綾は、ある部屋の前に立ち、辺りをきょろきょろと確認した。
躊躇いがちに部屋の扉をノックする。
木で作られた扉が快音を響かせる。
コンコン。
それは、ノックした人物の迷いを示すかのように控えめな音だった。
部屋の主が外に顔を出してくるまでの間も辺りを警戒するようにきょろきょろと首を動かしては確認する。
綾が顔を外に向けているときに扉から、廊下へと顔を向けている時にがちゃりとドアノブが回さされる音が耳に届き慌てて顔を戻して出てくるであろう人物に向き合うべく笑みを象った。
「あ…、あのね、きゃっ!」
きっと驚いているに違いないと少し緊張して口を開いた綾だったが、急に腕を強い力で引っ張られて小さく悲鳴があがるがそれもすぐに口を大きな手で塞がれて掻き消えた。
驚いて目をぱちぱちと瞬いていた綾に眉根をよせ、難しい顔をした一哉の顔のドアップが視界いっぱいに広がる。
何故、そんなに難しそうな顔をしているのかわからずに綾は口を手で塞がれたまま目を見開くばかりだった。
「何しにきた?」
と問う声は、厳しい声音だった。
綾は、ただ会いたかっただけなのだ。
すぐ近くにいるのに、ちっとも一哉は会いにきてくれない。それどころか、故意にしているのかどうかは定かではないが、碌に顔すら合わせない。
綾は、会いたくて会いたくて仕方がなかったというのに…。
自分だけがこんな気持ちを抱えているのだろうかと不安になる。
あの日、名前を呼んで抱きしめてくれたのは、目の前の人物ではなかったのだろうか。
まるで別人のように感じる。
ドライ過ぎて―。
自分の口を押さえている手を少し乱暴な手つきで振りほどくと綾は、対峙する人物と同じように眉間に皺を寄せて小難しい顔をして、下から頭一つ分高い位置にある顔を上目遣いに軽く睨みつけた。
そして、唇を尖らせるようにして言う。
「だって…一哉ったらこんなに近くにいるのに一度も会いにきてくれないんだもの」
綾の恨み節に一哉はじっと眉間に皺を寄せたまま彼女を見つめていたが、大きく嘆息を漏らすと呆れたような表情をして顔を背けた。
一哉の表情の変化に綾は、ただ呆然として目を見開いた。
綾に背を向けた一哉は、大袈裟なまでの嘆息を漏らすとともに綾の言葉を一蹴した。
「馬鹿か」
その冷え冷えとした声に目を見開く。
「な、何よ。何でそんなこと言うのよ」
自分へと向けられた背中をじっと見据える。
冷たい扱いを受けるなんて思ってもみなかったものだから、目頭が熱くなってくる。
声が震えそうになり、自然と小さくなってしまう。
じっと耐えるように唇を噛む。
背中へと向けられていた視線は自然と下に下がっていき、地面を穴が開きそうなほど見つめる。
だから、綾は気づかなかった。
背を向けていたはずの一哉が彼女を見ていたことなど…。
自分の言葉に傷ついていることは一哉とて分かっていた。
しかし、だからと言って言葉を撤回する気は毛頭ない。
発覚してからでは遅いのだ。
気づいたときには手遅れでしたでは、話にならない。
近くにいるからこその自覚と自制が今後の一哉のみならず、綾の一生も左右する。
それを綾は分かっていない。
顔をうつむける綾の姿を見て、一瞬だけ切ない表情を浮かべた。
自分達を取り巻く環境は、最初から分かっていたのだ―。
初めから――。
万が一にも――。
続くことはない。
夢物語だ。
自分の気持ちに気づいたところで、結末は決まっている関係なのだ――。
いずれ、別々の時間を歩まなければならない。
こんなことなら、彼女の我侭に付き合わなければ良かった。
こんな苦しい思いをするならば―。
一瞬だけ顔に本心を表した一哉だったが、それに綾が気づくことはなかった。
すぐに無表情のどこか冷たさだけを感じさせる表情に戻して、綾を見つめていた。
下を向いていた綾だったが、視線を感じたのか恐る恐る顔を上げるとすぐ近くに一哉の顔があって驚いたように目を瞬かせた。
「一哉?」
「考えろ」
不審な綾の声を遮るようにして一哉の静かな声が鼓膜を刺激する。
何を言われているのかわからない綾は、きょとんとした表情を浮かべるが、一哉は表情を崩すことはしなかった。
「使用人のしかも男の部屋に易々と入ってくるな」
「…、で、でも…」
「でもも何もない。自分がやってることの危うさを考えろよ」
「そんな…」
どちらが大人であるかは、発言から明らかだった。
綾とて分からないでもなかった。
現に、彼女はここに来る途中にも誰にも見つからないように注意していた。
廊下を必要に振り返り、誰もいないことを確認して――。
ノックをした後も人が通らないかどうか、細心の注意を払って。
危険を冒してまで自分が一哉に会いたいということを一哉は分かっているのかと綾は詰りたくなった。
だが、ぐっと息を飲んで堪えた。
何も言わなくなった綾に一哉は背を向けて、壁にある棚の中から本を取り出す。
分厚い本を手に取りながら、決して綾の方は見ることなく何気なく口にする。
「俺がここにこれるようにしたのは、お前か?」
その問いに綾の瞳は見開かれる。
そう思われていたのか――。
と。
「違うわ」
「へー、違うの」
くすりと笑ったが、その笑みは人の悪い笑みだった。どこか小馬鹿にしたような笑い。
綾からしてみれば心外そのもの。
「違うわよ。お父様が宗司だけでは頼りないからって…」
「ふーん」
「お父様から聞いたわ。宗司を一哉が殴って一喝したって―」
「ああ。あんまりにも見苦しかったから」
平然とした口調でこともなげに言う一哉。
声はとても家族のことを言っているようには見えなかった。
「私だって急に聞かされて吃驚したのよ。宗司の代わりに一哉を…って」
「そ」
もう興味ないというような声。
綾は、自分だけが熱くなっている姿をまざまざと見せ付けられたようだ。
綾の表情をそっと盗み見た一哉は、手にしていた本を持つ手にぐっと力を入れた。
視界に入る文字は滑り、頭には入ってこない。
もとより、そんな読もうとして開いた本ではなかった。
気を紛らわすことができればと思って開いた本だった。
綾と対峙していると自分を見失いそうになる。
今だって興味ないと見せておきながら、内心は真逆だった。
手を伸ばせば届く距離にいる。
この空間なら、誰も見ていない。
しかし、理性がそれを制止する。
一度、味わうと後に退けなくなる。分かっているからこその選択だった。
冷たい態度は、まるで綾に自分のことなど嫌ってくれと言っているようなものだった。
それが、彼女に伝わるか否かはさておいて――。
本当は、悲しませるようなことは言いたくないのだけれど……。
本当は、ありのままの自分で彼女を愛せたらいいのだけど……。
―それでも、彼女のために嘘を吐く。
否、彼女のためだからこそ……。
自分のことなど嫌いになればいい――。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
嫌いな方・興味のない方・間違っちゃった方はバックバック
2008
Vizard (34)
その日以降、一哉が草壁の家に帰ることはなかった―。
翌日は、とてもじゃないが綾とて学校にいける様子などではなかった。一方、一哉は普通に学校に通学してはいた。
大方予想はできてはいたものの、綾が到着する時刻に正門近くで待っていると兄の運転する車が乗り込んできて最初は驚いた。
そして、兄だけが中から出てきたことにもっと驚いた。
警察署の前で捨て台詞を吐くだけ吐いて別れただけに気まずさのようなものはあったが、それを感じさせずにいつもの笑みを浮かべて一哉はそれを迎え入れた。
兄は苦々しい顔をしながら、一哉を一瞥した後、顔を背けたまま命じた。
「放課後、水原の屋敷へ来るように」
と。
ある程度、予想はしていた。
彼の失態は、それに値する失態だった。
父からそれを聞かされたとき、みっともなく食い下がってみたが、にべもなく「決定事項」だと切り捨てられた。
「くそっ…」
ハンドルを握りながら悪態をついてみても、何も変わりはしない。
そう変わらないのだ。
兄の言葉に従い、放課後真っ直ぐに水原の屋敷へと向かった。
その後、綾は大丈夫だろうかと気にしながら――。
一哉が屋敷に仕える女中に案内されて室内に到着したときには、兄も父も既に揃って居た。
主人である水原とそして、綾の姿もある。それだけではない。堺の姿もそこにはあった。
「…遅くなり、申し訳ありませんでした」
別に寄り道もしたわけではない。
学校が終わるのもいつもと変わらなかった。
一哉自身に非はなかったが、この場では、そう言わざるを得ない雰囲気が漂っていた。
部屋の入り口で綺麗な所作で頭を一礼した後、室内に入る。
自分へと注がれている綾の視線に気づいていた。
しかし、無視をした。
そして、兄の焼け付きそうな視線にも気づいた。
それには、一瞥を送った。
彼の顔は、醜いまでに歪んでいた。
いっそのこと滑稽なほどに――。
軽く口の端を持ち上げるとその意味が分かったのか、兄はひどく一哉を睨みつけた。
その手に作られた拳はぶるぶると震え、聞こえてきそうなほど強く歯軋りを繰り返していた。
―みっともない。
恥晒しめ―。
そんな兄の姿を見てもその程度にしか思わなかった。
「いや、構わないよ」
穏やかな話口の水原は、娘が無事に戻ってきたことですっかり落ち着きを取り戻している様子だった。
昨日の焦りが嘘のように―。
「綾から聞かせて貰ったが…、最初に綾を助けてくれたのは君のようだね」
「…いえ、私は…」
水原の口から零れたのは、事実なのだが、ここは謙虚にしているべきだと踏んだ一哉は、軽く首を振りながら答えた。
しかし、水原は上機嫌な声で笑い、一哉の言葉を遮った。
「それでだが…、学内だけじゃなく普段も綾の護衛を頼みたいんだが、構わないだろうか?」
一哉は目を見開いた。
兄の苛立ちの理由を悟った。
横目で兄を確認すると必死に自分の感情を抑えているのだろう。
座るソファの上で膝の上に作られた拳が震えていた。
不自然さを感じさせずに自然に視線を滑らせて今度は兄から真向かいに座る綾に目を向ける。
綾は、一哉の視線を受けてにっこりと笑うだけだった。
その目は腫れていて、泣いていたことを表している。
別れたときの泣いていた彼女の姿が思い出されてならない。
逃げるように一哉は、横に座る彼女の婚約者である男の顔を確認する。しかし、彼の顔は不服そうな顔をしていた。
どうも、彼は納得していない様子だと一哉は悟る。
本能で感じ取っているのかもしれない。彼女の気持ちを――。
その後、水原に視線を戻す。
「ですが、お嬢様にはすでに兄が…」
「宗司くんには、今まで通りついてもらうが、今回のようなことまたがあったときに2人ならまだ、対処の仕方があるかもしれないだろう?1人より2人の方が私も安心だし、君の今回の行動を評価しているんだ」
「それは、ありがとうございます。兄の補佐ということですか?」
「いや、君の補佐を彼にしてもらう形にしてくれ」
尚のこと、兄にとっては面白くないことだろう。
しかし、一哉からしてみればこれ以上面白いことはない。
己を見下げてきた男の上に立つことができるのだ。
笑いがこみ上げてくるのを堪えつつ、向かい側に座る青年の顔を確認した。
「どうも堺様は、納得してないようですよ」
指摘してやれば、水原の視線が綾を挟んで向こうに座る堺へと移る。
咎めるような視線を向けられ、堺は緊張に身を固くした。
ピシッと背筋を伸ばして、婚約者の父親の視線に耐える。
「そうなのかい?正一君」
「まさか。綾さんの身の安全を考えれば…」
「だそうだ。どうだろう?」
娘の婚約者の100点満点の答えに満足して相好を崩しながら一哉に向き直る。
笑いを噛み殺しながら頷いた。
「こちらです」
「ありがとうございます」
案内された部屋を確認して、案内してくれた屋敷で働く顔なじみの女中に礼を言う。
決して広いとは言えない空間。
ベッドと木の机。
本棚と造りつけのクローゼット。
草壁の自分の部屋に比べても十分に広い空間。
あの家のように自分に苛立ちをぶつけて暴力という形で訴えてくる人間などいない。
己の体をサンドバッグのように扱う者たちなどいない。
恨みの篭った視線で見てくる女もいない。
居ないもの同然に扱い、自分の過ちから目を逸らし続ける何よりも憎い男もいない。
これで、女の住むところを転々としなくて済む。
自分の居場所のないあの家に帰る必要もない。
―彼女と同じ空間にいることができる。
2008
Vizard (33)
警察によって事情聴取を受けた後、解放され、家に帰ろうと警察署を出た一哉を待っていたのは、父と兄2人だった。
神妙な顔をした彼らを見た時、ふっと自嘲気味た笑いが一哉の口から零れる。
役立たず共が雁首そろえて何しているのか―と。
そんな彼らの前を素通りしようとした一哉は、引き止められた。
「一哉」
父の低い声に、ぎろりと鋭い視線を送る。
息子のそんな睨みは、初めてだった。
否、忘れていただけで、最初に亡き愛人が産んだ自分の子供を妻のいる家へと上げたその日に送られた小さな子供からの視線と同じだった。
10年以上前のことを忘れていただけだ。
そうだ。
最初から何一つ変わっていないのだ。
「何かご用ですか?」
冷え冷えとした声音。
「ふん。英雄気取りか?」
本日の失態の原因である兄の宗司の声にぴくりと一哉の表情が引きつった。
一体、誰の所為だと―。
しかし、ここで苛立った様子を見せては、程度の低さを露見しているだけに過ぎない。
くすりと笑ってみせた。
「いいえ」
綺麗な顔に象られた笑みは、その目が笑っていなければ不気味さと腹立たしさを一層煽るだけだ。
それが、憎い相手であれば尚更のこと。
父はさておき、兄2人の癇には障ったようだった。
それすらも内心では笑っていた。
馬鹿で低俗な男達だと。
「今日のことは、僕の責任のようですからね。責任に対する義務を果たしただけですよ。どこかの誰かさんとは違ってね。謝るだけなら猿でもできる。…違いますか?」
たっぷりと棘をこめた一哉の言葉に、宗司の顔が怒りに赤く染まる。
そして、父親は眉間にぐっと皺を寄せた。
「まぁ、猿真似しか出来ない時点で猿以下でしょうがね」
「一哉。貴様…」
「くだらない言い訳をつらつらと並べている暇があるなら、探しにいった方が時間の無駄がなかったと思っただけですよ。誰かを見ていてね…」
にっこりと笑う一哉。
宗司が怒りに任せたまま一哉の制服の襟首を掴み上げた。
大きく揺さぶられるが、既に殴られることに慣れている一哉は全く動じない。
自分の台詞は、彼のプライドを傷つけるような言葉をわざと選んでいる。
その後の兄の行動も至極簡単に読めていた。
「どうぞ。気のすむまで殴ればいい。まぁ、今回あなたには、いいところが一つもなかったようですしね」
くすくすと更に怒りを煽るような台詞を選んでは吐く。
一哉の手のひらの上で転がされるようにして、激情を覚える兄の顔を見て喉の奥で笑いを噛み殺していた一哉だったが、それは横から飛んできた拳によって中断させられた。
何も己だけでなく、自分の襟首を掴みあげていた宗司までもが殴られたようで、掴まれていたはずの襟首が解放されたが、突然のことにバランスを崩し、一哉はよろめきながら足を2、3歩踏み、その後なんとか地面に尻をつくことを避けることができた。
一方の宗司はと言えば、突然の予想もしない衝撃に地面に伏していた。
この殴られた後の2人の姿が、如実に力の差を表していたのかもしれないし、もしくは、2人によって力を使い分けていたということも考えられなくもない。
しかし、その真意を問うことはできなかった。
「いい加減にしろ」
苦々しい兄の一喝によって―。
「宗司。今日の非は、全部お前の責任だ。一哉に感謝しろ」
殴られたところを抑えながら、苦悶の表情を浮かべた。
「一哉。貴様は、宗司を煽るようなこと言うんじゃない。お前も勝手な行動は今後…」
「あんたも一緒だろうが」
宗司にびしっと苦言を呈した後、一哉に向かって同じように小言を言おうとした弥一だったが、全てを言い切る前に、一哉自身によって遮られた。
弥一の目が見開かれる。
己を睨みつける義弟の視線に思わず息を呑んだ。
「何様のつもりか知りませんが、偉そうな口利くのは、勝手ですけどね。何もせずにのうのうとあの場でただ頭を下げる男を見てるようじゃ程度が知れてるというものですよ。現当主、次期当主が雁首揃えて何やってるんだか。その癖、一番の役立たずに先を越されてちゃ世話も面目もないですね。失礼します」
あろうことか父までも馬鹿にした言葉に弥一の怒りのボルテージは上昇していくばかり。
どこまで、恩知らずなヤツだろうかと―。
背を向けて今度こそ彼らの前から姿を消そうとした一哉だったが、そう簡単にはいかなかった。
今度は、弥一が怒りの表情を滲ませて一哉の肩を掴んだ。
それを煩わしげに見た後、一哉はその手を掴み上げ、主家である水原の家で見せたときと同じように兄の体を地面にねじ伏せようとした。
いい加減煩いと―。
コンクリートは木の床とは異なり、さぞかし体に響くだろうに―と口許をにやりと歪めた。
しかし、それは父親によって制止された。
「一哉!やめろっ!!」
チッと舌打して兄の腕を掴んでいた手を離した。
そして、父親の顔を睨みつける。
「お前、何故お嬢様の居場所がわかった」
「…」
何を言い出すかと思えばそんなことかと思い、息を吐き出しながら軽く首を横に振る。
「何故、それをあなたに言わなくてはならないんです?」
「今後のために…、草壁の家としてだな」
「馬鹿げたこと言わないでください。名前はやっても草壁の人間だとは認めてないくせに―調子いいことばかり言わないでくれませんか。これは、僕が僕自身で培ってきたものです。何であなた方に無償でそれを提供しなければならないんですか?冗談も休み休み言ってください」
「一哉!貴様…。この恩知らずめ」
一哉の言葉に異常に興奮した宗司が声を張り上げる。
しかし、一哉の一睨みで押し黙った。
それほどの迫力があった。
既に、一哉の理性は我慢の限界が来ていた。
今日のこと。
目まぐるしく変化した一日に疲れているのに、ここへきて鬱陶しい以外の何物でもない家族とは名ばかりの者たちの干渉。
「誰が恩を売れなんて頼みましたか?大体、何故、今まで僕が何も言わずに黙って殴られてサンドバッグになってあげていたと思うんでしょうね。せめてもの宿代だと思っていたんですけどね…。あなた方には伝わっていなかったようですね。それでも余りあるくらいだと思っていたんですけど、足りませんでしたか?」
兄達は無視して、父親を睨み吸える。
父は、一哉が他の家族によってどのような扱いを受けているのか知りながらも見てみぬ振りをして何もしなかったという心苦しさがあるのか一哉の視線から逃げるように顔を逸らした。
そんな父に侮蔑の視線を送りながら、一哉は続けた。
「少なくとも僕には十分すぎると思っていたんですけど…。あなた方が何かしてくれましたか?してくれたことと言えば、まだ幼かった―しかも、母を亡くしたばかりの幼児の手から母の遺影を奪い、焼き捨て、愚弄したことくらいだと思うのですが、間違いでしょうか」
押し黙った彼らを一哉は鼻で笑うとじゃりっと靴音をたてて、その場から姿を消した。
「どこへ行く」という問いには答えを返さなかった。
ひっそりと暗闇に姿を消した。
神妙な顔をした彼らを見た時、ふっと自嘲気味た笑いが一哉の口から零れる。
役立たず共が雁首そろえて何しているのか―と。
そんな彼らの前を素通りしようとした一哉は、引き止められた。
「一哉」
父の低い声に、ぎろりと鋭い視線を送る。
息子のそんな睨みは、初めてだった。
否、忘れていただけで、最初に亡き愛人が産んだ自分の子供を妻のいる家へと上げたその日に送られた小さな子供からの視線と同じだった。
10年以上前のことを忘れていただけだ。
そうだ。
最初から何一つ変わっていないのだ。
「何かご用ですか?」
冷え冷えとした声音。
「ふん。英雄気取りか?」
本日の失態の原因である兄の宗司の声にぴくりと一哉の表情が引きつった。
一体、誰の所為だと―。
しかし、ここで苛立った様子を見せては、程度の低さを露見しているだけに過ぎない。
くすりと笑ってみせた。
「いいえ」
綺麗な顔に象られた笑みは、その目が笑っていなければ不気味さと腹立たしさを一層煽るだけだ。
それが、憎い相手であれば尚更のこと。
父はさておき、兄2人の癇には障ったようだった。
それすらも内心では笑っていた。
馬鹿で低俗な男達だと。
「今日のことは、僕の責任のようですからね。責任に対する義務を果たしただけですよ。どこかの誰かさんとは違ってね。謝るだけなら猿でもできる。…違いますか?」
たっぷりと棘をこめた一哉の言葉に、宗司の顔が怒りに赤く染まる。
そして、父親は眉間にぐっと皺を寄せた。
「まぁ、猿真似しか出来ない時点で猿以下でしょうがね」
「一哉。貴様…」
「くだらない言い訳をつらつらと並べている暇があるなら、探しにいった方が時間の無駄がなかったと思っただけですよ。誰かを見ていてね…」
にっこりと笑う一哉。
宗司が怒りに任せたまま一哉の制服の襟首を掴み上げた。
大きく揺さぶられるが、既に殴られることに慣れている一哉は全く動じない。
自分の台詞は、彼のプライドを傷つけるような言葉をわざと選んでいる。
その後の兄の行動も至極簡単に読めていた。
「どうぞ。気のすむまで殴ればいい。まぁ、今回あなたには、いいところが一つもなかったようですしね」
くすくすと更に怒りを煽るような台詞を選んでは吐く。
一哉の手のひらの上で転がされるようにして、激情を覚える兄の顔を見て喉の奥で笑いを噛み殺していた一哉だったが、それは横から飛んできた拳によって中断させられた。
何も己だけでなく、自分の襟首を掴みあげていた宗司までもが殴られたようで、掴まれていたはずの襟首が解放されたが、突然のことにバランスを崩し、一哉はよろめきながら足を2、3歩踏み、その後なんとか地面に尻をつくことを避けることができた。
一方の宗司はと言えば、突然の予想もしない衝撃に地面に伏していた。
この殴られた後の2人の姿が、如実に力の差を表していたのかもしれないし、もしくは、2人によって力を使い分けていたということも考えられなくもない。
しかし、その真意を問うことはできなかった。
「いい加減にしろ」
苦々しい兄の一喝によって―。
「宗司。今日の非は、全部お前の責任だ。一哉に感謝しろ」
殴られたところを抑えながら、苦悶の表情を浮かべた。
「一哉。貴様は、宗司を煽るようなこと言うんじゃない。お前も勝手な行動は今後…」
「あんたも一緒だろうが」
宗司にびしっと苦言を呈した後、一哉に向かって同じように小言を言おうとした弥一だったが、全てを言い切る前に、一哉自身によって遮られた。
弥一の目が見開かれる。
己を睨みつける義弟の視線に思わず息を呑んだ。
「何様のつもりか知りませんが、偉そうな口利くのは、勝手ですけどね。何もせずにのうのうとあの場でただ頭を下げる男を見てるようじゃ程度が知れてるというものですよ。現当主、次期当主が雁首揃えて何やってるんだか。その癖、一番の役立たずに先を越されてちゃ世話も面目もないですね。失礼します」
あろうことか父までも馬鹿にした言葉に弥一の怒りのボルテージは上昇していくばかり。
どこまで、恩知らずなヤツだろうかと―。
背を向けて今度こそ彼らの前から姿を消そうとした一哉だったが、そう簡単にはいかなかった。
今度は、弥一が怒りの表情を滲ませて一哉の肩を掴んだ。
それを煩わしげに見た後、一哉はその手を掴み上げ、主家である水原の家で見せたときと同じように兄の体を地面にねじ伏せようとした。
いい加減煩いと―。
コンクリートは木の床とは異なり、さぞかし体に響くだろうに―と口許をにやりと歪めた。
しかし、それは父親によって制止された。
「一哉!やめろっ!!」
チッと舌打して兄の腕を掴んでいた手を離した。
そして、父親の顔を睨みつける。
「お前、何故お嬢様の居場所がわかった」
「…」
何を言い出すかと思えばそんなことかと思い、息を吐き出しながら軽く首を横に振る。
「何故、それをあなたに言わなくてはならないんです?」
「今後のために…、草壁の家としてだな」
「馬鹿げたこと言わないでください。名前はやっても草壁の人間だとは認めてないくせに―調子いいことばかり言わないでくれませんか。これは、僕が僕自身で培ってきたものです。何であなた方に無償でそれを提供しなければならないんですか?冗談も休み休み言ってください」
「一哉!貴様…。この恩知らずめ」
一哉の言葉に異常に興奮した宗司が声を張り上げる。
しかし、一哉の一睨みで押し黙った。
それほどの迫力があった。
既に、一哉の理性は我慢の限界が来ていた。
今日のこと。
目まぐるしく変化した一日に疲れているのに、ここへきて鬱陶しい以外の何物でもない家族とは名ばかりの者たちの干渉。
「誰が恩を売れなんて頼みましたか?大体、何故、今まで僕が何も言わずに黙って殴られてサンドバッグになってあげていたと思うんでしょうね。せめてもの宿代だと思っていたんですけどね…。あなた方には伝わっていなかったようですね。それでも余りあるくらいだと思っていたんですけど、足りませんでしたか?」
兄達は無視して、父親を睨み吸える。
父は、一哉が他の家族によってどのような扱いを受けているのか知りながらも見てみぬ振りをして何もしなかったという心苦しさがあるのか一哉の視線から逃げるように顔を逸らした。
そんな父に侮蔑の視線を送りながら、一哉は続けた。
「少なくとも僕には十分すぎると思っていたんですけど…。あなた方が何かしてくれましたか?してくれたことと言えば、まだ幼かった―しかも、母を亡くしたばかりの幼児の手から母の遺影を奪い、焼き捨て、愚弄したことくらいだと思うのですが、間違いでしょうか」
押し黙った彼らを一哉は鼻で笑うとじゃりっと靴音をたてて、その場から姿を消した。
「どこへ行く」という問いには答えを返さなかった。
ひっそりと暗闇に姿を消した。
2008
Vizard (32)
「綾っ!!」
切羽詰ったような声音は、常日頃からは想像できないようなもので―。
まさかと最初は思った。
幻覚だとさえ思った。
しかし、強く自分に回された腕に、温もりに、近くから香る匂いに“彼”だと分かった。
目隠し用の布の下で、驚きに目を見開いた。
すぐに、締め付けんばかりに抱きしめる強い力に布の下の瞳からは、涙が湧き出てくる。
夢ではないだろうか―。
後ろで、拘束されていた手が解放されると同時に、これが夢などではなく現実であるということを確かめるようにただ、ただ―その体を抱き返した。
細い体。
間違えるはずなどない―。
やがて、視界を覆っていた布が同じように外されたが、涙で視界が滲んで見えるものも見えなかった。
ただ、耳元で自分の名を呼ぶ声に一度溢れ出した涙は止まることなく、止め処なく次から次へと流れ落ちた。
それを拭うように唇が吸い取る。
「綾」
と―。
安堵を滲ませて囁くように何度も零れる声に――。
それが、彼に―一哉に名前を呼んで貰えた最初の瞬間だったから――。
日常の彼からは、想像もできない行動。
死んでもいいとさえ思った。
否、このまま――。
一哉は、応対に出た1人目を沈めた後、現れた2人目もなんなく気絶させた。
その後、部屋の中で綾が拘束されているのを見つけたとき、もう衝動的に動いていた。
自分らしくもなく、彼女の名を呼び、抱きしめ、その体が無事であることを―、生きていることを確認する。
驚きに身を固くしている彼女のことなどお構いなしに強く抱きしめ、拘束されていた手を解放してやると同じように強い力で抱きしめられた。
体が歓喜に震えるのを感じた。
同じように視界を覆っていた布を外してやるとそこからは、大粒の涙が零れていた。
自然と体が動き、それを舐め取る。
甘かった。
ただ、名前を呼ぶことしかできなかった。
同じようにか細い、震える声で己の名前が彼女の口からも繰り返される。
それは、確かに恋人達の無事を喜ぶ逢瀬の時間だった。
――邪魔が入るまでは…。
確かに、2人は紛れもなく、2人の間にある約束事など関係なく、恋人同士の姿だったのだ。
バタバタと言う幾人もの足音が聞こえてきたことに最初に気づいたのは、一哉だった。
即座に感情よりも理性が働いた。
足音と想像しい気配に目を見開くと体を起こして、ガバッと自分にしがみついていた綾の体を引きはなした。
その瞬間的な判断力は間違っていなかった。
一体、どうしたのかと目を見開いて驚く綾に対して、一哉は表情を引き締めた。
その直後、大人数の人間が部屋へと流れ込んできた。
綾とて、その意味に気づかないわけではない。
一哉が自分の体を突き放した理由を知った。
見詰め合っていた綾と一哉だったが、綾は涙を浮かべたまま困ったように悲しそうに笑った。
「綾さん!」
自分を呼ぶ心配という色を含んだ婚約者の大きな声。
そんなものより目の前にいる少年の小さく繰り返される言葉がもっと、もっと欲しかった。
「お嬢様。大丈夫ですか?」
助けにきた忠実な従僕として完璧な言葉を吐く。
今は、もうその口から自分の名前が紡がれることはない。
“綾”とは……。
もう、従う者と従える者でしかない。
現れた婚約者のために場所を開ける一哉。
縋るような綾の視線に気づいていながら…。
分かっている。
頭では―。
それが、必要なことだと――。
でも、気持ちはついていかなくて…。
先ほどまで、確かに彼を抱きしめていた手は凄く震えていて…。
その震えは、日常ではあり得ない命の危険に晒された緊迫した環境から解放されたための震えか。
それとも―。
心から愛しい者から引き離されたことへの悲しみからか。
震える手で顔を、目を覆い嗚咽を噛み殺した。
何故、その手はずっと私を抱きしめていてくれないの―。
何故、周りはそれを許してくれないの―。
その姿は、緊張から解放されて安堵のあまり感情が制御できなくなった憐れな少女にしか見えなかった。
婚約者は、彼女をそっと立たせて部屋から連れ出す。
甲斐甲斐しいその光景は、見る者を感動すらさせたかもしれない。
無感動の瞳でそれを見送った後、一哉は気づいた。
自分の手がいまだ震えていたことに――。
今頃になって、震えが恐怖が一哉の体を襲っていた。
物音を怪訝に思って、2人目に顔を出した男は、その手にナイフという凶器を手にしていた。
それが、もし万が一彼女を傷つけていたかと思うと恐ろしくてならない。
寧ろ、一哉は幸せかもしれない。
それによって傷つけられることを綾が望んでいたなどとは知らされていないのだから―。
帰りの車の中で、一哉と引き離された綾は、泣き続ける自分を落ち着かせようと自分の肩を抱きしめる男の手をバシッと遠慮の欠片もない手で払いのけた。
「触らないで」
そう口にした声は、震えていたが、誰もそんな彼女の言葉を疑問に思うことはなかった。
異様な危機感に晒されたせいでただ、気が立っているだけなのだと。
そして、婚約者である男に同情すらよせるのだった。
婚約者がこのような目にあっては、今後が心配でならないだろうと―。
だが、そんな視線に目をくれることなく綾は、車の中で口を手で覆ったまま、ひたすら「一哉」とここにはいない彼の名を呼び続けた。
事の真相は簡単なものだった。
綾の父親により切り捨てられた男の逆恨みにすぎなかった。
狙われるのは、常に弱者だ。
しかし、見事失敗に終わった。
ただ、それだけのこと。
切羽詰ったような声音は、常日頃からは想像できないようなもので―。
まさかと最初は思った。
幻覚だとさえ思った。
しかし、強く自分に回された腕に、温もりに、近くから香る匂いに“彼”だと分かった。
目隠し用の布の下で、驚きに目を見開いた。
すぐに、締め付けんばかりに抱きしめる強い力に布の下の瞳からは、涙が湧き出てくる。
夢ではないだろうか―。
後ろで、拘束されていた手が解放されると同時に、これが夢などではなく現実であるということを確かめるようにただ、ただ―その体を抱き返した。
細い体。
間違えるはずなどない―。
やがて、視界を覆っていた布が同じように外されたが、涙で視界が滲んで見えるものも見えなかった。
ただ、耳元で自分の名を呼ぶ声に一度溢れ出した涙は止まることなく、止め処なく次から次へと流れ落ちた。
それを拭うように唇が吸い取る。
「綾」
と―。
安堵を滲ませて囁くように何度も零れる声に――。
それが、彼に―一哉に名前を呼んで貰えた最初の瞬間だったから――。
日常の彼からは、想像もできない行動。
死んでもいいとさえ思った。
否、このまま――。
一哉は、応対に出た1人目を沈めた後、現れた2人目もなんなく気絶させた。
その後、部屋の中で綾が拘束されているのを見つけたとき、もう衝動的に動いていた。
自分らしくもなく、彼女の名を呼び、抱きしめ、その体が無事であることを―、生きていることを確認する。
驚きに身を固くしている彼女のことなどお構いなしに強く抱きしめ、拘束されていた手を解放してやると同じように強い力で抱きしめられた。
体が歓喜に震えるのを感じた。
同じように視界を覆っていた布を外してやるとそこからは、大粒の涙が零れていた。
自然と体が動き、それを舐め取る。
甘かった。
ただ、名前を呼ぶことしかできなかった。
同じようにか細い、震える声で己の名前が彼女の口からも繰り返される。
それは、確かに恋人達の無事を喜ぶ逢瀬の時間だった。
――邪魔が入るまでは…。
確かに、2人は紛れもなく、2人の間にある約束事など関係なく、恋人同士の姿だったのだ。
バタバタと言う幾人もの足音が聞こえてきたことに最初に気づいたのは、一哉だった。
即座に感情よりも理性が働いた。
足音と想像しい気配に目を見開くと体を起こして、ガバッと自分にしがみついていた綾の体を引きはなした。
その瞬間的な判断力は間違っていなかった。
一体、どうしたのかと目を見開いて驚く綾に対して、一哉は表情を引き締めた。
その直後、大人数の人間が部屋へと流れ込んできた。
綾とて、その意味に気づかないわけではない。
一哉が自分の体を突き放した理由を知った。
見詰め合っていた綾と一哉だったが、綾は涙を浮かべたまま困ったように悲しそうに笑った。
「綾さん!」
自分を呼ぶ心配という色を含んだ婚約者の大きな声。
そんなものより目の前にいる少年の小さく繰り返される言葉がもっと、もっと欲しかった。
「お嬢様。大丈夫ですか?」
助けにきた忠実な従僕として完璧な言葉を吐く。
今は、もうその口から自分の名前が紡がれることはない。
“綾”とは……。
もう、従う者と従える者でしかない。
現れた婚約者のために場所を開ける一哉。
縋るような綾の視線に気づいていながら…。
分かっている。
頭では―。
それが、必要なことだと――。
でも、気持ちはついていかなくて…。
先ほどまで、確かに彼を抱きしめていた手は凄く震えていて…。
その震えは、日常ではあり得ない命の危険に晒された緊迫した環境から解放されたための震えか。
それとも―。
心から愛しい者から引き離されたことへの悲しみからか。
震える手で顔を、目を覆い嗚咽を噛み殺した。
何故、その手はずっと私を抱きしめていてくれないの―。
何故、周りはそれを許してくれないの―。
その姿は、緊張から解放されて安堵のあまり感情が制御できなくなった憐れな少女にしか見えなかった。
婚約者は、彼女をそっと立たせて部屋から連れ出す。
甲斐甲斐しいその光景は、見る者を感動すらさせたかもしれない。
無感動の瞳でそれを見送った後、一哉は気づいた。
自分の手がいまだ震えていたことに――。
今頃になって、震えが恐怖が一哉の体を襲っていた。
物音を怪訝に思って、2人目に顔を出した男は、その手にナイフという凶器を手にしていた。
それが、もし万が一彼女を傷つけていたかと思うと恐ろしくてならない。
寧ろ、一哉は幸せかもしれない。
それによって傷つけられることを綾が望んでいたなどとは知らされていないのだから―。
帰りの車の中で、一哉と引き離された綾は、泣き続ける自分を落ち着かせようと自分の肩を抱きしめる男の手をバシッと遠慮の欠片もない手で払いのけた。
「触らないで」
そう口にした声は、震えていたが、誰もそんな彼女の言葉を疑問に思うことはなかった。
異様な危機感に晒されたせいでただ、気が立っているだけなのだと。
そして、婚約者である男に同情すらよせるのだった。
婚約者がこのような目にあっては、今後が心配でならないだろうと―。
だが、そんな視線に目をくれることなく綾は、車の中で口を手で覆ったまま、ひたすら「一哉」とここにはいない彼の名を呼び続けた。
事の真相は簡単なものだった。
綾の父親により切り捨てられた男の逆恨みにすぎなかった。
狙われるのは、常に弱者だ。
しかし、見事失敗に終わった。
ただ、それだけのこと。
2008
Vizard (31)
苛立ちと喧騒が場を支配する。
「まだか!?まだなのか!!早くしろっ!」
がなりたてるのは、まだ年若い青年。
彼には、この状況で声を張り上げることしかできなかった。
何度となく繰り返されるバラエティのない同じ言葉に既に聞き飽きていた。
無力な男は、煩く騒ぎ立てるしかできないのだ。
今更、誰も動じない。
自分に与えられた仕事を全うするだけだ。
大企業の令嬢が攫われたとあれば、警察が動き出して当然の出来事だ。
今、室内には要請を受け、遅れて登場した警察官が大仰な機械を持ち込んでいる。
「正一君。少し落ち着きなさい」
苦い口調で諌める壮年の男に、諌められた青年は歯がゆそうな表情を向けたが、青年以上に苦悩に満ちた表情をしていて、青年は零れてきそうになった言葉を飲み込んだ。
感情の赴くまま浮かせていた腰を下ろした。
すでに何度か連絡はきていた。
しかし、一回ごとの通話時間が短く、警察が持ち込んだ逆探知は意味をなさなかった。
従って、どこから電話がかけられているのか発信元の特定は困難を極めていた。
時間の経過と共に関係者の苛立ちや焦燥は募る一方だった。
それから数時間後、漸く彼らは探し人の居場所を知ることになる。
それは、彼らにとって待ち望んだ報せだった。
目隠しをされ、五感の中でも重要な視覚を遮られてしまうとその他の感覚器が尚のこと発達したかのように鋭敏になる。
肌を突き刺すような緊迫感。
同じ空間にいるのは、2人の男。
1人は電話を通じて、恐らく父と交渉を続けている男。
もう1人は、首元にナイフを突きつけている。
声からして、2人は若くはない。
そう、自分の父親とそう変わらないであろう位の年のはずだ。
心なしか聞いたことがあるような声なのは、気のせいだろうか。
繰り返される電話を通じた会話。相手が自分の父親だということも分かる。
静かな空間において、電話の向こうの声すら微かに聞こえてくる。
焦ったような父親。
数度となく繰り返されるそれは、既に何度目だろうか。
父親の心配を余所に、自分はこの場で殺されてもいいとさえ思っている。
なんて、親不孝な娘だろうか…。
自分で自分に言い聞かせる。
でも嫌なものは嫌なのだ。
一度、幸せというものを味わってしまえば、自分からそれを手放すことは難しい。
願わくば、自分に鋭利な刃物を突きつけている男が、少し、ほんの少し手を動かすだけでいい。
そうすれば、それは間違いなく致命傷になるから――。
それなのに、口を封じられていない綾が、殺してという願いに応じてくれる気配はなかった。
ただ、時間だけが過ぎていく。
それは、綾にとって残りの猶予の時間なのか。
それとも男達にとっての猶予の時間なのか―。
今にも雪が降りそうな寒い冬空の下、高く聳え立つ煌々と光る建物を睨みつけた。
もう辺りは、真っ暗で夜の帳が降りていた。
吐く息は白く、肌を突き刺すような寒さがある。
少年の脳は、一度、目を通したものを忘れることなどなかった。一度見れば十分だった。
埋もれた優れた能力の一片にすぎなかった。
「ここか…」
睨みつけたまま動かなかったが、大きく息を吐き出した後、見上げるため上げていた顔を下へと下ろした。
ざりっと道路の砂利を踏み、足を大きく一歩踏み出した。
眼光だけは異様な光を発していた。
ホテルの自動ドアが少年の体を感知して、開くと同時に体を滑りこませるようにして中へと足を踏み入れる。
ホテル内は、宿泊客やチェックインを済ませる客でにぎやかで、特に怪しまれることなく奥へと進むことができた。
何食わぬ顔をして、エレベータホールまで突き進むと上へと向かう機体を待つ。
視線で辺りを確認する。
特に、変わった様子はないところから、恐らくまだ警察などがここへ来ている気配はないことから、自分が出てきた水原の家の者たちがこの場所を突き止めたといことは考えられない。
自分が出てきたときの様子から、とてもじゃないが、突き止めるまでには時間が掛かりそうだということは簡単に予想できたので、自分より早くここへくることはないだろうとは踏んではいたが、やはり想像通り、ここへは辿りついていないらしい。
2、3度軽く首を左右に動かして辺りを確認した後、チンというエレベータが到着した音が聞こえてきて、そそくさとその身を狭い箱の中へと押し込めた。
己以外に誰も同乗者のいない箱の中で、目的の階のボタンを押した後、長くゆっくりと息を吐き出して気を落ち着ける。
ものの数秒にしかならないが、瞼を閉じて、じっと目を伏せる。
己の心臓の音がすぐ耳の傍で聞こえるようだった。
コートの中でぎゅっと握られた手は、じんわりと汗を掻き、己の緊張を如実に表していた。
無事でいて欲しい―。
部屋の中がどうなっているかなど彼に知りようもない。
ただ、そう願うことしかできなかった。
最悪の事態を想定すると心臓が早鐘のように脈打つ。
それを落ち着けるようにゆっくりと息を吐き出して、自分の気持ちを落ち着けるのだ。
否、気持ちは怖いくらいに落ち着いていた。
体だけが妙な高揚感、緊張を覚えていて、対照的に頭や精神は奇妙なほど落ち着いていた。
ゆっくりとエレベータは静かに停止し、ベルを模した音が目的の階へと到着したことを告げる。
閉じていた瞳を開けて、静かに足を外へと踏み出す。
床を敷き詰めるように敷かれた毛足の長い絨毯が一歩、一歩足を踏み出す度にその衝撃を吸収する。
自分以外に誰も廊下を歩くものなど居らず、まるでこの世界には自分しかいないようにさえ感じられる。
一定の速度を保ち、迷うことなく目的の部屋へと向かう。
重厚な扉の前に立ち、じっと睨みつけた後、手を持ち上げて、部屋の扉をノックした。
コン、コン――。
部屋のドアをノックする音に室内にいた男達が息を呑むような気配がしたのを綾は的確に感じ取っていた。
目が不自由であるが故に、肌で、耳でしか感じ取ることはできなかったが、確かに一種の緊張感のようなものが走ったのは確かだった。
男達は互いに、緊張がありありと現れた表情で顔を見合わせる。
やがて、静かに1人の男が立ち上がり、部屋のドアへと向かう。
もう1人の男に見守られながら――。
この時間がひどく長いもののように感じられた。
やがて、鍵を開錠する音が聞こえ、彼は身を固くした。
そして、扉の向こうから壮年の男の顔が見えるなり、頤を素早く掴み上げたのだった。
ぎりぎりと締め上げるように頤を掴んだ手に力を入れる。
男は、苦痛に顔を歪ませたが、呻き声も上げられなかった。
空いた手で乱暴にドアを開くと体を素早く中へと滑り込ませて、頤を掴んだままの男を力いっぱい壁に叩きつける。
鍛えてもいない男にはそれだけで十分だった。
手を離すとずるずるとその体は床に吸い込まれるようにして沈む。
無表情でそれを見下ろす。
―ガンッ!!
何かを叩きつけるような鈍い大きな音に驚いたように体が跳ねたのは、綾だけではなかった。
綾は自分の傍にいる男がびくっと立ち上がり、離れていくのを感じた。
視界が不明瞭なため、気配でしか感じられなかったが。
やがて、もう一度大きな音と同時に自分の名を呼ぶ声に吃驚して見えない目で恐らく己の名を呼んだであろう人物がいる方向を見た。
「綾っ!!」