寂れたビルの一角にそれはあった。
迷うことなく足を進める少年とはひどく場違いな場所のように思えなくもない。
固く引き結ばれた口は、意志の強そうな眦、鼻筋の通った鼻梁は、聡明さを際立たせている。
それだけではなく、今の彼の様子からは、危うげな雰囲気も漂わせていた。
焦りからか足の動きは自然と早くなり、何かに追われるようにしてビルの中にある一室のドアをノックもなく、乱暴に開けるとずんずんと中へと進んでいく。
寂れたビルとはまるで一転して、ドアの向こう側は綺麗な内装の施された部屋だった。
部屋の中央にソファーとローテーブルが置かれている。
しかし、人は誰もいなかった。
室内の様子を確認すると、目的の人物がいないことに目を眇めた。そして、すぐに奥へと進んでいく。
勝って知ったるなんとやら、迷うことなくさらに奥の部屋のドアに手をかける。
遠慮の欠片もない乱暴な手つきでドアを開けるとさらにその奥は居住スペースとなっているようだった。
その中では、2人の男女が抱きあい、口付けを交し合っていた。
男女のその光景を見せ付けられても少年は、眉一つ動かさなかった。
それどころか嘲笑を浮かべた。
「真昼間からお盛んだな」
少年のまだ、若い青年期特有の声にゆっくりと女の方が目を開けた。
男の方はと言えば、闖入者に驚いたように女の体からがばっと離れた。
動揺丸出しの男の姿に女は、詰まらなさそうな視線を送るときっぱりと告げる。
「帰って。邪魔」
男が目を見開く。
男の方からしてみれば、こんな扱いされて男としてのプライドが黙っているわけがなかった。
見ず知らずのまだ、学生服を着た少年の登場で追い出されなければならないのか。
最初は、女に言われた言葉を理解できずに呆けた顔をしていたが、すぐに顔を怒りで紅潮させた。
女は、そんな男に至極冷めた視線を送るとその細い足を振り上げ、男を蹴り上げた。
「帰れって言ってるでしょ!」
「いっつぅ…!」
遠慮の欠片もなく蹴り上げられた男は、蹴られたところを抑えて蹲った男をふんっと鼻で笑うと少年の腕を引っ張って部屋を出た。
「相変わらず、容赦ないな」
女に引っ張られるままに部屋を出ながら、蹲る男を一瞥する。
しかし、別に哀れみを感じている訳ではない。
女を怒らせた男を心の中では笑っていた。
「あんたが来るって分かってたら連れ込まなかったわよ」
「ふーん」
髪をかき上げながら煙草を口に銜えて女が言うが、少年は顔色も変えずにつまらなそうな声を返すだけ。
つれない少年の返事に苦笑いをしながら、紫煙を吐き出すと、自分の机として利用している机の引き出しから封筒を差し出した。
それを受け取ると中身を確認する。
「それでしょ。今日ここに来た理由」
「流石」
にやりと笑いながら答えながら、そこに書かれたものに目を通す。
「その様子じゃ、お嬢ちゃんホントに浚われちゃったのかしら」
「ああ。無能なバカの所為でね」
冷え冷えとした声音に、女は片眉をこれ見よがしに吊り上げて見せた後、口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。
「半分でもお兄さんでしょ。そんな言い方しちゃ可哀想じゃない」
「ふん。普段でかい面しておきながら、いざという時に役に立たない上に、言い訳だけはご立派ときたもんだ。これを無能と言わずしてなんと言う?」
辛らつな少年の言葉に、女は喉の奥でくつくつと笑うだけだった。
その笑いを少なからず不快に思った少年が横目でじろりと女を睨みつけるが、女は悪びれた様子もなくにこりと秀麗な笑みを浮かべてみせるだけだった。
「焦ってるわね。可愛い」
「うるさい」
揶揄うような女の言葉に、むっとしたように眉間に皺を寄せて睨みつけるが先ほどと同様効果は全くなかった。
余計におかしそうにくすくすと笑うのだから、埒が明かないとうもの。
「妬けちゃうわね。あんたをそんな風にしてしまえるお嬢ちゃんに」
「何言ってるんだか…さっきの男は何だよ」
「あら、気にしてくれるの?」
先ほど、女に手ひどい扱いを受け、いまだに部屋から出てこないところを見るとまだそこに男がいるのであろう部屋を一瞥しながら少年が問うが、女は面白そうに笑うだけだった。
「まさか」
「そうよね。あんたってそういう子だわ。ひどいわよね。あんたにとって初めての女である私をこうもすげなく扱うなんて」
「よく言う。あんたの方こそ、いたいけな少年に襲い掛かって上にのっただけじゃないか」
「そうとも言うわね。だって、可愛かったんだもの」
くすりと笑いながら相槌をうつ女だったが、少年はそれ以上何も言わずに食い入るように見つめていた。
「これは、結構有名だったのか?」
紙と写真を女にちらつかせながら問う。
「ああ。それ?まぁね、情報収集は簡単だったわよ」
「こいつも間抜けだな」
「まぁね。でも、お嬢ちゃんが無事だったならの話だけどね…。追い詰められた人間は何をするか分からないところがあるから気をつけなさい」
自分の方には、一目もくれずひたすら食い入るように渡したものに目を通し続ける少年に対し、少し恨み言の一つでもくれてやりたくなるというもの。
女の台詞にちっと舌打ちをする。
「場所が変わっているということは?」
「ないわよ。実際に念のために人をつけさせたけど、動いてないようだし、お嬢ちゃんが運ばれるのを見たって言ってたわ」
「見てるなら、助けろよ」
「あら、そこまでする義理はないわ。大体ね私にここまでさせた時点で、高くつくわよ。一哉。あんた以外なら絶対にこんなことしてないんだからね」
という声に顔をあげた一哉は、にっこりと笑ってみせる。
女も同じように笑ってみせる。
それは、いつしか2人の中でできた約束。
欲しいものを与える代わりに、一夜を共にする。
それは、今日だとて変わらないはずだと思っていた。
少なくとも女に限っては――。しかし…。
「ありがと。ごめん。金は払うよ」
「は?」
予想もしてなかった一哉の言葉に、女は呆けたような顔をした。
「いくら?」
「いくらじゃなくて……どういうこと?」
「秘密」
意味深な笑みを浮かべて笑うと「また来る」とだけ言って一哉は、用済みとなったその場を後にした。
引きとめようとする女の声を背に感じながら――。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
嫌いな方・興味のない方・間違っちゃった方はバックバック
2008
Vizard (29)
繰り返される己を非難する言葉。視線。
己の非を他人に転嫁するその腐った性根に―。
頭が焼ききれそうだった。
作られた拳に力が篭る。
眦がつりあがる。
一哉の表情の変化にも責任をなすりつけようとする彼らは気づかない。
自分の非を人になすりつける前に、やることがあるだろうに。
綾はどうなるのだ。
今、危険に身を晒されている彼女はどうなるというのだ。
今にも襟首掴み挙げて殴り飛ばしたい気持ちを一哉は、必死に抑えていた。
しかし、その一哉の忍耐も長くは続かなかった。
彼らは、一哉のことを身内とは思ってもいないかもしれないが、父親を除いて身内が身内を口汚く罵る光景は見て見苦しいとでも思ったのだろう。
「やめなさい」
主である水原が苦々しい表情をしながら口を開いたことでそれは一時収まった。
その苦言に主の不興を買ったのではないかと一様に青ざめさせた彼らは、またもや縋りつくような勢いで主に詰め寄る。
中心となって口を開いていたのは、一番責任を負うべき宗司の言い訳だったが…。
一哉は、その言い訳を聞きながら、視界が赤く染まっていくのを感じた。
怒りで自然と体が震えてくる。
きりきりと眦はつりあがる。
一哉はとてもじゃないが頭を下げる気になどなれず、吊り上った目で頭を下げる宗司を睨みつけていた。
今にも人を殺しそうな視線で―。
しかし、すぐに後頭部をガッと強い力で押さえつけられ、強制的に頭を下げさせられた。
横目で確認するとスーツの色から長兄だと判断できた。
押さえつける力に逆らって頭をあげようとするとさらに強い力で押さえつけられる。
強い力に、ぎりっと唇を噛み、拳に力を入れる。
それに抗う一哉の耳に宗司の言い訳が聞こえてくる。
「私は、既に暴漢に襲われていましたので…。ですから、私にはお嬢様をお守りしたくてもできなかったんです。分かっていれば、対処はできました。誰も信号で停止している車を襲うなんて考えもできませんよ。そこを襲われたのですから…いくら、私でも」
みっともないとは思わないのだろうか。
どこまでも自分は悪くないという主張を続ける宗司の言葉を聞かされた一哉は、とうとう我慢ができなくなった。
自分の頭を押さえていた長兄である弥一の腕を掴むと自分の頭からその手を退けた。
義弟の行動に弥一は、驚いたような表情で、一哉に掴まれた腕を見つめた。
常日ごろから殴られる時は、殴られ、反抗することもなかった義弟の初めての反抗ともいえる行動。
驚かないわけがない。
一哉は、驚いている弥一など全く気にすることなく、その掴んだ手を軸にして、まだ成長過程の自分の体よりも完全に成長した弥一の自分よりも大きな体をいとも簡単に床に払い落として沈めた。
体が床に叩きつけられる衝撃に、弥一の口からは野太い悲鳴があがる。
その声に驚き、他の者が顔をそちらに向ける前に一哉は、宗司に詰め寄る。
いつもは、大人しくやられているだけの義弟の行動に驚きを隠せずただ自分の前にきた一哉を見開いた目で見返すだけの宗司。
背後で、驚きの声をあげている他の人間の声が聞こえてきたが、そんなもの一切気にもとめなかった。
驚いている宗司に、一哉の手を防げるわけもなかった。
一哉は、そんな宗司に構うことなく、怒りのまま乱暴に襟首を掴み上げ、強く握った拳を力のまま顔面に叩き付けた。
衝撃とともに訪れる熱。
宗司だけでなく人を殴るという行為は、己にも痛みが返って来る。
宗司の顔を殴りつけた一哉の拳にも熱が反射する。
ふわりと体が浮いたかと思うと次の瞬間には、壁に強かに体を打ちつけ、背中に痛烈な痛みが走る。
口からは、苦悶の声が漏れる。
甲高い悲鳴が耳をつんざく。
「ガキみたいにみっともない言い訳してんじゃねぇよ」
冷え冷えとした声音だった。
自分へと視線が集まっているのは、分かっていた。
じんじんとした痛みを訴えてくる手を軽く振り払いながら、呻き声をあげる兄を上から怒りの表情を露にして声を張り上げた。
「っざけんなよ。自分の仕事もろくに全うせずにでかい面すんじゃねぇ!この役立たず。てめぇは死んでも守れよ。何が自分は悪くないだ。ふざけんのも大概にしろっ!」
捨て台詞を宗司に向かって吐き捨てると背を向けて部屋を出た。
自分を呼び止める煩い声にも振り返らなかった。
ただ、一哉が部屋を出るために部屋のドアを開けるとそこには、血相を変えた堺が立っていた。
急に開いたドアに驚いているようだったが、すぐに一哉を押しのけるようにして部屋に入る。
「お義父さん!ですからあれほど気をつけてくださいと申し上げていたじゃないですか!石原がいつ行動に出るかわからないと事前に…」
堺の口から出てきた人物の名を一哉の耳が確りと拾いあげた。
その後の水原の濁った声も―。
なるほどと思いながら一歩足を踏み出す。
「一哉!貴様どこへ行く」
聞こえてきたのは、3人いる兄の中で、唯一、この場で一哉に何も危害を加えられていない御津だった。
ちっと舌打しながらも顔だけで振り返ると物凄い形相で自分を見てくる御津の目とぶつかる。
「うるせぇよ。デブ。文句があるなら、いっぱしに仕事ができるようになってから言えよ。口だけマザコン野郎」
辛らつな言葉に返す言葉も見つからない御津。
そんな兄を鼻で笑うと一哉は今度こそ足を踏み出した。
一哉の“草壁”という家の中で彼の置かれた環境というものを考えるのならば、今の発言・行動は決して良いものではない。寧ろ最悪だ。
しかし、そんなもの考えられなくなるくらい理性が働いていなかった。
最早、消失していたといっても良かった。
冷静さというものは、既にその報せを聞いていたときから消えていたのかもしれない。
自分が傍にいないときに起こったことだから余計に悔やまれてならないのだ。
自分が傍にいたのなら、決してこんな目にはあわせなかった。
2008
Vizard (28)
余りに突然の報せだった。
半分だけ、兄とも思っていない自分をひたすら目の敵にする兄にまだ帰りたくない―離れたくないと主張する彼女を突き放すようにして、兄に引き渡したあと、寄り道することもなく自宅へと戻ったときだった。
2度目を問うてる時間の猶予もなかった。
聞き間違いなどではないだろう。
聞いた瞬間に戦慄が身体を突き抜ける。
それは、紛れもない恐怖だった。
いつもは余裕綽綽の笑みと態度を見せる長兄も今日ばかりは、笑う余裕がないようだ。
急かすように、自分と一緒に来るように言う。
焦りから来るのだろう。乱暴な運転で主の屋敷へと向かう車の中でまんじりともしない時間を過ごした。
一体、何があった―。
別れたときに見た彼女の顔を思いだす。
一体、何が―。
自分の手を見つめる。
数時間前までには、この手は確かに彼女に触れていたといのに―。
人の―自分以外の―彼女の温もりがあったはずなのに―。
その彼女が今、窮地に立たされているなんて誰が信じられようか。
敷地内に車が乗り入れる
重い車体が敷き詰められた砂利を踏む音が体まで響く。
車の動きが停止すると同時に、飛び出すようにして兄と一哉は車から出た。
どれだけ気が急いていても主の家の玄関を勝手に開けて足を踏み入れるなどということは仕えるものとしてしてはいけないことだ。
呼び鈴を鳴らして人が顔を出すのを待つ。
僅かな時間がもどかしい。
程なくして顔を出した家政婦は、一哉と弥一の顔を認めて中へと促した。
その彼女の顔もどこか憔悴したような顔だった。
無理もないだろう。
しかし、弥一も一哉もそんな彼女に目もくれずに室内へとあがり込むと真っ直ぐにある部屋へと向かう。
己らの主である男の書斎に――。
足を踏み入れると部屋の主であり、一哉―否、草壁という家にとって仕えるべき相手が部屋を右へ行ったり左へ行ったり落ち着かない様子で忙しなく動き回っている。
顔を蒼白させた当主の姿。
髪はかきむしったのだろう乱れ、顔は焦燥し、ぶつぶつと呟きながら行ったりきたり。
その彼の傍では、一哉の父である男がひたすら床に頭を擦りつけていた。
そんな部下の姿も目に入っていない様子。
彼の動揺は推して測るべきだ。
無理もない。
妻亡き後、残された唯一の最愛の娘が拉致・誘拐されたというのだ。落ち着けという方が無理だというもの。
安否が気になって仕方ない。
綾と一緒にいたはずの宗司は、病院で手当を受けている。
何があったのか全くわからない。要領を得ない。
憔悴しきった屋敷の主は、部屋に新しく入ってきた侵入者2人を見て「あぁ」と小さく喉の奥で声を漏らした後、また顔を逸らして、部屋の中を縦横無尽に落ち着かない様子で歩き始める。
一哉は、視線で疲れきった男の行動を目で追いかけた。
視界の端に、頭を下げ続ける父の姿を捕らえながら。
綾の父親の動揺は分かる。
綾の身を守ることを任されておきながら、職務を全うできずにこのような事態を招いたことに対する草壁を統括する人間としての自分の父の失態を詫びる態度も分からないでもない。
ただ、この時間は無駄だ。
冷めた視線で、一哉は遥かに自分より経験も年の功も積んでいる2人の大人を見て思った。
横目で一緒に現れた兄を確認するが、兄もいつもの飄々とした姿は想像もつかないほど深刻な表情を浮かべて、俄かに色を失った表情をしたままじっと佇んでいる。緊張が彼を取り巻いていた。
「犯人からの連絡は?」
そう口にした一哉の声は、その空間において通常より響くようだった。
自分へと注がれる視線にも臆することはなかった。
父や兄からは非難の視線を感じた。
彼らには、目もくれず一哉は、水原その人だけを見続けた。
一哉の視線に、言葉に、はっとしたようにまだ年若い少年を見たが、鋭い一哉の視線とぶつかり、すぐに顔を逸らして言葉を濁した。
「あ…ああ…」
その男の様子に、一哉の目が光る。
「ご存知のようですね」
落ち着いた物腰の少年に、妙な違和感を覚える大人たち。
しかし、この異質な状況において彼らの妙なひっかかりはすぐに消失した。
彼らが疑問を抱く前に、主が戸惑いの表情を見せている間に一哉は続けて口を開いた。
「誰です?」
「……それは…」
明らかに言い難そうな表情をしてみせる主の姿に一哉の眉間には皺がよっていく。
何を言いよどむ必要がある。
分かっているのならこんなところで何をしているのだというのが、一哉の思うところ。
もどかしいことこの上ない。
ぐっと拳を握る。
「分かっているのなら、何故ここでこんな…」
「一哉!」
食ってかかろうとする息子の暴挙にたまらず父親が声を張り上げた。
だが、一喝された一哉は、退きさがらなかった。
あろうことか怒鳴りつけた父親を眦を吊り上げて睨みつける。
一哉の方こそ、父に向かって「頭を下げるなら猿でもできる」と言い返そうとして口を開こうとしたときだった。
一哉たちが入ってきたきり閉じられていた扉がゆっくりと音をたてて開く。
同時に室内にいた者たちの視線がそちらへと向けられる。
一哉も例外ではなく、唯一の入り口となっている扉へと目を向ける。
現れたのは、ここにはいない綾と一緒にいたはずの次兄だった。
厳しい顔つきをして、部屋に入ってきた兄の後ろから、こんなときでも厚く化粧を施した義母が現れる。
その後ろからすぐ上の兄にあたる3番目の兄の御津も入ってくる。
草壁の家のものが全て顔を揃えていた。ある意味壮観であり、ある意味異質な空間だった。
母親に付き添われ現れた次兄は、頭に傷でも負ったのだろう、これ見よがしに包帯が巻かれていた。
負傷した兄・宗司の姿を見て、一哉の眉間に皺が寄った。
だが、すぐに無表情になり、冷めた視線で兄を見た。
どのような弁解の口上が男の口から出てくるのか待った。
「申し訳ございませんでした」
開口一番にそう言うと父と同じく、床に額を擦り付けた。
その光景を見た瞬間に、こいつもかと思い、自分の横でひたすら頭を下げ続ける兄の姿を蔑ずむような視線で睨みつけた。
こんなところに居ても時間の無駄だと考え、踵を返そうとした一哉だったが、自分を睨みつける視線に気づき顔をあげた。
「お前、何、自分は関係ないとか白々しい面してる?何が起こっているのか分かってるのか?」
上の兄2人とは違い、筋肉ではなく脂肪によって肉付きのいい体をした兄の御津だった。
自分より先に取り立てられるようにして主家の令嬢を守るという仕事を与えられた義弟が常々気に入らなかっただけに、ここぞとばかりに食ってかかる。
その御津の言葉にぴくりと一哉の筋肉が反応した。
反応したのは、それだけではなかった。
義母、そして頭を下げていたはずの宗司が顔をあげてこちらを見ている。
「そうよ。御津の言うとおりだわ。おまけとは言え、あなただってお嬢様のボディーガードを仰せつかっているんですけからね」
義母が御津の言葉に呼応するかのように口を開く。
「そうだ。元はと言えば、お前がお嬢様をもっと早く連れてくればこんなことにはならなかった筈だ」
母親の言葉に同調するようにして、自分の無力を他人の所為にするような言葉を吐く次兄・宗司に一哉はぐっと拳を握りしめた。
睨みつける一哉の視線が気に入らなかったのか、それともただ責任転嫁をしたかっただけなのか。宗司の口先は止まらなかった。
2008
Vizard (27)
仕方なさそうに笑う顔が好きだ。
同じくらいの身長だったはずなのに、いつの間にか頭一つ自分より大きくなって、それに追随するように体つきもしっかりとしてもう大人の男を匂わせる。
意地悪を言っては、自分が困る姿を見ている相手に嫌な感情ひとつ抱かない。
あまりに愉しそうな顔をしているから…。
時折、見せる悲しげな瞳の理由を知りたいと思う。
学校という狭い空間の中でしか、一緒にいることはできないけれど…。
自分を取り囲む環境がそれを許してくれないけど…。
このまま時が止まれば……。
などと夢物語のようなことを何度考えたか。
しかし、いくら考えたところで不毛だ。
あの日から、彼が自分を見る瞳にそれまでは明らかに見せていた嫌悪の色は消えたけれど、宣言通り彼が自分を好きになることはないだろうから。
自分が思うように相手は返してはくれない。
しかし、捨て置かれるよりはマシではないだろうかと思う。
苦しさは膨れ上がっていく一方だが…。
頼めば、キスはしてくれる。
頼まなくてもしてくれるようにはなった。
以前に、自分以外にも彼に触れた女がいると思うと嫉妬で気が狂いそうだ。
もっと深いつながりがあったかと思うと良家の子女にあるまじきことだが、自分にもと言ってせがみたくなる。
しかし、それはいくら頼んだところでしてはくれないだろうと綾は分かっていた。
自分に触れた後に伏せられた顔を見ていればわかることだ―。
時がくれば……。
終わる。
近づけば近づくほど、遠くに感じるのは何故か。
いずれ離れなければならないということが分かっているからか―。
時など止まってしまえばいいのに。
そんなくだらないことばかりを考えていた所為だろうか…。
この状況は。
時が止まってしまえばいいなんて馬鹿なことをずっと考えていたからか。
確かにそのまま押し当てられているものを突きつけられれば自分の時は間違いなく止まる。
それでもいいかと思えてしまうのだから…。
好まない相手との結婚などせずに死ねるのだから……。
「私を殺すの?」
自由になる口で問うた声は、落ち着いていた。
自分で自分の冷静な声を耳にして笑いそうになる。
しかし、答えはなかった。
自分の喉元に押し当てられた鋭利な刃物が一度、動揺に揺れただけだった。
年の瀬も迫った12月。
いつもと同じように一哉から一哉の兄である宗司へと自分の身体は引き渡されて帰りの車に乗っていた。
もっと一緒にいたいと言った綾に、一哉は困ったように笑いながら「我侭言うな」と一蹴して綾を兄が待つところへと連れていった。
兄の視界に入るまでは、手を握ってくれていた。
大きくて。冷たい手。
この手がずっと自分を放さないでいてくれればいいのに…。
ぎゅっと力を入れて握り返した綾に気づかないはずはないが、一哉は知らない顔をして先を歩き、宗司を視界の遠くに捉えるとぱっと手を離した。
宗司に促がされるままに車に乗った。
車の外で立ったまま見送る一哉の顔をじっと見つめる。
何の感情も読み取れない表情で彼は自分を見つめていた。
そのまま加速して走り出した車は、いつもと同じルートを辿って屋敷へと帰れるはずだった。
しかし、その日はイレギュラーだった。
白昼堂々と行われた誘拐劇。
狙われたのは、国内有数の企業の社長の娘。
目的は、金と欲望。
犯人は――。
彼女を守るはずの男は、暴漢の手によって傷を負い、気絶させられていた。
自分1人で十分だという自負が誤りだった。
そして、相手はきっと調べつくしていたに違いない。
彼女達の車が信号で停止しているときに起こった出来事だった。
いとも簡単に彼女は、連れ去られた。
突然の出来事の所為もあってか、彼女は暴れることもしなかった。
ただ小さくここには、居ない人物の名を呼んだ。
「一哉」
と。
複数の覆面を被った黒尽くめの男達の手によって汚いバンに載せられて目隠しをされる。
手を拘束され、騒ぐなと一言低い声で言われる。
騒いだところで何もならないということは冷静な頭で判断できていたので、何も言わなかった。
物分りよく、頷くだけだった。
どこにつれていかれるのかと思えば、ホテルだった。
清掃員の格好をした男達によってホテルの一室に運ばれた。
目隠しをされたままだったので、はっきりとは分からないが、聞こえてきた会話から判断すると自分を攫った男達は、雇われた人間だったようだ。
ここで引き渡されて、今は別の人間が綾の傍で見張っていた。
それは、気配でわかった。
暗闇の世界で思った。
男が脅迫の電話をかけているのをどこか遠い世界でただ今の状況を見ているような錯覚に陥りながら聞いていた。
喉元に押し当てられたナイフのような鋭利な刃物も別に怖くなかった。
すぐ傍に、死の臭いを感じながらも―。
冷静な証拠に他人のことを考える余裕もあった。
恐らく父は、慌てているに違いないと。
そして、婚約者だとでかい面をしているあの好まない男も…。
きっと周りに当たり散らしているに違いない。
気絶させられた宗司は無事だろうか…。
そして、最後に彼を想った。
一哉を…。
このことは既に彼の耳に届いているだろうか。
心配を…。
少しでもいい。自分の身を案じてくれているだろうか。
そう考えて、下らない期待をするのは止めようと思った綾だった。
自分など彼を困らせるだけの存在だ。
だから、寧ろこのままいなくなってしまえば清々するに違いない――。
それでも、こう思ってしまうのだ。
自分がここで死ねば少しでも彼の記憶に長く留まることができるだろうかと。
それとも、いなくなった者のことなど綺麗さっぱり忘れてしまうだろうか。
我ながら馬鹿馬鹿しい考えだ。
でも、どんな形でもいい。彼の記憶にずっと消えない自分の姿があればいいと思う。そうどんな形でも。
どれだけ醜悪でみっともなくとも。
自分という存在が、彼の中に残ればいいのだ。
屈折した想い。
一哉からしてみれば、いい迷惑にしかならないかもしれない。いや、きっとそうだろう。
それに、ここで物言わぬ体となれたらきっと自分は幸せなまま逝けると思うから――。
望まぬ相手との結婚もしなくて済む。
ここ数ヶ月の自分にとって幸福な時間だけを抱いていけるのなら、本望だ。
最期まで、自分のことしか考えていない自分にほとほと嫌気が差してくる。
自嘲気味に口許を歪めた綾に、同じ室内に居た男達が眉をひそめた。
一段と強く刃物が押し当てられる。
動揺などしなかった。
「このまま、殺してくれる?」
少しでもいい。
あなたは、私の身を案じてくれる?
ほんのこれっぽちっでもいいの。
それさえあれば、心置きなく死ねるから……。
そして、解放してあげられるから―。
2008
Vizard (26)
満足だった。
幸せだった。
この時間があれば、他に何もいらなかった。
欲しいのは、この時間が永遠に続くこと――。
しかし、それは叶うことのない夢のまた夢。
季節は、すでに夏を過ぎ、秋へと移り変わっていた。
既に手馴れたもので、傷を作ることはなくなった。
これまで、料理などしたことのなかった綾が、屋敷の厨房に足を踏み入れるだけでなく、「お料理教えて欲しいのだけど…」と口にしたときは、流石に長年この屋敷に勤めてきた家政婦ですら驚きを隠せなかった。
少し顔を赤らめて照れたように言う少女の顔を失礼だと分かっていてもまじまじと見つめてしまった。
それもだいぶと前のことだ。
それからというものの、暇を見つけてはこうして厨房に足しげく顔を出すようになった彼女は、今ではすっかり手馴れたものだった。
何を想像しているのか。嬉しそうに笑みながら、それを少し大きめのお弁当箱につめる姿は、恋する女の子さながらだった。
「一体誰に?」というような無粋な質問は長年努める老女は問わなかった。
彼女の将来が家によって潰されることを憂いて――。
今は好きにさせてあげることがいいのだと……。
それを受け取る彼女の指から絆創膏が消えたのは、何時の頃か。
最初見たときには、一体何があったのかと驚いたものだ。
そして、突き出されるものを受け取る次いでに傷だらけになった手を掴みあげた自分を驚いた表情で見つめた彼女の顔は忘れない。
問えば、顔を赤らめた後、逸らした。
意外にも古風な女だと思った。
同時にこれがいつまで続くかと内心では、鼻で笑っていたものだ。
その日以来、止むことはない習慣。有に1年近く経過しようとしていた。
これを兄が知れば、どうなることかと思いつつも頭から邪魔な存在を追い払った。
己の主が己が馬鹿にしている自分に甲斐甲斐しく毎朝、早起きして弁当を渡してくるのだから―。それはそれで面白い。
こんな茶番、すぐに飽きると思っていた。
どうせ一時の我侭に違いないと…。
それがどうだ?
もうすぐで1年が経過しようとしている。
綾は、3年に進級し、最後の年を迎えている。
そして、一哉は高等部に進学した。
身長もぐっと伸び、体つきもひょろひょろで頼りなかったはずの体つきが徐々にしっかりとしたものに変貌を遂げようとしていた。
母譲りの秀麗な顔つきとあいまって、見た目にも魅力的な青年だ。
主に向かって我侭に付き合ってやると言った自分に主である彼女は喜んでいた。
かといって、大々的にその様を見せることはまずいと一哉だけでなく綾自身が分かっていた。
だから、彼らがそうすることができるのは、誰の目もつかない学校という狭い空間だけだった。
この場には、煩わしい兄達もいない。
矢鱈と口を挟もうとする婚約者もいない。
この場だけが、綾にとって至上の場所であり、一哉にとっては戸惑いの空間と言ってもよかった。
学校という場所故に、下手なことはできない。
もとより、終わりが見えているのだ。
綾はともかく茶番程度にしか思っていない一哉は、彼女に触れるつもりもなかったし、彼女のしたいことに付き合うだけのつもりだったのだ。
せがまれてキスはした。
しかし、それ以上はしていない。
彼女と一緒にいる時間が増えて、知ったのは面白いくらいに大人しい姿だ。
もっと我侭で尊大な態度でも取るかと思えば―そうであったのなら一哉も付き合いやすかったに違いないのだが―全くそんなことはなく。一哉からしてみれば、出鼻をくじかれたような感じに陥った。
だったら、こちらが振り回してやればいいと振り回している一哉でもあった。
そうすることで、相手が付き合いきれないと自分を見限ればいいのだ。
しかし、現実は思ったより上手くはいかなかった。
綾の自分を見る目は、変わらなかった。
ちらりと横目で綾を見ると不思議そうな瞳で自分を見返してくる。
太くなった腕を伸ばして、今では自分より小さくなり丁度いい位置にある彼女の後頭部を大きな手の平で引き寄せると躊躇いもなく唇を重ね合わせる。
触れるだけで顔を離した後、綾を見返すと目をぱちぱちとさせていたが、やがて頭が理解できたのだろう。
顔が紅潮しはじめる。
くっと鼻で笑う一哉に綾が上目遣いに少し吊り上げた瞳で見返した。否、睨み返したといったところか。
「こんなもんで赤くなって。やっぱガキだな」
片頬を吊り上げて、少し低くなった声で言う一哉は、男くささを増していて心臓に悪い。
顔を手で押さえながら睨み返すが、威力は全くなかった。
「こんなところでしないでよ」
少し頬を膨らませて言う彼女の姿は子供っぽい。
「今更だろ」
「もうっ」
と怒ったような口調をしてみせるもののそれは、どこか嬉しそうだった。
そんな表情を見せられると居た堪れない気持ちになる。
不自然さを悟られないように視線を外す一哉だった。
何故に自分がこんな思いをしなければならないのだ。
間違えるな。
自分は、ただお遊びに付き合っているだけだ。
最後の遊びに。
いつもの女達に接するのと同じでいい。
良いはずなのだ。
罪悪感も感じる必要はない。否、感じる必要などない。そんなものであるはずがないのだ。
では、この感情はなんだ?
この言葉に出来ない気持ち悪さは…。
最初に言ったじゃないか。
絶対に好きになどならないと――。
だから、違う。
絶対に違う。
これは、そんな感情じゃない。
そんな甘いものじゃない。
超がつくほどの我侭で尊大だった彼女があまりに、自分に見せる姿が一途で…。
だから、こんな変な感じがするだけなのだ。
絶対に違う。
これは、違う。
違うのだ。
彼女は、自分にとって――。