2008
Vizard(20)
教師が、「何やっている。チャイムは鳴ってるぞ。席に着け」という言葉でその場を納めてホームルームを強制的に始めてくれた。
しかし、ぎすぎすした空気は教室全体を覆っていた。
ちらちらと綾たちを見てくるクラスメートの視線にも綾は気づいていたし、綾の隣に座る友人からぶつけられる鋭い視線にも綾は気づいていた。
だが、全てを知らない振りをした。
綾のその選択は、正しかったかもしれない。
授業のノートをとりながらも、教師の言葉は頭には残らない。
彼女の頭の中を占めているのは、一哉のことばかりだ……。
朝の友人との一件で、聞きたいことがさらに増えてしまった。
人知れず溜息を零す。
次の休み時間にでも一哉のもとに押しかけて聞き出したかった。
どういうつもりなのか――と。
しかし10分。いや、自分のいる高等部の校舎から一哉のいる中等部の校舎までの移動の時間を考えると正味10分もない。
とても、自分の聞き出したいことが全て聞きだせるのに充分な時間じゃなかった。
となると、少しでも長い昼休みか放課後。
放課後はまずい。
遅くなると宗司が怪訝な顔をする。
富に、何かあったら一哉を外すという言葉を口にしている彼だ。
もしかしたら、一哉の進退にも関わるかもしれない。
唯一の、彼との繋がりを断ち切られてはたまったものじゃない。それだけはなんとしても避けなければならない。
となると残された時間は、昼休みの50分という時間。
そこまで考えて、ちらりと友人の顔を盗み見る。
幸いにも黒板に向いていた彼女の顔だったが、綾はそれからというものの彼女の顔を直視することはできなかった。
その後は、目も合わせなかった。口も利かなかった。
4時間目の授業が終わると同時に、綾は教室を飛び出した。
放っておいても、一哉は現れる。
しかし、友人と彼を合わせたくなかった。
それに…、待っている時間がもどかしかった。
教師に遭遇すれば、間違いなく廊下を走るなと苦言を言われたであろう。
幸運にも遭遇することはなかった。
代わりに、途中で高等部の綾の元に向かおうとしていた一哉と遭遇する。
一哉は、綾の焦燥感に満ち溢れた表情を見て、軽く目を見開いて足を止めて、綾が駆け寄ってくるのを待った。
一哉からしてみれば驚き以外の何物でもない。
一学期の終わり頃から回数は減ってはいたが、いつもならば真っ先にどこかへと姿を消していた綾なのに、まさか彼女の方から一哉に寄ってくるとは思わなかった。
街での光景を見られているのだから尚更だ。
もう寄ってはこないと思っていたのに…。
「お嬢様?」
「話があるの」
走ってきた反動で、肩で息をしながらいう綾を見ながら、一哉は朝のことを思い出す。
そういえば、朝もそんなことを言っていたなと…。
ああ、それでか。
綾の通常なら考えられない行動にも納得がいく。
彼女から一哉のもとに行くと言っていたことを思い出した。
同時に彼は、綾の様子から判断して、あまり良さそうな話ではなさそうだと思った。
そして、彼の予想は合っていたのか、そうでないのかと言うと――。
綾の手によって人の全くいない場所へと連れて行かれる。
連れてこられたのは、中庭の人がいないところだった。
誰もいない。
そして、対面した綾の口から零れた台詞を聞いて一哉は、思わず舌打ちをしたくなった。
「どいうことなの?」
第一声にそう言われたところで、一哉には答えようがない。
それが何をさしているのか全くわからないのだから――。
「お嬢様。何のことかさっぱりなのですが?」
綾と2人きりなのだから、彼女に既に知られている地を隠す必要などないのだが、念のためにいつものように穏やかな口調で問う。
どこか飄々としたような印象を受ける一哉の答えに綾はきっと鋭い視線で一哉を睨みつける。
「あの子と付き合っているなんて私聞いてないわよ!それに…そうだとしたら、何で違う人とキスなんかしてるの?それに、誰!?あのホテルに一緒に入っていった人は!どういうことなの!!」
一気に捲くし立てるように綾は聞く。
そんなに大きな声を出さずとも一哉の耳には届いているというのに、きんきんに高い声を上げて問う。
一哉は、五月蝿いと思いながらも綾の言葉を聞き、理解し、そして無駄に干渉してこようとする彼女を鬱陶しく思った。
しらばっくれようとして彼女の聞き返そうとした言葉は、笑みを浮べたまま答えようとしない一哉に焦れた一際甲高い彼女の声に遮られる。
「答えなさいよ!!」
一哉の顔から笑みが消える。
綾は、彼の表情の変化に気づくことなく詰め寄る。
腕を掴んで揺さぶる。
それは、全て嫉妬の含まれた行動。一哉が好きだからこその行動。
感情の表現の仕方を良く知らない稚拙なまでの感情表現。
しかし、それらは全て一哉からしてみれば邪魔以外の何物でもない。
ばしっと乱暴な手で綾の己の腕を掴む手を振り払う。
「…あっ……」
振り払われた手に驚きを隠せない綾。
見開かれた揺れる瞳で、一哉の顔を見返しては、一辺の表情も読み取ることのできない冷え冷えとした顔つきを見て、思わず一歩後ずさる。
どこか恐怖を感じさせる表情。
なのに、心臓が高鳴るのは何故なのだろうか―。
自分が彼のことを好きだからということなのだろうか……。
わからない。
戸惑っている綾を尻目に一哉は一歩綾に近づくと地を這うような声で綾を上から見下すような視線で見つめながら言う。
「勘違いするんじゃねえよ。お前、俺がお前の玩具かなんかだと勘違いしてねえか?」
さらに大きく見開かれる瞳。
怒鳴りつけるような声ではなく、静かに語られる言葉は彼の纏う冷たい雰囲気と相まって彼の持つ底知れなさだとか恐ろしさというものを存分に演出している。
「お前と俺の関係はなんだ?」
彼のオーラに中てられて何も言葉を返すこともできない。
見開かれた瞳で一哉を見返すことだけが、綾にできることだった。
「ただの守られる人間と守る人間だ。それ以外の何物でもない。言われないと分からないとは、とんだ腐った頭をしているんだな。まぁ、いいさ。分かったなら、二度と余計な干渉してくんじゃねえよ。邪魔なんだよ」
吐き捨てるようにして、言うと綾から背を向けようとする。
言葉ひとつ発せそうになかった綾だったが、咄嗟に声を張り上げた。
「イヤよ!」
ぴたりと一哉の足が止まる。
ゆっくりと背を向けていたはずの綾に顔を向ける。
綾は、憎悪すら含まれているのではないかというほどの冷たい視線を向けてくる一哉の瞳を見返して、続ける。
「そんなのイヤっ!私はあんたのことが好きなのよっ!だから…だから…」
気になって仕方ない。
だが…。
「…へぇ、俺が?」
どこか軽蔑するような笑いを浮かべながら言う、一哉の言葉に綾は言葉を失う。
彼の瞳は煌々と光っていた。暗い光を纏って―。
「…虫唾が走るね」
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃。
冷え冷えとした声音。
寒気すら感じる。
何より、彼の表情がそれを物語っていた。
「俺は、あんたのように甘やかされて育った人間を見ると殴りたくなる。苦労なんか知らずに、自分の思い通りにならないことなんてないと思っているところも胸糞が悪い」
目を見開いて一哉の顔を凝視する。
そんなことを思っていたなんて――。
さらに――。
「仕事でなければ、誰がお前のお守りなんかしたがるってんだよ。第一、結婚決まってるのに俺が好きだ?ざけんじゃねぇよ。笑わせてくれる…俺はお前の暇つぶしの玩具じゃねぇよ」
「違う…違うの本当に」
「だとしたら、もっと腹立つ。そうやってなぁ自分の都合だけ押し付けてくるんじゃねぇよ。お前のようなヤツの顔、見たくもない」
薄笑いを浮べて綾に言い切ると今度こそ背を向けた。
綾の瞳からは、堰を切ったかのように涙が零れ始める。
遠ざかっていく足音に、綾は引き止めることもできずに、涙で滲む視界に彼の背中を捉えることすらできなかった。
2008
Vizard(19)
休み明けのクラスでは、夏休みの間に何していたか、どこに旅行に行っただとか、遊びに行ったとかいう会話が始終なされている。
口では、2学期始まるのが憂鬱だと言いながらもどこか嬉しそうに話す彼ら。
確かに、退屈な授業は嫌なのかもしれないが、久しぶりに会う友人達に嬉しさを隠せないのかもしれない。
教室に入って自分の席に座ると先に来て自分の机に座る友人の顔を見た。
彼女の顔は、その空間内において異質だった。
その顔は、どこか悲壮。
じっと一点を見つめたまま、瞬きも忘れて動かない。
綾は、席につくなり彼女を伺うように見た。
「何かあったの?」
恐る恐る彼女に声をかける。
ゆっくりと彼女の顔が綾に向く。
「あ、綾…。久しぶり。おはよ…う」
「顔色悪いわよ?何かあったの?」
「べ…別に、たいしたことじゃないわ…」
彼女は、綾から視線をそらす。
明らかに何でもないというようにはどう見ても見えないのに、彼女の言葉を信じろというのか。
そんなこと綾には、できなかった。
おせっかいに過ぎない行為。
綾は、彼女の言葉に「そうね」と頷くことはできなかった。
「たいしたことじゃないわって顔じゃないわよ?何かあったの?あったのなら、私に話して?友達でしょ。心配なのよ」
親切の押し売りとは、よく言ったもの。
踏み入って欲しくないからこそ、明るく見せることのできない顔つきで突っぱねているというのに。
下手な野次馬根性で、親切心でおせっかいを働く。
聞かなければ良かったと後悔するのは、聞いた本人ばかり。
きゅっと引き結ばれた唇。
少しの逡巡を見せた後、綾の横に座る彼女は小さな声で問う。
「一哉…」
だが、その声は小さすぎて綾には届かなかった。
友人の顔をじっと伺っていた綾は、彼女の唇が動いたことに気づいたが、その音までは聞き取ることができなかった。
眉間に皺を寄せて、怪訝な表情で聞き返す。
「何?」
「…一哉は?」
突然、耳に飛び込んできた人物の名に綾は2つの瞳をこれでもかというほどに見開いた。
自分を縋るように見てくる友人と目が合う。
じっと見つめあう。
何故、友人が一哉の名を口にしたのか分からない。
己のもとに一哉が来たときに、遭遇することはあったとしても少なくとも彼の下の名前を呼び捨てで呼ぶほど親しくはなかったはずだ。
綾の記憶にある限りでは、彼女は少なくとも“一哉クン”と呼んでいた。
だが、今、彼女の口から出てきたのは、彼との親密さを表すような……それだった。
「か、一哉がどうかしたの?」
間抜けにもそう返すのがやっと。
嫌な予感が綾の身を襲う。
ドキドキと動悸がする。
「…な、何も聞いてないの?」
「……聞いてるって?何を?」
綾が問い返したのに対し、一瞬口を噤み、目を逸らした。
不自然な友人の姿を視線で追いかける。
「ね…。一哉と何かあったの?何かされた?」
「一哉とどうすれば連絡がとれるの?」
「取るも何も一哉なら、中等部の校舎に行けば…」
「違うの。2人で会えなければ意味ないのよ」
必死の形相の友人に綾は、驚きを隠せない。
大きな彼女の声に、先ほどまで綾たちの会話など気にもせずに方々で各人談笑していた声が静まり、一気に綾とその友人に彼らの視線が集まる。
居心地の悪い思いをしながらも、綾は衆人観衆の視線を気にしつつ声を抑えて彼女に問う。
「一哉と2人で会って何を話すの?」
少し、声に険が篭るのは仕方ない。
何故、友人と彼の親密さを見せ付けられなければならないのか…。
綾の中で嫌な感情が噴出してきそうだった。
「聞きたいことがあるの」
ぎゅっと唇をかみ締める友人の姿が印象的だった。
険しい視線は、机を睨みつけているのだが、そこに映っているのは、無機物ではなく彼女の口から零れた綾のにとって特別を意味する人物のようだった。
「聞きたいことって…?」
聞かなければいいものを、彼のことで知らないことがあるのを許せない綾は、聞かずにはいられない。
綾から視線を逸らしていた友人は、ゆっくりと綾の方に顔を向ける。
何も怯むことはないのに、綾は友人にじっと見つめられて動揺を覚えてしまう。
「だって、付き合っている人から連絡こなくなったら誰だって不安になるでしょ?」
綾の身体を衝撃が突き抜ける。
付き合っている?
誰と誰が?
周りの喧騒も一切聞こえなくなる。
友人の顔から視線が外せない。
付き合っているというのは…一哉と目の前にいる彼女なのか。
そんな筈は…。
だって、何も言ってなかった。
そんなの聞いてない。
それに、一哉は別の女と――。
もし、彼女と一哉が付き合っていたとするならばおかしい――。
もし彼女と付き合っているというのなら、他の女とキスをしたりとか…、ホテルに行くということはしない筈だ……。
「付き合ってる…?誰と誰が……?」
瞬きをすることもできずに、半ば呆然とした頭で友人の答えを待つ。
「決まってるでしょ?私と一哉よ」
「嘘」
そう。嘘だと信じたい。
ねぇ、嘘だと言って。
しかし、綾がいくら願ったところで現実は覆らない。
「嘘じゃないわよ。……綾が言ったんじゃない。貸してあげるって」
はっとなって記憶がよみがえってくる。
自分が彼女が一哉のことを可愛いと言っているのを聞いて、一哉に彼女を送ってやるようにと言ったことを…。
ほんの暇つぶしのつもりでやったことを。
どれだけ綾が我侭や困らせるようなことを言っても変わることのないあのいつも澄ましたような顔で、穏やかに笑う少年の困る顔が見られるかという出来心で自分がした行為を――。
そして、彼らはいつの間にか自分の知らないところで綾と一哉の間にはない関係を築いたというのか……。
何時から……?
聞きたいのに、唇は動かない。
それどころか、予想外の言葉が友人から向けられる。
「ねぇ、あなたが何か言ったんじゃないの?彼に…」
ぴくっと身体を揺らした後、目の前の彼女に焦点を合わせる。
怪訝に眉を顰める友人の顔。
それは、綾を疑うような視線だった。
恋に溺れた女は恐ろしい――。
どこで見た言葉か。聞いた言葉かわからないが…綾の脳裏にそんな言葉が浮かぶ。
自分が何を一哉に言うというのか。
知らなかったというのに―。
無言のまま、首を横に振って違うという意思表示をする綾に対し、友人は信じてくれるどころかさらに疑わしい視線を送りつけてくる。
「し、知らないわ…」
「だって、おかしいじゃない!じゃなきゃ、何で一哉が急に冷たくなるわけ?正直に言ってよ」
「ほ、本当に何も知らないわ!だって、一哉と付き合っていただなんて…」
「どうだか?一哉から聞いてるんじゃない?」
綾に対しての疑念が払拭できない彼女と、自分は無関係だと主張する綾。
責めるような視線を送りつけてくる友人に対し、寧ろ彼女を責めたいのは自分の方だ…。
友人を問い詰める前に、問い詰めらている。
何故、自分はこんな風に責められなければならないのか綾にはわからない。分かるはずもない。
負の感情をぶつけたいのは、綾も同じ。
甲高い声をあげる彼女に、周囲の視線も尚のこと綾と彼女に向いてくる。
一体どうしたというもの珍しい視線にも2人は、全く気づかない。
その時点で2人とも冷静さを欠いていたのかもしれない。
離れていった一哉と何としてでも接触を取りたい者と。
自分が思いを寄せていると自覚した時に、過去の己の行為を後悔する者。何故知らされていなかったのかと友人を恨みにも似た思い。
どこか険悪な雰囲気の2人に、周囲もざわつく。
綾と彼女の周りには、いつの間にか人だかりができていた。
チャイムの音も彼女達の耳には届いていなかった。
教室にはどこか異質な雰囲気が流れていた。
それは、新学期始まって最初のホームルームのために入ってきた教師も感じたことで――。
教師によって制止されるまで綾と彼女はそのまま、視線を交差させていた。
互いに、睨みあうような視線。
くっきりと感情をぶつけてくる彼女と動揺の中にもある感情を忍ばせた綾の視線だった。
2008
Vizard(18)
朝から早く目が覚めた。
何よりそれは、気持ちの現れだったかもしれない。
すっきりとした目覚め。
眩しいほどの朝日を身に受け、体を起こして、欠伸をしながら大きく伸びをする。
一ヶ月半ぶりくらいになる制服に腕を通して、ダイニングに向かう。
少し、否、少しどころではなく足が軽やかに動く。
すでに椅子に座って経済新聞に目を通しながら、コーヒーを飲んでいる父親に近づき、声をかける。
「お父様。おはようございます」
「ああ、おはよう、早いね」
新聞から視線をあげて綾ににこやかに笑いながら返す。
綾が椅子に座ると使用人の手によって朝食に運ばれてくる。
「いただきます」
と手を合わせて綺麗な箸使いで食事を口に運ぶ。
「綾」
父親の自分を呼ぶ声に顔を上げる。
父親の視線と綾の視線がぶつかる。
小首を傾げた綾に彼は、笑いかける。
「堺氏には、うまく言っておいてやるからな」
新聞を畳み、テーブルに置きながら言う。
綾は、顔いっぱいに笑みを浮かべる。それは、心のからの笑顔。
昨夜、父親が部屋に訪れた折に綾が父親に懇願したことを受けての言葉だった。
「ありがとう。お父様。嬉しい」
娘からの礼の言葉にまんざらでもなく嬉しそうな表情を浮かべ、鷹揚に頷くと椅子から立ち上がる。
「じゃあ、行って来るよ」
「いってらっしゃい」
父親の後を追って、使用人達が彼を見送るためにばたばたと部屋を出て行く。
その姿を見送った後、もう一度テーブルに視線を戻すと人知れず笑みを零した。
「お嬢様、お時間です」
朝食後ゆっくりとした時間を過ごしていた綾を宗司がむかえにくる。
いつもの時間の再来だった。
宗司の運転する車の後部座席で、はやる気持ちを学校に着くのをいまかいまかと待っていた。
バックミラー越しに綾のどこか浮ついた綾の様子を確認しつつ、釘をさすようなつもりで宗司が言う。
「一哉が何か気に障ることしましたら、遠慮なく言ってください。即座に、一哉を外しますから」
一哉の名を聞いて綾の表情が俄かに硬直する。
どくん。
と大きく心臓が脈打つ。
バックミラーに映る宗司の目を鏡越しに伺う。
何を考えているか読めない。
「…わかったわ…」
と伏せ目がちに綾は答えた。
そう時間が経たずに車は、学校の敷地内に入り、ぎっとギアの音をさせて止まった。
先に宗司が車から降りて綾が外に出るためにドアを開ける。
綾が車から降りるとそこには、久しぶりに目にする少年の姿がある。
「お嬢様。おはようございます」
いつものように優しく笑いかける顔。
線の細い、長身の体。
どくん。
胸が大きく高鳴るのを感じる。
車の中で宗司に言われた時以上に大きく…。
久しぶりの彼を見て、綾は言葉を返すのも忘れて見つめた。
「お嬢様」
怪訝な宗司の声に、はっとして慌てて宗司を振り返ると「ありがと…」とだけ笑って答えて、背を向けると歩き始める。
綾の後ろを一哉が兄に向けて一礼した後、追いかける。
去っていく綾と一哉の後ろ姿に疑わしい視線を向けていた宗司だった。
しばらく、そうしていた宗司だったが、やがて2人の姿が消えていった後、車の運転席に乗り込みエンジンをかけて綾の通う学校を後にした。
一方、校舎に入っていった綾と一哉はと言えば…。
「それでは、お嬢様。また…」
と綾に背を向けようとした一哉の腕を咄嗟に掴む。
「待って」
突然の自分以外の誰かに腕を掴まれる感触に目を細めて自分を掴む細い指先に目を落とした。
その後、自分を掴む相手の顔を見た。
いつものように笑みを張り付かせた一哉の顔。ただ、瞳だけが笑っていないことに綾は気づく。
はっと瞳を揺らがせて一哉を見返す。
「何でしょうか?お嬢様」
妙な威圧感を感じる。
不安をかき消すように綾は一哉の腕を掴む手に力を入れた。
綾の指の力が強くなったことに気づいた一哉だが、一瞥しただけで特に気にもとめなかった。
振り払うことは簡単だが、振り払おうにも人の目があるので、できなかった。
振り払いたいと思うのだが、乱暴に振り払うことは、今まで自分が作ってきた草壁 一哉という人間のそれとは異なる。
だから、何もしないのだ。
「聞きたいことがあるの」
緊張した面持ちで言う綾の顔をじっと伺う。
2つの瞳に見据えられて綾は、異様に緊張していた。
ごくり…。
唾を飲み込む。
どくどくと脈動が大きく聞こえると同時に体が熱く感じるのは気のせいか。
「聞きたいこと…ですか?」
「…そうよ」
綾の様子に流石に何かが違うと悟ったのか。
どうしたというのか…。
綾に目撃されていたことなど知らない一哉は、綾が何を聞いてくるかなんて全く想像さえできなかった。
わかるのは、綾の険しい表情から、とても人目のある場所で話をするような内容ではないというところか…。
「何でしょうか?」
わざとらしく綾に握られていない方の手に嵌められた腕時計で時間を確認する振りをする。
「もうすぐでホームルームが始まりますので、できれば、手短にお願いしたいのですが…」
という一哉の言葉に、綾ははっとしてそうだと思い出して、自分達に向けられる好奇の視線に気づく。
慌てて一哉の腕を掴む自分の手をぱっと離す。
「ご、ごめんなさい」
謝罪の言葉を口にする綾に一瞬だけ目を見開いた。
とてもじゃないが、今までの綾からは考えられない。
怪訝な表情で綾を見返す。
「お嬢様。どうされました?」
「そう…そうよね。じゃあ、後にするわ」
くるりと背を向けた綾に、一哉は咄嗟に声をかける。
「お嬢様。手短にすむお話でしたら…」
何の用だと問う一哉の声に顔だけを彼のほうに向ける。
「ううん。ちょっと長くなりそうだから、また行くわ」
そうだ。とても1分やそこらで終わりそうな話ではなかった。
一哉は、その答えに不満を感じないわけではないのだが、ふと笑みを深く刻むと「そうですか」と返事を返して綾に背を向けた。
綾は、自分から遠ざかって中等部の校舎へと向かって歩いていく少年の背中を追い続けた。
一度も綾を振り返ることなく歩いていく。
途中でクラスメートなのだろうか声を掛けられて、それに笑いながら答える一哉の姿が綾の視界に映る。
男子生徒、女子生徒分け隔てなく、いつもの柔和な表情を返す一哉を見て綾は知らず知らずのうちに唇をかみ締めた。
他人にそんな顔をしないで…。
誰にも笑いかけないで…。
話かけないで…。
私だけを見て…。
私のそばに居て…。
離れていかないで――。
それは、紛れも無い嫉妬。
その2文字がぴったりと当てはまる。そんな複雑な感情だった。
2008
Vizard(17)
恋―。
それは、自分には焦がれても手にすることはできないと思っていた代物。
それには、自分の家が邪魔になるから。
最初から抱いてはいけないと決めていた。
だから、男はいつも自分にとって遊び道具。
振り回しこそすれ、間違っても引きづられてはダメ。
いつでも、そう言い聞かせて遊んできた。
男を相手にしてきた。
一度、認めてしまえば、後はいくらでも説明がつく。
何故、気になっていたのか―。
上級生とのキスシーンを目撃してショックを受けたのか。
自分とは段違いに大人の魅力に溢れた大人の女とホテルに入っていった一哉の姿を目にして動けないほどショックを受けたのか…。
どれも、恋という文字で簡単に説明がついてしまうから人の気持ちは不思議だ。
しかし、自覚したと同時に振り切らねばならないものだった。
傷が浅いうちに……。
しかし、気づいた時点で遅い。
気づかなければ…まだ、救いようがあったのかもしれない。
先が決まっているからと言って諦められるほど大人ではなかった。
元が、蝶よ花よと甘やかされて過ごしてきた彼女。母親が亡くなってからというものの、さらに彼女を取り巻く環境はそれに拍車をかけたものとして変化していった。
欲しいものは、綾が口にする前に全て彼女の目の前に並んだ。
手に入らないものは、ないと思ってた。
そんな綾が欲しいものが、すぐそこにあるのに我慢できるはずもない。
今までと同じようにそれは、自分の手にあるべきものなのだ。いや、するのだ。
子供の欲しがるものほど性質の悪いものはない。
なりふり構わないからだ――。
子供の行動に振り回される親ほど、冷静に客観視した時に情けなく惨めなのはない。子供への愛、故に見せるそれは微笑ましい。
しかし、その子供が16…いや、もうすぐ17といういい年した分別のある年だとそうはいかない。
失笑を買うようなものだ。
「綾はどうしたのかな?最近、部屋に閉じこもったままだが…」
という主人の声に一礼する。
聞かれても答えようがなかった。
かく言う自分も彼女が何を考えているのかさっぱり分からなかった。
ほとんど顔を合わせていない。
「お前でもわからない…か?」
背後を視線だけで振り返る当主にもう一度深く頭を下げる。
「申し訳ありません」
「いや。お前の所為じゃない…。堺氏の誘いも最近は断っているようだが?」
呆れたように大げさに息を吐き出す。
気にするなという主の声にぐっと体に力を入れる。
綾の気まぐれの処理をするのは、宗司の仕事に入っていた。
断りの言葉を相手に告げるのも、屋敷から追い返すのも、婚約者に素気無くされた男の不機嫌な言葉をぶつけられるのも自分の仕事。
「一方的に会いたくない…と仰っていまして」
と宗司が口にするとやれやれと言った様子で肩を竦めた。
煙草を取り出し口に銜えるとすっといつも父と一緒に、彼の護衛としてついている宗司の兄である弥一がすっと火を差し出した。
火がついた煙草をくゆらせながら、大きく息を吐き出す。
「あの年頃の娘の考えることはわからん…あれの母親がいたらもう少しは違ったんだろうがな…」
とぼそりと零した。
苦悩を滲ませたとような声音。
「まあ、いないものを求めたところで仕方ないがな」
その言葉に、返すものはいなかった。
ほとんど吸い終わっていない煙草を近くの華美な装飾の施された灰皿に押し付けると部屋を出て行く。
「旦那様。どちらへ…」
「綾のところだ。お前達はもう下がっていいぞ」
「では、失礼します」
宗司も弥一も頭を下げて部屋を出る当主を見送った。
主人の姿が消えた後、先に顔をあげた弥一が人を食ったような笑みを浮かべる。
「ありゃあ、あのボンボンに泣きつかれたか」
かかっと笑いながら言う兄を咎めるように睨みつける。
「おっと、そんな怖い顔して睨むなよ」
弟の視線に気づいて肩を竦めてみせながら、部屋を出て行った。
兄の背中を睨みつけていた宗司だった。
部屋の扉をコンコンと叩く音に綾は俯けていた顔をあげた。
ぱたぱたとスリッパの音をたてて扉に近寄ると綾が開ける前に、部屋の扉が開く。
顔を出した父親に、一瞬目を見開いた綾だったが、何となく嫌な予感を覚える。
「綾、ちょっといいかい」
「なぁに?お父様?」
やんわりとした口調で伺う父親だが、彼が引くことはないということを綾は知っている。
「何故、最近堺氏の誘いを断るんだい?」
ぴくりと綾の表情が強張る。
今まで綾と堺の関係には、口を閉ざしてきた父親からの言葉。
ついにきた…。
「綾?どうなんだ…?」
くっと唇をかみ締める。口を噤んだままの綾に咎めるような父親の声。
「綾」
「…だって、つまんないんだもん」
視線をそらしながら綾がそっくりそのまま言葉を再現するような顔つきでそっぽを向きながら答える。
傍から見たら小憎らしい顔そのものの綾の表情も親ばかフィルターのかかった男から見れば、可愛いものでしかない。
とはいえ、この点だけは我慢してもらわねばならない。
苦笑を浮かべつつ綾の肩に手を置き、諭すように言い聞かせる。
「綾…。お前と堺氏は……」
「わかってるわ。けど、これから嫌でも顔を突き合せなければならないのに、今から焦って顔を突き合わす必要ないでしょ?わざわざ貴重な時間を割いてまで会いたいと思うような人じゃないわ。ねぇ、お父様からも言って頂戴?お願い」
「何をだい?」
「時期がくるまで、あまり干渉してほしくないのよ」
「綾…けど、堺氏はお前との関係を思って」
「私のことを思うなら、放っておいて欲しいの。お願い」
目を潤ませて上目遣いにお願いをすれば、娘を可愛がる父親は娘の婚約者である男の言葉よりも娘の言葉を優先させるというもの。
分かっていての行動だった。
少し険しい顔をしたものの、すぐににこっと安心させるような笑みを浮かべた。
父親の表情をじっと伺っていた綾だったが、父親の表情の変化を読み取って心の中で笑みを浮かべた。
「わかった…。けど、わかってるね?高校を卒業するまでだよ?それまでは、あまり君に干渉しないように堺氏には言っておこう」
「ええ。ありがとう、お父様」
にこりと笑って返す娘に満足したように鷹揚に頷く。
「じゃあ、おやすみなさい。明日から学校なの。2学期始まるから」
「ああ、おやすみ」
父親が出て行き、かたんと音をたててしまった扉にもたれて息を吐き出す。
明日から2学期が始まる。
ようやく待ちに待った時間だった。
一哉に会うことができる。
期間にして、一ヶ月半という期間一度―いや、ホテルへと消えていく姿を一度だけ見たが、それ以外では会っていない。
何故学校内だけでしか会うことが適わないのか―。
今までの休みの期間、なぜ会わなくても平気だったのかわからない。
何度、父親に頼んでここへ呼んでもらおうかと思ったことか。
何度、宗司に聞こうかと思ったことか。
明日から、また会えると思うとそれだけで心が浮き上がりそうだった。
そして、一緒にいた女が誰なのか―。
知りたいと思った。
好きな相手のことを知りたいと思うのは、当然のこと――。
知りたい。会いたい。
2008
Vizard(16)
夏休みの最中。
進学校である私学に通う綾だったが、高校3年生には必須の補習授業が課せられていたが、綾の学年である2年生は希望者だけで免除されている。
綾は、もちろん参加するはずも無い。
それでなくとも、父親のつけた家庭教師が居て、そもそも学校に行く必要もなかった。
たまに、堺が誘いにきてどこかへ出かけたりもするものの決して綾から希望して出かけたりすることはなかった。
わざわざ炎天下の中、外に出ていって不快な思いをする方が嫌だというもの。
涼しい家の中でゆっくりとした時間を味わうのがいいのだ。
自分の部屋で、読みかけの小説片手にアフターヌーンティーを楽しむ。
午後のそんな時間が綾のお気に入りだった。
今日も同じように小説に目を走らせていた。
何でも好んで読む綾だったが、今読んでいるのは恋愛小説。
自由に恋愛を楽しむ主人公を己に準えて自分の心を満たす。
決して、自分には得られない何かをそうすることを通して得ようとするのだ。
擬似的恋愛を楽しむ時間。
時には、ミステリーだったり、エッセイや歴史小説だったりもするがとりわけ好んで読むのは、恋愛小説だった。
特に主人公が好きな人と一緒になって幸せになるという結末のもの。
それは、決して自分では手にいれられないものだから…。
目で追っていた文字がなくなり、最後の1ページだったのでぱたりと小さな本を閉じてテーブルに置く。
今日、読んだもののなかなか面白かった。
しかし、これで次に読む本がないなと部屋の本棚へと歩み寄り確認する。
どれも一度読んだもので…。
一度読んでしまうと面白さが半減する。
中には、何度読み返してもいいと思える物語も数冊存在するのだが、何となく今は、読み返すような気分ではなかった。
特に退屈を覚えるこの時間帯は、今まで読んだ覚えのないものが好ましい。
本棚を覗き込んでいた綾だったが、そこから離れると部屋を出て絨毯の敷かれた廊下を歩く。
広い階段をゆっくりと降りてある一室に向かう。
「宗司…」
部屋の扉を遠慮がちに開けながら中を確認すると狭い部屋にいた宗司が顔をあげる。
綾の姿に気づいて近づいてくる。
「いかがなさいましたか?」
「あの…本を」
「でしたら、リストを頂けますか?ご用意してまいります」
という宗司の言葉に首を振った。
珍しい綾の答えに宗司が驚いたような表情を浮かべて綾を見返した。
綾は、軽く笑いながら、答える。
「たまには、手にとって選びたいわ」
「ですが…」
「だって、宗司も来てくれるんでしょ?だったら、大丈夫よ?ね?いいでしょ?」
と上目使いに宗司におねだりをすれば彼は、一瞬考えるような素振りを見せながらも苦笑を浮かべた。
「仕方ないですね」
「ありがとう。嬉しいわ」
花が開くように笑い、宗司も綾に合わせるようにうす笑みを浮かべた。
宗司の運転する車で、出かける。
デパートの中に入っている巨大な本屋に連れてこられて綾は、目を輝かせるようにして早足で目的の場所に行く。
その後ろをぴたりとついて回る宗司だった。
危険な人物がいないか目を光らせつつ、偶に声を掛けられる綾に反応を返す。
かなり長い時間をかけて多くの本を選び出した。
レジに持っていくなり店員が驚いた顔をしたが、何食わぬ顔で支払いを済ませ、綾が購入した本を宗司が持つ。
「さぁ、帰りましょうか?」
「待って。お茶していきましょうよ?」
「…お茶ですか?」
綾の提案に、虚を突かれたように聞き返す宗司にくすっと綾が笑う。
「そう、お茶。今日のお礼よ」
支払いは、決して自分の金ではないのにそんなことを言う。
「お礼と称されるようなことは何もしておりませんが」
「いいの。いいの。行きましょう」
と荷物を持つ宗司の手を引っ張る。
「ですが、お嬢様と同席するわけには、参りません」
「私がいいって言ってるのだからいいじゃない。それにこれは秘密。私と宗司だけのね?」
小首をかしげながら言う綾に宗司はそれ以上、断りの言葉を言うことはできなかった。
「…本当によろしいのですか?」
「ええ。行きましょう」
「なんだか、堺様に怒られてしまいそうな気がします」
と何気なく宗司が口にした言葉に綾の体が一瞬硬直した。
だが、綾はすぐに宗司の腕を掴む手に力を入れて彼の手を少し強引な力で引っ張っていった。
その後もなんだかんだと理由をつけて綾は、宗司を引っ張りまわした。
宗司が「そろそろ帰りましょうか」と綾を促す頃には、すっかり陽も暮れて街が夜へと変化していた。
「すっかり暗くなってしまいましたね」
「本当ね。引っ張りまわしてごめんなさい」
珍しくも殊勝な態度で謝る綾に驚きを覚えつつも、気にさせまいと笑ってやんわりと否定する。
心なしかいつもより綾が明るく見えるのは、気のせいだろうか。
なんにせよ綾にとって気分転換になるならいいことだった。
そう思いながら、しばらく綾と並んで歩いているとぴたりと綾の足が止まる。
不審に思って宗司が立ち止まって綾を振り返る。
少し青ざめた顔に見えるのは照明の所為か…。
「お嬢様?」
「…あ、なんでもないわ……帰りましょう」
と宗司の手を乱暴に掴むと今まで歩いていた速度よりもだいぶ速い速度で宗司の手を引いて歩く。
突然の変貌ぶりに宗司は驚きつつも綾に引かれるがままに歩いた。
綾の突然の変貌の理由。
それは、夜の街で見たものだった―。
綾を変えることのできる人物。
今のところ1人しか存在しないだろう。
一哉だった。
綾が見たものとは―。
以前のような喧嘩の風景ならまだよかった…。
しかし、今回綾が目にしたのは……、一哉が明らかに年が10は上だろうという大人の女と腕を組んでホテルへと消えていく姿だった。
見間違いなどではないとはっきり言える。
見間違えるはずがない。
一哉だと認識した瞬間。
どくん。
大きく心臓が跳ねた。
その音は次第に早くなり、大きくなっていく。
思わず足が止まった。
それまで、宗司を連れまわしてショッピングを楽しんだりすることで少しなりとも楽しさを感じていた筈なのに、その楽しさとかいったものが一気に消失した。
一緒にいたはずの宗司の存在ですら一瞬のうちに忘却の彼方へと消えた。
それは…、誰…?
なんで…。
どうして……。
2人が消えていった場所が何のための場所であるか位、箱入り娘の綾とて知っている。
以前、夏休み前…。学校の下駄箱で上級生とのキスシーンを目撃した。
そのときもショックを受けて、しばらく動けなかった。
ガキと一哉からは、ののしられたが…。
今は、そのときの比ではなかった。
しかも、前回キスしていた相手よりもずっと年上。
一哉にべったりと引っ付いていた。
少年は、いつものように悠然と柔らかな笑みを浮かべ、嫌がった素振りも見せなかった。
その笑顔を、その人に向けるの…。
その人は、一哉の影の部分を知っているの…。
その手で、体でその人を抱くの…。
一気に感情が波となって綾の中に押し寄せてくる。
溢れたそれは、綾1人でどうにかなるようなものでもなかった。
胸を締め付けられるような感じがして苦しくなる。
金縛りにあったように動けなくなり、足が竦んだ。
2人が消えていったホテルから目が離せなくなる。
嘘だと言って欲しい…。
でも、それは何故?
何故、嘘だといってほしいのか…。
うまく働かない頭の中はハリケーンが過ぎ去ったかのようにぐちゃぐちゃで荒れていた。
そこへ、今まで一緒にいた男の訝しむような声が聞こえてきてはっとなり綾は、呪縛から解けたように動くことができた。
どうやって自分が部屋に戻ってきたのか分からない。
ベッドの上に愕然と座り、「何故?」という問いを繰り返し繰り返し自分に問いかける。
その人は、誰。
今、何をしているの…。
何でこんなに気持ちになるの…。
何でこんなに悲しいの…。胸が苦しいのか……。
何で、信じたくないの。この目で見たものを否定したいの…。
突然、どさっと言う音がして、綾はびくっと体を大きくゆらし、そちらに目を向ける。
すると今日、宗司につき合わせて買った本が雪崩れを起こしたように倒れていた。
その倒れた本の表紙に書かれたひとつの文字に吸い寄せられるようにして綾は食い入るようにその文字を見つめた。
ベッドから降りてふらふらとした足取りで本が積まれている机に向かうとその文字を指でなぞる。
そうか…。
これが、恋なのだと知った。
小説の中でしか擬似的に体験していなかった。
だが、それはどこまでいっても擬似的なものでしかなかった。
文字で追いかけることは簡単だった。
現実で自覚するとこんなに苦しいものだとは知らなかった。
狂おしいものだともわからなかった。
感じるもの全てが、綾のこれまでの経験にはなく……。
全てが初めてだった。
そして…。
それが、全ての始まり――。