは水原の家の者を狙ったんだ」
他人から口にされてその恐ろしさに気づくことはままあることだ。
まさに男が今、そうだった。
自分の行動の及ぼす範囲まで見えていなかった。
急に一哉の存在だけでなく、その背後にある力の恐ろしさを自覚した男の体はぶるぶると震えだした。
水原の家の者に手を出したということは、水原に連なるものを全て敵に回したことになる。
このまま、見逃してもらえるわけも、その後、のうのうと暮らしていけるはずもないということくらい男の動転した頭でもたやすく試算が出来た。
一哉が戻ってきた時が、地獄の始まりだ。
震えの止まらぬ体で、伊達を見た山崎は、今、この状況ならば逃げるチャンスはあるかと視線を右へ左へと走らせた。
視線の定まらぬ男を怪訝な瞳で見据えつつ伊達は、一哉が戻ってくるのを待った。
どれくらいそうしていたであろうか―。
突如として男がふらりと立ち上がる。
伊達は、まさか立ち上がるとは思っても見なかったので、一瞬、虚を吐かれたようになり、反応が出遅れた。
「なっ!!」
その隙をついて、山崎は伊達の横を走り抜けようとした。
しかし、既に痛めつけられた体では、全力で走ることもできずに、すぐに伸びてきた伊達の手によって引き戻されるだけに終わった。
横をすり抜けるようにして走り出した山崎に伊達は、反射的に手を思いっきり伸ばして引き寄せた。
後、一瞬遅れていたら逃していたところだったかもしれないが、何とか後ろ襟を掴んで自分に引き戻すことができた。
力一杯引き寄せたために、地面に音を立てて転がったが、既にいくつも傷を負っている山崎だ。問題はないだろう。
「あんた。どこまで、醜態さらせば気が済むんだ!」
地面に這い蹲り、痛みに呻く男に向かって、恫喝した。
プライドも何もない男に向けて―。
なりふり構っていられない相手が聞いているとは思えなかったが、それでも伊達は口にせずにはいられなかった。
「いい加減、諦めろよ…」
その後に続いた声は、打って変わって今にも泣きそうな声だった。
がっくりと項垂れた山崎は、肩を震わせた―。
そんな2人のもとに、くすくすと笑う男の声が聞こえてきたのは直後のことだった。
2008
Vizard(77)
以前から、感じてはいたのだ。
ただ、分かってはいても認めたくなかっただけなのだろう。
己の口から彼の名前を呼びたくなかった―。
想像と言う名の確信を現実というものとして認識したくなかったのだ。
知らない振り、気づかない振り―。
こうすることは、簡単だったかもしれない。
しかし、本来愚直な伊達にはできなかったのだ。
伊達が、一哉の補佐という形で怜迩のボディガードとして働くようになってから数日経過していた時だった。
未だに悩みのようなものを抱えていた伊達だったが、日の経過とともに違和感を感じ始めていた。
最初は、ほんの偶然としか彼も思っていなかった。
怜迩を見送った後、すぐに姿を消した一哉においていかれるような形になった伊達が、今日はどうしたものかとくるりと体の向きを返した瞬間に目があった。
すぐ近くにいる見慣れた姿に伊達は、目を見開いて驚いた表情をしてみせた。
記憶に馴染んだ後姿は、すぐに彼だと理解できた。
考えるよりも先に体が動いていたというのが正しいだろう。
自然と口をついて言葉が滑り落ちた。
伊達には気付くことのなかった男が、己の名が呼ばれたことに驚いて体が硬直したように背筋をぴしっと伸ばして、ゆっくりとぎこちない動きで振り返った男の顔に、伊達の眉間に皺が自然と寄った。
それは、男の顔が何かを繕うように卑屈な笑みが浮かんでた所為かもしれない。
「だ…伊達。あ…、お前こそ…」
「私のクライアントがこちらにいますから。山崎さんは?」
落ち着いた声で伊達が答え、一歩近づくとさらに男の顔は強張った。
「俺のクライアントも…」
「そうですか。では、私はこれで」
あからさまな不自然さにも伊達は、気づかない振り―気にしないように自分に言い聞かせた。
これ以上、不信感を抱く前に怜迩が校舎から姿を見せてくれたことは、伊達にとって有難いことだった。
怜迩が戻ってきた以上、その場に留まる理由は何一つない。
「あ…、ああ」
正直なところ、この時から確信めいたものはあったのかもしれない。
自分が慕う男の暗い影に―。
その日以来、伊達は自然と以前よりも目を周囲に配るようになった。
その所為もあってか余計に目がつき始めた。
自分でさえ違和感を覚えているのだから、一哉が気づかないはずはない。
もの言いたげな一哉の視線を感じつつも伊達は、何一つ気づかない振りをし続けた。
しかし、それも長くは続かなかった。
自分が出向く先々にいるのだ。
怜迩がすぐ側にいるときのみ…。
伊達が1人でいるときには、気配はなかった。
そうとくれば、例え鈍感な人間であろうとその真意に気づくはずだ。
それが、一般の人間ならば気づかないであろう、さりげなさであっても同業者に通用するはずもなかった。
伊達は、一般に言うならば普通というカテゴリに分類される人間でもない。
ましてや、もうこの世界に7年も身をおいている伊達にしてみれば、気づかないとでも思われているのだろうかと邪推してしまうほどだった。
普通の神経をした人間ならば、気味悪さを感じて然るべきだろう。
伊達にとって守るべき対象が怜迩であり、己の仕事は彼を危険に晒さないこと。もし、危険がすぐ側に来ているだとしたら、回避すること。
それは、怜迩と離れていてはなかなか難しい。
故に、一緒にいる時間は多い。
従って、たとえ自分ではなくとも自分がつけられているのではないかと思ってしまうのも仕方ない。
そして、通常の感覚の持ち主ならば気味の悪さを感じるものなのかもしれないが、それ以前に感じるべきは、危機感だろう。
そう。
自分ではなく。自分が守るべき対象の―。
いくら、己が世話になった男とは言え、自分の仕事、即ち、己がプライド、己の評価に直結するものまで明け渡すことなどできない。
迷った末に、現在の自分のクライアントである一哉に打ち明けた。
ずっと気づいていたことは、既に承知の上かもしれないと伊達は、構えていた。
どんな辛辣な言葉が出てくるのかと戦々恐々としていた。
しかし、帰ってきたのは声を荒げるわけでもなく、まるで詰まらないものを聞いたかのような無感情な平坦な声だった。
「いつから…?」
端的に、それ以上聞かなかった。
しかし、それに続く言葉を伊達は的確に理解していた。
―気づいていたのはいつからだ…。
と。
最初に引っかかりを覚えた時を正直に伝えた伊達に彼は一瞬だけ口の端を持ち上げ、笑ってみせた。
秀麗な顔に浮かんだ笑みを目撃した伊達が呆けた顔で、もう既に無表情に戻った一哉の顔を凝視し続けていた。
「殊の外、間抜けじゃなくて良かった」
とどこか揶揄するような台詞だったが、伊達は呆然と一哉の顔に見蕩れていたために、その言葉に反応できるまでに、いつもより時間がかかった。
しかし、それ以上何も聞かれることもなかった。
どうして良いかわからずに迷いあぐねた結果、相談の意味も籠めて一哉に伊達は聞いたのに、彼は答えをくれるどころか、それっきり何も言ってはくれなかった。
そして、そのまま時間は経過してその日が来たのだ。
心臓が早鐘を打つのは、命の危険に晒されたであろうか。
それとも、受け入れたくない事実から目を背けたいという心の現われか。
ただ、分かるのは自分が危険から庇うように抱きかかえた子供の体温が伝わってきて、まだ幼い彼が生きているということを告げる温もりだけだ。
彼の―怜迩の無事と怪我がないことを確認すると怜迩を立たせて、自分も立った。
そして、急ブレーキによって急停止したままの車へと近づいていった伊達だった。
そこには、一哉の手によって外に引きずり出された男が萎縮して地面に座っていた。否、座らされていた。
首根っこを乱暴に掴まれ、いつもはかっちりと着込んだスーツがよれよれになり、惨めに項垂れる姿を見た瞬間に伊達の口から滑り落ちるように力ない声で男の名が紡がれた。
「山崎…さん」
がっくりと地面だけを見つめていた男だったが、その聞き覚えのある伊達の声には反応したように顔をあげた。
伊達と男の目があった瞬間、2人の視線は180度全く異なるものだった。
縋るような男の瞳と―。
軽蔑の意味を含んだ伊達の瞳。
そこには、伊達がかつて憧れ、尊敬していた男の面影など一切残ってはいなかった。
「あんた。何がしたかったんだ…」
ただ、分かってはいても認めたくなかっただけなのだろう。
己の口から彼の名前を呼びたくなかった―。
想像と言う名の確信を現実というものとして認識したくなかったのだ。
知らない振り、気づかない振り―。
こうすることは、簡単だったかもしれない。
しかし、本来愚直な伊達にはできなかったのだ。
伊達が、一哉の補佐という形で怜迩のボディガードとして働くようになってから数日経過していた時だった。
未だに悩みのようなものを抱えていた伊達だったが、日の経過とともに違和感を感じ始めていた。
最初は、ほんの偶然としか彼も思っていなかった。
怜迩を見送った後、すぐに姿を消した一哉においていかれるような形になった伊達が、今日はどうしたものかとくるりと体の向きを返した瞬間に目があった。
すぐ近くにいる見慣れた姿に伊達は、目を見開いて驚いた表情をしてみせた。
記憶に馴染んだ後姿は、すぐに彼だと理解できた。
考えるよりも先に体が動いていたというのが正しいだろう。
自然と口をついて言葉が滑り落ちた。
伊達には気付くことのなかった男が、己の名が呼ばれたことに驚いて体が硬直したように背筋をぴしっと伸ばして、ゆっくりとぎこちない動きで振り返った男の顔に、伊達の眉間に皺が自然と寄った。
それは、男の顔が何かを繕うように卑屈な笑みが浮かんでた所為かもしれない。
「だ…伊達。あ…、お前こそ…」
「私のクライアントがこちらにいますから。山崎さんは?」
落ち着いた声で伊達が答え、一歩近づくとさらに男の顔は強張った。
「俺のクライアントも…」
「そうですか。では、私はこれで」
あからさまな不自然さにも伊達は、気づかない振り―気にしないように自分に言い聞かせた。
これ以上、不信感を抱く前に怜迩が校舎から姿を見せてくれたことは、伊達にとって有難いことだった。
怜迩が戻ってきた以上、その場に留まる理由は何一つない。
「あ…、ああ」
正直なところ、この時から確信めいたものはあったのかもしれない。
自分が慕う男の暗い影に―。
その日以来、伊達は自然と以前よりも目を周囲に配るようになった。
その所為もあってか余計に目がつき始めた。
自分でさえ違和感を覚えているのだから、一哉が気づかないはずはない。
もの言いたげな一哉の視線を感じつつも伊達は、何一つ気づかない振りをし続けた。
しかし、それも長くは続かなかった。
自分が出向く先々にいるのだ。
怜迩がすぐ側にいるときのみ…。
伊達が1人でいるときには、気配はなかった。
そうとくれば、例え鈍感な人間であろうとその真意に気づくはずだ。
それが、一般の人間ならば気づかないであろう、さりげなさであっても同業者に通用するはずもなかった。
伊達は、一般に言うならば普通というカテゴリに分類される人間でもない。
ましてや、もうこの世界に7年も身をおいている伊達にしてみれば、気づかないとでも思われているのだろうかと邪推してしまうほどだった。
普通の神経をした人間ならば、気味悪さを感じて然るべきだろう。
伊達にとって守るべき対象が怜迩であり、己の仕事は彼を危険に晒さないこと。もし、危険がすぐ側に来ているだとしたら、回避すること。
それは、怜迩と離れていてはなかなか難しい。
故に、一緒にいる時間は多い。
従って、たとえ自分ではなくとも自分がつけられているのではないかと思ってしまうのも仕方ない。
そして、通常の感覚の持ち主ならば気味の悪さを感じるものなのかもしれないが、それ以前に感じるべきは、危機感だろう。
そう。
自分ではなく。自分が守るべき対象の―。
いくら、己が世話になった男とは言え、自分の仕事、即ち、己がプライド、己の評価に直結するものまで明け渡すことなどできない。
迷った末に、現在の自分のクライアントである一哉に打ち明けた。
ずっと気づいていたことは、既に承知の上かもしれないと伊達は、構えていた。
どんな辛辣な言葉が出てくるのかと戦々恐々としていた。
しかし、帰ってきたのは声を荒げるわけでもなく、まるで詰まらないものを聞いたかのような無感情な平坦な声だった。
「いつから…?」
端的に、それ以上聞かなかった。
しかし、それに続く言葉を伊達は的確に理解していた。
―気づいていたのはいつからだ…。
と。
最初に引っかかりを覚えた時を正直に伝えた伊達に彼は一瞬だけ口の端を持ち上げ、笑ってみせた。
秀麗な顔に浮かんだ笑みを目撃した伊達が呆けた顔で、もう既に無表情に戻った一哉の顔を凝視し続けていた。
「殊の外、間抜けじゃなくて良かった」
とどこか揶揄するような台詞だったが、伊達は呆然と一哉の顔に見蕩れていたために、その言葉に反応できるまでに、いつもより時間がかかった。
しかし、それ以上何も聞かれることもなかった。
どうして良いかわからずに迷いあぐねた結果、相談の意味も籠めて一哉に伊達は聞いたのに、彼は答えをくれるどころか、それっきり何も言ってはくれなかった。
そして、そのまま時間は経過してその日が来たのだ。
心臓が早鐘を打つのは、命の危険に晒されたであろうか。
それとも、受け入れたくない事実から目を背けたいという心の現われか。
ただ、分かるのは自分が危険から庇うように抱きかかえた子供の体温が伝わってきて、まだ幼い彼が生きているということを告げる温もりだけだ。
彼の―怜迩の無事と怪我がないことを確認すると怜迩を立たせて、自分も立った。
そして、急ブレーキによって急停止したままの車へと近づいていった伊達だった。
そこには、一哉の手によって外に引きずり出された男が萎縮して地面に座っていた。否、座らされていた。
首根っこを乱暴に掴まれ、いつもはかっちりと着込んだスーツがよれよれになり、惨めに項垂れる姿を見た瞬間に伊達の口から滑り落ちるように力ない声で男の名が紡がれた。
「山崎…さん」
がっくりと地面だけを見つめていた男だったが、その聞き覚えのある伊達の声には反応したように顔をあげた。
伊達と男の目があった瞬間、2人の視線は180度全く異なるものだった。
縋るような男の瞳と―。
軽蔑の意味を含んだ伊達の瞳。
そこには、伊達がかつて憧れ、尊敬していた男の面影など一切残ってはいなかった。
「あんた。何がしたかったんだ…」
2008
Vizard(76)
小馬鹿にされたような気分になり、少なからずプライドを傷つけられた。
勢いに任せて、まさに売り言葉に買い言葉とはこのことで、伊達は一哉の言葉に勢いだけで返した。
言うは易しとは良く言ったもの。
そう簡単に見つかるわけもなく―。
空いた時間に何をしていいのか、何をするべきなのか見つけることもできなく、ただ無為に時間を費やすだけだった。
今日も怜迩を見送った後、することもなく、また、一緒にいた一哉もぷらぷらとどこかへと姿を消してしまった。
伊達という男は、幼少の頃より腕っぷしが強かったこともあり、高校卒業と同時にこの仕事についた。
もうすでに7年目に突入しようとしていた。
数日前より、水原家にて仕事をしているが、水原によって雇われたわけではない。
普段は、警備会社に属し、そこから派遣されるという形をとっている。
一哉がただ、外から見繕って連れてきただけの男に過ぎなかった。
新参者の男の存在に、昔から水原の家で働く者の風当たりは良好とは決して言えなかった。
しかも、突如どこからか現れた―正確に言うならば一哉が連れてきたとはいえ、そのような男が水原直系の孫である怜迩付きとなれば、元来そこで働くものにとっては面白くないことで業腹に違いない。
水原の屋敷に戻ることも選択肢の1つだが、さして屋敷に帰ったところですることもなければ、居場所もないような場所に好んで戻るような男ではなかった。
伊達は、結局、本来自分が所属する組織である警備会社の入っているビルに戻ってきていた。
どこか浮かない顔をしている入ってきた伊達の姿に偶然にも居合わせた同僚達は首をかしげた。
近くにあった安いパイプ椅子を引っ張るとどすっと音を立てて、座る。
「どうした?」
「あ…。山崎さん…」
そんな伊達の様子を見かねたのか、彼の先輩にあたる男が話しかけてくる。
力なく、疲れきった顔で男の顔を見上げた伊達に山崎と呼ばれた男は、苦笑を浮かべた。
自分も同じようにパイプ椅子を引っ張ってくると伊達の横に腰掛けた。
この仕事を始めるようになってからというものの何かと面倒を見てくれる山崎に伊達は心を許していた。
横に座る男に差し障りのない程度で思っていることを口にし始めた。
暗い部屋の中、机の上に置かれた小さなライトの光だけが暗闇に光を灯す。
微妙な光の陰影が険しい顔を更に険しく見せている。
鋭い眼光で手の中に握られた紙片を見つめる。
軽く瞬きを繰り返した後、強く瞳を閉じる。
瞳を閉じたまま、しばらく動かなかった。まるで、その姿は寝ているようだった。
どれくらいそうしていたであろうか―。
ぱっと目を見開くと手にしていた紙片を机の上に放り投げて、椅子から立ち上がった。
空中を舞うようにしてやがて、ゆっくりと小さな音をたてて机上に落ちた。
ライトの光が照らされているそこに見えるのは、写真に写された伊達の姿だった。
「そろそろ、尻尾を出してもいいころだな…」
口の中で転がすように呟かれた声は、横で車のハンドルを握っていた伊達は、首を傾げざるを得なかった。
前方に注意を払いながらも横目で、ちらりと助手席に座る一哉を見る。
すると口の端を持ち上げ、意味深に笑う彼と目が合った。
ただ、目があっただけだ。さして珍しいことでもない。
だが、伊達はドキッとしてすぐに目を逸らして、前方に意識を集中した。
時間にしてほんの一瞬に過ぎなかっただろう。
しかし、一瞬とはいえ、その短時間に伊達は、一哉の目が決して笑ってなどいないことに気づいてはいた。
そのことには、気づいてはいたが、一哉の言葉の裏にある意味までは汲み取ることができなかった。
だからと言って、聞く事は何となく憚られたのだ。
伊達が1人頭の中ではてなマークを浮かべていると、一哉はそんなときに限って、寄り道を指示してきた。
指定した場所に用があるのだと言っていたのだが、腕時計で確認した時間は、既に怜迩を迎えに行くためには寄り道をしている時間などない時間だった。
しきりに時計に目をやり、気にしている伊達に一哉も気づいたが、それでも構わないと自分が指定した場所に向かわせたのだった。
いつもより遅れること数十分。
漸く、本来の目的地である怜迩の通う学校の敷地内に到着することができたのだった。
到着前の車中でまたもや、伊達は一哉の意味深な発言を耳にした。
「折角、お膳立てしてやったんだから、大人しく掛かっててくれよ…」
と。
学校の敷地内に到着すると、良家の子女が多く通う学校だけに通常であれば一哉たちと同じように各家から迎えが来ており、その所為でいつもにぎやかだ。
しかし、今日は到着した時間が遅かっただけに人もまばらだ。
先に車を降りて、目的の人物である怜迩の姿を探すが見つからなかった。
己の左腕に嵌められた時計で、時間を確認してみるが、時計の針が指し示す時間であれば、怜迩が出てきていてもおかしくない時間だ。
焦燥感のようなものを抱きつつ、変な寄り道をさせるからだと心の中で一哉に悪態をつきながら、教職員でも捕まえて聞くかと足を踏み出した伊達の耳に、バタンっと慌しく車のドアを開閉する音が聞こえてきて、彼は思わず背後を振り返った。
しかし、伊達が振り返ると同時に怒号が飛んできた。
「戻れ!」
突然の声に伊達はどうしたら良いのか分からずに、ぽかんと間抜けな顔を晒した。
そんな伊達に向かって更に怒号が飛んでくる。
「ぼけっとするなっ!!」
言い捨てるとそのまま走り出した一哉だった。
何が何だか分からないままでも、伊達は一哉の後を追って走り出した。
一哉を追って走り出した伊達だったが、その光景を見た瞬間に体を飛び出させていた。
身近に命の危険を感じながらも、条件反射で体を張った。
今にもクラクションもならさずに車が突進してきている小さな子供の体を自分の体で覆い隠すようにして地面を転がった。
「!?…わっ!」
と急に体を大人の男の固い体で覆われた子供の高い声が上がる。
その声が、伊達の聴覚を刺激すると同時に車のブレーキ音が聞こえてきた。
小さい子供が道路にいたのに、クラクションも鳴らさなかった運転手だったが、突然の闖入者に驚いたのだろう。強くブレーキを踏み込んだ。
タイヤと地面の摩擦音が強く辺りには木霊する。
そして、硬いアスファルトの感触を肌で感じながら、体で硬い鉄の塊が横を通りすぎる風が伊達の肌をなぞる。
嫌な汗が体中から噴出し、心臓はどくどくと脈を打っていたが、心は妙に落ち着いていた。
地面に這い蹲る瞬間にガラス越しに見たのは、紛れもなく伊達の記憶にある男だった。
伊達は、強く一度、目を瞑った後、ゆっくりと体を起こした。
「大丈夫ですか?」
怪我をさせまいと腕に抱いていた子供に問う。
まだ状況を上手く飲み込めていないのだろう。不思議そうな顔をしてぱちぱちと数度、瞬きした後にこっくりと怜迩は、伊達に体を拘束されたまま頷いた。
安堵のため息を零した後、怜迩を立たせて、自分もその場に立った。
そして―。
見たくはなかったが、ゆっくりと背後を振り返った。
馴染みの顔を見るために――。
出来ることなら夢だと思いたかった現実を認めるために――。
勢いに任せて、まさに売り言葉に買い言葉とはこのことで、伊達は一哉の言葉に勢いだけで返した。
言うは易しとは良く言ったもの。
そう簡単に見つかるわけもなく―。
空いた時間に何をしていいのか、何をするべきなのか見つけることもできなく、ただ無為に時間を費やすだけだった。
今日も怜迩を見送った後、することもなく、また、一緒にいた一哉もぷらぷらとどこかへと姿を消してしまった。
伊達という男は、幼少の頃より腕っぷしが強かったこともあり、高校卒業と同時にこの仕事についた。
もうすでに7年目に突入しようとしていた。
数日前より、水原家にて仕事をしているが、水原によって雇われたわけではない。
普段は、警備会社に属し、そこから派遣されるという形をとっている。
一哉がただ、外から見繕って連れてきただけの男に過ぎなかった。
新参者の男の存在に、昔から水原の家で働く者の風当たりは良好とは決して言えなかった。
しかも、突如どこからか現れた―正確に言うならば一哉が連れてきたとはいえ、そのような男が水原直系の孫である怜迩付きとなれば、元来そこで働くものにとっては面白くないことで業腹に違いない。
水原の屋敷に戻ることも選択肢の1つだが、さして屋敷に帰ったところですることもなければ、居場所もないような場所に好んで戻るような男ではなかった。
伊達は、結局、本来自分が所属する組織である警備会社の入っているビルに戻ってきていた。
どこか浮かない顔をしている入ってきた伊達の姿に偶然にも居合わせた同僚達は首をかしげた。
近くにあった安いパイプ椅子を引っ張るとどすっと音を立てて、座る。
「どうした?」
「あ…。山崎さん…」
そんな伊達の様子を見かねたのか、彼の先輩にあたる男が話しかけてくる。
力なく、疲れきった顔で男の顔を見上げた伊達に山崎と呼ばれた男は、苦笑を浮かべた。
自分も同じようにパイプ椅子を引っ張ってくると伊達の横に腰掛けた。
この仕事を始めるようになってからというものの何かと面倒を見てくれる山崎に伊達は心を許していた。
横に座る男に差し障りのない程度で思っていることを口にし始めた。
暗い部屋の中、机の上に置かれた小さなライトの光だけが暗闇に光を灯す。
微妙な光の陰影が険しい顔を更に険しく見せている。
鋭い眼光で手の中に握られた紙片を見つめる。
軽く瞬きを繰り返した後、強く瞳を閉じる。
瞳を閉じたまま、しばらく動かなかった。まるで、その姿は寝ているようだった。
どれくらいそうしていたであろうか―。
ぱっと目を見開くと手にしていた紙片を机の上に放り投げて、椅子から立ち上がった。
空中を舞うようにしてやがて、ゆっくりと小さな音をたてて机上に落ちた。
ライトの光が照らされているそこに見えるのは、写真に写された伊達の姿だった。
「そろそろ、尻尾を出してもいいころだな…」
口の中で転がすように呟かれた声は、横で車のハンドルを握っていた伊達は、首を傾げざるを得なかった。
前方に注意を払いながらも横目で、ちらりと助手席に座る一哉を見る。
すると口の端を持ち上げ、意味深に笑う彼と目が合った。
ただ、目があっただけだ。さして珍しいことでもない。
だが、伊達はドキッとしてすぐに目を逸らして、前方に意識を集中した。
時間にしてほんの一瞬に過ぎなかっただろう。
しかし、一瞬とはいえ、その短時間に伊達は、一哉の目が決して笑ってなどいないことに気づいてはいた。
そのことには、気づいてはいたが、一哉の言葉の裏にある意味までは汲み取ることができなかった。
だからと言って、聞く事は何となく憚られたのだ。
伊達が1人頭の中ではてなマークを浮かべていると、一哉はそんなときに限って、寄り道を指示してきた。
指定した場所に用があるのだと言っていたのだが、腕時計で確認した時間は、既に怜迩を迎えに行くためには寄り道をしている時間などない時間だった。
しきりに時計に目をやり、気にしている伊達に一哉も気づいたが、それでも構わないと自分が指定した場所に向かわせたのだった。
いつもより遅れること数十分。
漸く、本来の目的地である怜迩の通う学校の敷地内に到着することができたのだった。
到着前の車中でまたもや、伊達は一哉の意味深な発言を耳にした。
「折角、お膳立てしてやったんだから、大人しく掛かっててくれよ…」
と。
学校の敷地内に到着すると、良家の子女が多く通う学校だけに通常であれば一哉たちと同じように各家から迎えが来ており、その所為でいつもにぎやかだ。
しかし、今日は到着した時間が遅かっただけに人もまばらだ。
先に車を降りて、目的の人物である怜迩の姿を探すが見つからなかった。
己の左腕に嵌められた時計で、時間を確認してみるが、時計の針が指し示す時間であれば、怜迩が出てきていてもおかしくない時間だ。
焦燥感のようなものを抱きつつ、変な寄り道をさせるからだと心の中で一哉に悪態をつきながら、教職員でも捕まえて聞くかと足を踏み出した伊達の耳に、バタンっと慌しく車のドアを開閉する音が聞こえてきて、彼は思わず背後を振り返った。
しかし、伊達が振り返ると同時に怒号が飛んできた。
「戻れ!」
突然の声に伊達はどうしたら良いのか分からずに、ぽかんと間抜けな顔を晒した。
そんな伊達に向かって更に怒号が飛んでくる。
「ぼけっとするなっ!!」
言い捨てるとそのまま走り出した一哉だった。
何が何だか分からないままでも、伊達は一哉の後を追って走り出した。
一哉を追って走り出した伊達だったが、その光景を見た瞬間に体を飛び出させていた。
身近に命の危険を感じながらも、条件反射で体を張った。
今にもクラクションもならさずに車が突進してきている小さな子供の体を自分の体で覆い隠すようにして地面を転がった。
「!?…わっ!」
と急に体を大人の男の固い体で覆われた子供の高い声が上がる。
その声が、伊達の聴覚を刺激すると同時に車のブレーキ音が聞こえてきた。
小さい子供が道路にいたのに、クラクションも鳴らさなかった運転手だったが、突然の闖入者に驚いたのだろう。強くブレーキを踏み込んだ。
タイヤと地面の摩擦音が強く辺りには木霊する。
そして、硬いアスファルトの感触を肌で感じながら、体で硬い鉄の塊が横を通りすぎる風が伊達の肌をなぞる。
嫌な汗が体中から噴出し、心臓はどくどくと脈を打っていたが、心は妙に落ち着いていた。
地面に這い蹲る瞬間にガラス越しに見たのは、紛れもなく伊達の記憶にある男だった。
伊達は、強く一度、目を瞑った後、ゆっくりと体を起こした。
「大丈夫ですか?」
怪我をさせまいと腕に抱いていた子供に問う。
まだ状況を上手く飲み込めていないのだろう。不思議そうな顔をしてぱちぱちと数度、瞬きした後にこっくりと怜迩は、伊達に体を拘束されたまま頷いた。
安堵のため息を零した後、怜迩を立たせて、自分もその場に立った。
そして―。
見たくはなかったが、ゆっくりと背後を振り返った。
馴染みの顔を見るために――。
出来ることなら夢だと思いたかった現実を認めるために――。