2008
Vizard(20)
教師が、「何やっている。チャイムは鳴ってるぞ。席に着け」という言葉でその場を納めてホームルームを強制的に始めてくれた。
しかし、ぎすぎすした空気は教室全体を覆っていた。
ちらちらと綾たちを見てくるクラスメートの視線にも綾は気づいていたし、綾の隣に座る友人からぶつけられる鋭い視線にも綾は気づいていた。
だが、全てを知らない振りをした。
綾のその選択は、正しかったかもしれない。
授業のノートをとりながらも、教師の言葉は頭には残らない。
彼女の頭の中を占めているのは、一哉のことばかりだ……。
朝の友人との一件で、聞きたいことがさらに増えてしまった。
人知れず溜息を零す。
次の休み時間にでも一哉のもとに押しかけて聞き出したかった。
どういうつもりなのか――と。
しかし10分。いや、自分のいる高等部の校舎から一哉のいる中等部の校舎までの移動の時間を考えると正味10分もない。
とても、自分の聞き出したいことが全て聞きだせるのに充分な時間じゃなかった。
となると、少しでも長い昼休みか放課後。
放課後はまずい。
遅くなると宗司が怪訝な顔をする。
富に、何かあったら一哉を外すという言葉を口にしている彼だ。
もしかしたら、一哉の進退にも関わるかもしれない。
唯一の、彼との繋がりを断ち切られてはたまったものじゃない。それだけはなんとしても避けなければならない。
となると残された時間は、昼休みの50分という時間。
そこまで考えて、ちらりと友人の顔を盗み見る。
幸いにも黒板に向いていた彼女の顔だったが、綾はそれからというものの彼女の顔を直視することはできなかった。
その後は、目も合わせなかった。口も利かなかった。
4時間目の授業が終わると同時に、綾は教室を飛び出した。
放っておいても、一哉は現れる。
しかし、友人と彼を合わせたくなかった。
それに…、待っている時間がもどかしかった。
教師に遭遇すれば、間違いなく廊下を走るなと苦言を言われたであろう。
幸運にも遭遇することはなかった。
代わりに、途中で高等部の綾の元に向かおうとしていた一哉と遭遇する。
一哉は、綾の焦燥感に満ち溢れた表情を見て、軽く目を見開いて足を止めて、綾が駆け寄ってくるのを待った。
一哉からしてみれば驚き以外の何物でもない。
一学期の終わり頃から回数は減ってはいたが、いつもならば真っ先にどこかへと姿を消していた綾なのに、まさか彼女の方から一哉に寄ってくるとは思わなかった。
街での光景を見られているのだから尚更だ。
もう寄ってはこないと思っていたのに…。
「お嬢様?」
「話があるの」
走ってきた反動で、肩で息をしながらいう綾を見ながら、一哉は朝のことを思い出す。
そういえば、朝もそんなことを言っていたなと…。
ああ、それでか。
綾の通常なら考えられない行動にも納得がいく。
彼女から一哉のもとに行くと言っていたことを思い出した。
同時に彼は、綾の様子から判断して、あまり良さそうな話ではなさそうだと思った。
そして、彼の予想は合っていたのか、そうでないのかと言うと――。
綾の手によって人の全くいない場所へと連れて行かれる。
連れてこられたのは、中庭の人がいないところだった。
誰もいない。
そして、対面した綾の口から零れた台詞を聞いて一哉は、思わず舌打ちをしたくなった。
「どいうことなの?」
第一声にそう言われたところで、一哉には答えようがない。
それが何をさしているのか全くわからないのだから――。
「お嬢様。何のことかさっぱりなのですが?」
綾と2人きりなのだから、彼女に既に知られている地を隠す必要などないのだが、念のためにいつものように穏やかな口調で問う。
どこか飄々としたような印象を受ける一哉の答えに綾はきっと鋭い視線で一哉を睨みつける。
「あの子と付き合っているなんて私聞いてないわよ!それに…そうだとしたら、何で違う人とキスなんかしてるの?それに、誰!?あのホテルに一緒に入っていった人は!どういうことなの!!」
一気に捲くし立てるように綾は聞く。
そんなに大きな声を出さずとも一哉の耳には届いているというのに、きんきんに高い声を上げて問う。
一哉は、五月蝿いと思いながらも綾の言葉を聞き、理解し、そして無駄に干渉してこようとする彼女を鬱陶しく思った。
しらばっくれようとして彼女の聞き返そうとした言葉は、笑みを浮べたまま答えようとしない一哉に焦れた一際甲高い彼女の声に遮られる。
「答えなさいよ!!」
一哉の顔から笑みが消える。
綾は、彼の表情の変化に気づくことなく詰め寄る。
腕を掴んで揺さぶる。
それは、全て嫉妬の含まれた行動。一哉が好きだからこその行動。
感情の表現の仕方を良く知らない稚拙なまでの感情表現。
しかし、それらは全て一哉からしてみれば邪魔以外の何物でもない。
ばしっと乱暴な手で綾の己の腕を掴む手を振り払う。
「…あっ……」
振り払われた手に驚きを隠せない綾。
見開かれた揺れる瞳で、一哉の顔を見返しては、一辺の表情も読み取ることのできない冷え冷えとした顔つきを見て、思わず一歩後ずさる。
どこか恐怖を感じさせる表情。
なのに、心臓が高鳴るのは何故なのだろうか―。
自分が彼のことを好きだからということなのだろうか……。
わからない。
戸惑っている綾を尻目に一哉は一歩綾に近づくと地を這うような声で綾を上から見下すような視線で見つめながら言う。
「勘違いするんじゃねえよ。お前、俺がお前の玩具かなんかだと勘違いしてねえか?」
さらに大きく見開かれる瞳。
怒鳴りつけるような声ではなく、静かに語られる言葉は彼の纏う冷たい雰囲気と相まって彼の持つ底知れなさだとか恐ろしさというものを存分に演出している。
「お前と俺の関係はなんだ?」
彼のオーラに中てられて何も言葉を返すこともできない。
見開かれた瞳で一哉を見返すことだけが、綾にできることだった。
「ただの守られる人間と守る人間だ。それ以外の何物でもない。言われないと分からないとは、とんだ腐った頭をしているんだな。まぁ、いいさ。分かったなら、二度と余計な干渉してくんじゃねえよ。邪魔なんだよ」
吐き捨てるようにして、言うと綾から背を向けようとする。
言葉ひとつ発せそうになかった綾だったが、咄嗟に声を張り上げた。
「イヤよ!」
ぴたりと一哉の足が止まる。
ゆっくりと背を向けていたはずの綾に顔を向ける。
綾は、憎悪すら含まれているのではないかというほどの冷たい視線を向けてくる一哉の瞳を見返して、続ける。
「そんなのイヤっ!私はあんたのことが好きなのよっ!だから…だから…」
気になって仕方ない。
だが…。
「…へぇ、俺が?」
どこか軽蔑するような笑いを浮かべながら言う、一哉の言葉に綾は言葉を失う。
彼の瞳は煌々と光っていた。暗い光を纏って―。
「…虫唾が走るね」
鈍器で頭を殴られたかのような衝撃。
冷え冷えとした声音。
寒気すら感じる。
何より、彼の表情がそれを物語っていた。
「俺は、あんたのように甘やかされて育った人間を見ると殴りたくなる。苦労なんか知らずに、自分の思い通りにならないことなんてないと思っているところも胸糞が悪い」
目を見開いて一哉の顔を凝視する。
そんなことを思っていたなんて――。
さらに――。
「仕事でなければ、誰がお前のお守りなんかしたがるってんだよ。第一、結婚決まってるのに俺が好きだ?ざけんじゃねぇよ。笑わせてくれる…俺はお前の暇つぶしの玩具じゃねぇよ」
「違う…違うの本当に」
「だとしたら、もっと腹立つ。そうやってなぁ自分の都合だけ押し付けてくるんじゃねぇよ。お前のようなヤツの顔、見たくもない」
薄笑いを浮べて綾に言い切ると今度こそ背を向けた。
綾の瞳からは、堰を切ったかのように涙が零れ始める。
遠ざかっていく足音に、綾は引き止めることもできずに、涙で滲む視界に彼の背中を捉えることすらできなかった。