自室に戻るために廊下を歩いていた一哉は、自分の進行方向から走ってくる己より小さな体を見つけた。
思わず足を止める。
彼女なら自分に気づくはずだと思っていたから――。
しかし、走ってきた彼女―綾は、一哉に気づくことなく彼の横を風のように通り過ぎていった。
それに、驚いたのは一哉の方だった。
彼女が通り過ぎていった方向を振り返る。
「泣いて…?」
と口にしたのは、一瞬そう見えたから――。
しばらく彼女の姿の見えなくなった空間を眉間に皺を寄せて、見つめていた一哉だったが、綾の後を追いかけることにした。
その綾の部屋までにかかる僅かな時間が、自分と彼女の余りにも短く、呆気ない終わりの時間だということに気づきもせずに…。
彼女がいるはずの部屋のドアをノックしても返事はない。
首を傾げてもう一度ノックしたが、同じく返事はなかった。
3度目のノックをしようとしてドアへと拳を近づけたが、木の扉に触れる前にぴたりとその手を止めた。
そして、ゆっくりと手を下ろしてドアノブに手をかけた。
築何十年と経過している屋敷は、少しの動きで大層な音を立てる。
一哉が押しているドアも然りだった。
木の軋む音を聞きながら、室内を確認する。
きょろきょろと顔を動かして、そこにいるであろう人物の姿を探す。
すぐに探していた人物は見つかった。
1人用にしては、広いベッドの上にうつ伏せになり、顔を埋めている姿が一哉の視界に入る。
扉の軋む音に、第三者が部屋に入ってきたことはベッドの上の彼女も分かっているであろうが、足音も立てずに室内に身体をすべりこませると静かに扉を閉めた。
そして、彼女に近づく。
綾は、誰かが部屋に入ってきて、自分に近づいてきているのを感じていた。
きっと父親か、あるいは、父親に頼まれて様子を未に来た誰かと思った。
そんな人間にまともに対応するだけの気力を綾は持っていなかった。
「何?」
顔をあげることなく、口にした言葉は、すぐ傍にあった布に吸い込まれてくぐもった音となった。
声の調子もどこかぶっきらぼうで投げやりな感じのするものだった。
だから、相手は気づかなかっただろう綾の声が震えていたことに――。
顔あげることなく上がった声に一哉の足は止まった。
軽く驚きに目を見開く。
忘れていたわけではない。
本来の彼女がどんな人物だったか――。
周りを自分の我侭で振り回して喜んでいた、どうしようもなく子供じみた彼女を――。
あまりに自分に見せる姿とのギャップの大きさに一瞬とはいえ、怯んだのだった。
食い入るようにベッドに伏せる彼女を見つめているとその肩が震えていることに気づき、さらに目を見開いた。
やはり、気のせいではなかった。
泣いている…。と。
「…綾…」
躊躇いがちに彼女の名を口にした。
いつもより声を落としていたはずなのに、いつもよりそれが大きく聞こえたのは気のせいだろうか。
それとも、この場で他に発せられる音が何も無かっただろうか。
確りと鼓膜に届いた耳障りの良い声に綾ははっとして、顔を上げると身体を起こして声にした方向を見た。
涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔を気にしている暇はなかった。
一哉がここにいるという事実に―。
自分の名をもう一度、口にしたという事実に―。
一哉は一哉で驚いた表情で自分を見る綾の顔を見て、少し驚いたような表情をした。
鼻は真っ赤で、目も赤い。
一体、何があったのかと気にならざるを得ない。
綾は、そこに立つ一哉の顔をじっと見つめていたが、やがて浮かんできた涙によってぼやける視界で一哉の姿は遮られる。
ゆっくりと瞬きをするとぼろりと大きな粒が零れる。
ぎゅっとベッドにかけられている布団のシーツを掴むとそこから立ち上がり、ただ呆然と自分を見つめる一哉に飛びついた。
どんっと言う衝撃とともに訪れた自分以外の人の温もりに驚きながらも抱きとめた一哉だったが、綾がこれでもかというほどの強い力で自分を抱き返し、声を震わせて泣く姿に幾度となく彼女の泣く姿を見てきたとは思ったが、そのどれとも何かが違うような気がして、何とも落ち着かない気分に陥る。
だが、そんな姿になった原因が何であるのかということを問うのは気が退けた。
それは、本能的なものだったのかもしれない。
泣く綾をただ、抱きしめるだけしかできなかった。
ここで、人が入ってくれば言い訳もできないという危険性に気づいてはいたが、綾も一哉も動くことはなかった。
ただ、一哉は綾が自分の名を繰り返すのを黙って聞いていた。
それは、聞いているほうが悲痛な気持ちになるような慟哭にも似ていた。
時間の経過とともに、何となく嫌な予感が自分の中で大きくなっていくのを一哉は気づいていた。
あまりに自分の名を呼ぶ綾の声が切なくて――。
ますます一哉の中で不安が大きくなっていくばかりだった。
自然と抱き返す力も強くなる。
すると、その分だけ綾の力も強くなるのだ。
それから、どれくらい時間が経過した頃だろうか――。
一哉が綾の涙の理由を知った―否、知らされたのは…。
すすり泣く声が小さくなっていき、落ち着いたのだろうかと思っていた頃だった。
「そのまま……そのまま、聞いて」
震える声で鼻を啜りながら小さく耳元で囁かれる。
一瞬、一哉の身体が硬直した。
綾は、そのまま続けた。
2人に取って終わりを意味する言葉を――。
「あ、あの男との結婚の時期を早める……って…言われたの」
しゃくり上げながらはっきりと口にした綾の言葉に一哉の瞳は、抱き合った状態で、一哉の肩に顔を埋めている綾には見えないところで見る見るうちに見開かれた。
そして、彼女を抱きしめていたはずの手から力を抜いて、だらりと腕を下ろした。
一度、強く瞼を閉じるとぐっと唇を噛み締めた。
それは、まるで彼自身に言い聞かせているような儀式のようだった。
最後に、急に自分を包む腕がなくなったことに驚いている綾の身体を己の身体から引き剥がした。
人一人、ましてや、女一人を引き剥がすには、あまりに強すぎる力でもって――。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (40)
言葉はなかった。
ただ、熱に浮かされたような浮遊感と互いの熱さだけがあった。
忘れないために、肌に覚え込ませるために触れ合う。
我武者羅に――。
望んだことなのに――。
何故、こんなにも苦しいのか…。
後悔はしないと決めて、来たのに――。
もう既に後悔し始めている。
こんなことをしても、彼は自分のものにはならないと分かっているのに…。
触れ合ってしまえば、離せなくなる気はしていた。
それでも、彼女の手を振り切ることができなかったのは何より、己自身だというのに――。
彼女は言った。
そんな顔しなくていいと…。
自分は聞いた。
後悔しないか。と。
聞いておきながら、後悔しているのは自分の方だった。
しかし、既に、彼女を振り切ることもできない。
こんな行為に意味を見出したことなどなかった。
ただ、快楽を求めるだけの行為だったはずがこんなにも苦しいものなのだろうかと。
気を抜けば、彼女を見失いそうになるのを必死に繋ぎとめ、触れる。
一度湧き上がった情欲は、若い2人には、毒ともいえる代物だった。
ただ、一心不乱に互いを求める。
これでもかというほど、肌と肌を密着させて――。
求め。
乱れ。
狂う。
この時間だけは、残る。
そう思いながら――。
まるで、所有者の印を残すかのように強く柔肌に歯を立てる。
「ああっ!…」
耳をくすぐる高い悲鳴にさらに気分が高揚する。
どちらのものともつかない体液で、2人の身体はどろどろ。
汗の匂い、互いの体臭、何もかも忘れずに記憶に残すかのように、確認する。
あますことなく触れられ、舌を這わされ、全身が性感帯になったかのように感じる。
「…もっと…」
強請る声は小さく、でも強く。
強請られるままに応じる手。それが、彼自身も望むことだからだ…。
恥じらいなど捨て去り、本能のままに求め合う獣の姿があった。
場馴れしたような少年の戸惑うことのない手に、嫉妬を覚える。
誰にも許していないであろう女の肌に高揚感を覚える。
熱に浮かされた状態に陥っていた綾だったが、今まで自分以外が決して触れることの無かった部位に一哉の指が触れ、入りこもうとしたときには流石に緊張し、身を固くした。
しかし、自分が望んだことなのだ。
あの望まぬ男に触れられる前に、どうか――。
頭で分かっていてもそう簡単に身体の緊張がほぐれるわけもなく。
ただ、身を固くする綾に、一哉は深いキスによって身体の力が抜けるのを待った。
指を挿し入れ、熱く熱を持った内壁を擦りあげる。
最初は、異物感しかなかったはずなのに、次第にむずむずとしたような感覚を脳髄に伝えてくる。
自然と腰が揺らめく。
それを知ってか知らずか、指が追加される。
初めは、そのきつさに眉間に皺を寄せた一哉だったが、次第に綻んでくるそこに満足したように笑む。
不用意に傷つけないためにも必要だ。
自分がしてやれるせめてもの優しさがその程度のことしかなかった。
それでも、指に代わり、一哉自身は流石にきつかったようで、綾は顔を痛みに顰めていた。
しかし、彼女は満足そうに笑うのだ。
それが余計に切なくさせる。
一哉は、それを振り払うかのように腰を動かした。
最初は、苦悶の声が漏れていた筈なのに、それはいつしか変わっていた。
そのことが唯一の救いだろう。
笑って今日のことを話せる日がくるだろうか――。
どちらも、若かったのだと。
彼女が眠るのを待って、一哉は身体を起こした。
そっと起こさないように彼女から離れて、ベッドを降りる。
床に散らばった衣類を集め、手早く身に纏う。眠った彼女を起こさないようになるべく音は立てないように――。
きっちりと服を着た後は、彼女の眠るベッドの脇に立ち、暗闇の中じっと佇み、寝顔を見つめていた。
ぎゅっと拳を握りしめて―。
決して、自分のものにはならない彼女を見つめた。
しばらく、そのままでいた一哉だったが、床に跪くと腰を折り、彼女へと己の顔を近づける。
ゆっくりと近づけ、寝息をたてる薄く開いた口に唇を触れ合わせるだけの口付けを落とした。
だが、すぐに離れると後は、彼女を視界から追い出して、部屋に掛けられているコートを掴むと静かに部屋を出る。
重ね合わせた唇が離れるときに、言葉を一つ残して――。
「好きだ…。愛してる」
この先、誰にも口にしないであろう言葉を唇の動きだけで落とした。
その言葉を何より望んだ彼女は、聞くことはなかった。
目が覚めたときには、そこに彼の姿は無かった。消えていた。
自分がいつも寝ているベッドとは違い、固く簡素なベッドの上。
手を滑らせてもう既に冷たくなったシーツの上を探る。
そこには、あったはずの人の影など微塵も残していなかった。
窓から差し込む朝の光はいつもと変わらなくて――。
変わらないことが凄く憎らしい。
自分たちは、昨日と同じではいられなくなったというのに――。
何故、自分だけが…。
ゆっくりと身体を起こす。
「いたっ…」
その拍子に走る身体の痛みに、顔を顰める。身体もどことなくだるい。
それが、昨夜にここで行われた行為の証だった。
掛けられていたシーツがするりと滑り落ちる。
それまで隠されていた素肌が露になる。
冬の朝は寒い。それは、いくら佇まいが立派な屋敷とて例外でない。
ぶるりと寒さを訴えて身体が震える。
しかし、やがてその震えは、慢性的なものへと変化した。
「……っく…ふ…」
身体に負担を掛けないように緩慢な動作で膝を立て、その間に顔を隠すように埋める。
声が漏れないように食いしばっているはずの歯は、いとも簡単に離れていき、喉の奥からはひっきりなしに嗚咽が零れる。
それは、次第に大きくなっていき――。
「…あああ…ぁぁああああ」
幼い子供が迷子になって、母親を呼ぶように、大きな声をあげてただ、ひたすらに泣いた。
溢れてくる涙を拭うことも忘れて。
肌を突き刺すような寒さも忘れて。
ただ、名を口にすることはなかった。
しかし、心の中ではひたすらにここにはいない人物の名をひっきりなしに呼んだ。
どうしてここにいないの―。と。
何故に、自分は人並みの幸せすら望んではいけないのか。と。
誰も助けてくれないと分かっていながら、助けを求めた。
冬の寒い日の朝のことだった。
誰も知らない秘め事。
「おはようございます。お嬢様」
憎らしいほど平然と涼しい顔で男は、口にするのだ。
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2008
Vizard (39)
一哉は、後味の悪いまま夜を迎えていた。
簡素なベッドに横になっていた一哉だったが、寝つきが悪く何時まで立っても睡魔は訪れそうになかった。
知らず知らずのうちに彼の身体は、興奮していたのかもしれない。
それでもじっと睡魔が訪れてくれるのを待っていた一哉が漸く訪れた睡魔とともに、これで眠れると微睡んでいたところへ自分の部屋の扉が開く音を聞き、ぱっと目を見開き身体を起こした。
夜でも灯りが付きっ放しになっている廊下からの光が、僅かに開いた扉の隙間から室内に差し込む。
それと同時に扉に立っている人物のシルエットを写す。
暗闇から光が差し込んでくる時の瞳孔が慣れるまでの眩しさを感じながら、目を細めつつ部屋の入り口であるドアへと目を向ける。
ぼんやりとだが、一哉が捉えたその陰は細かった。
少しずつ目が慣れてきた一哉だったが、はっきりとそれを捉えるまでに、それは部屋の中に身体を滑りこませると後ろ手に空いた扉を閉め、そして一哉に飛びついてきた。
再び暗闇が訪れた室内の中で、一哉は飛びついてきたものから鼻腔を刺激する香りが、よく見知ったものだと悟り、目を見開いた。
甘い、それでいて不快にならない匂い。
思わず力ずくで抱き返しそうになるのを理性で堪えた。
―己のためにも、彼女のためにもならない。
非力な腕の力で自分に抱きつくその細い身体を引き剥がそうとして手に意志を込め、彼女の肩にかけた。
しかし、それは不意に紡がれた言葉にぴたりと止まる。
「分かってる」
何を?と問うような真似はしなかった。
続きを待つ。
彼女の肩に手を乗せたまま――。
それは、ただ一哉が彼女に触れる手を離せなかっただけなのかもしれない。
聞くだけなら、彼女に触れている必要などない。
「分かってるの…。一哉が私を嫌いなことも…」
思わず咄嗟に、違うと口にしそうになった。
しかし、数時間前にその口で彼女を傷つける言葉ばっかり吐いておきながら、今更どの面下げて訂正することなどできようか。否、もとより訂正するつもりもなかったことだ。
ただ、それを彼女に言わせていることに途轍もなく後ろめたさを感じるだけなのだ。
きっと――。
「でも…。でも、お願い」
と口にした彼女の声は震えていた。
綾は、一哉の肩に顔を伏せたまま何度も何度も、ここへくるまでに脳内で繰り返した台詞をもう一度、頭の中で繰り返した。
今まで以上に手酷く一蹴されるという最悪のシナリオも想定しながら…。
「最後、これで最後にするから……」
一度、間を置き、俯けて一哉の顔を見ないようにしていた綾だったが、ゆっくりと顔を上げて暗がりの中、夜目が効き、はっきりと知覚できる一哉の瞳をじっと見つめた。
一哉も黙ったまま自分へと向けられる綾の2つの瞳を同じように見返した。
「――抱いて」
静かな最後の懇願に、一哉は目を見開く。
想像もしていなかった台詞に、絶句し、言葉は出てこなかった。
肌と肌が密着しそうなほど近くで見詰め合っていた2人だっただけに、綾は一哉が驚愕の表情を浮べているのに気づいていた。
もう既に、―否、最初から嫌われているのだ。
今更どのように思われても構わない。
どんなはしたなくて、厭らしい女に思われようとも…。
たとえ、それが、一時のものでも構わない。
全てが欲しい。
この少年の――。
全てが……。
息をも忘れて綾の顔を見つめる一哉。
暗闇の中の彼女の表情は、真剣そのものだった。
――どこまで……。
どこまで、愚かなのか…。
自分という人間に、そこまで捧げるとは――。
そして、それを拒絶できない自分という人間は――。
表情の静けさとは打って変わって、心臓は五月蝿いくらいに早く拍動を繰り返していた。
相手にそれが聞こえているのではないか…と危惧したが、それも今更のことだ。
じっと、一哉が口を開くのを待つ。
それは、ひどく長く、そして、ひどく怖い時間だった。
期待というよりは、恐怖――。
しかし、その時間は唐突に終わりを告げた。
「きゃっ」
軽い悲鳴があがる。
ぐいっと強い力で引き寄せられたかと思ったら、世界は反転していた。
簡素なベッドの上に仰向けに転がされ、上から睨みつけるような一哉の視線が自分へと注がれていることに気づく。
獲物を狙う肉食獣のような男を感じさせる強い眼差しにどきりとして、身体にさらに緊張が走る。
顔は紅潮し、早鐘を打ったように心臓がバクバクと脈打つ。
「後悔するなよ」
と口にしたのは、一哉自身なのに、一哉の方が苦しそうな声で、苦しそうな表情をしていた。
綾は、そっとすぐ近くにあるその彼の頬に手を滑らせる。
冷たいその感触。
忘れないように、指先に覚え込ませるように滑らせた。
「しない…」
はっきりと口にした。
射竦めるような視線に臆することなく、同等の―いや、それ以上の眼光の強さで見据えて――。
そして、告げる。
「しないわ。だから、そんな顔しなくていいの」
一哉は、綾の言葉にはっと顔を硬直させた。
「悪いのは、私。我侭言って困らせて…。だから、一哉がそんな顔しなくていいの」
ぎりっと奥歯を噛み締める一哉だった。
自分がどんな表情をしているかなんて分からなかった。
知らず知らずの内に、余裕を失くしていたに違いない。
優位に立っているようで、実のところ包容力を要していたのは、綾だった。
「…最後の……」
一哉は、まるで気まずさを覆い隠すかのように、綾が皆まで言い終わる前に少し乱暴な動きで綾の唇を塞いだ。
突然の性急な動きに、最初こそ目を瞠って驚き、2、3度身じろぎをした綾だったが、すぐに静かに瞳を閉じて、自分よりも2つほど年下の少年から与えられるものを感受した。
一哉の動きも性急で、乱暴なものだったが、それはすぐに形を潜め、後は泣きたくなるほど甘くて静かでいて柔らかな手だった。
忘れるための行為。
諦めるための行為。
忘れないように、肝に命じるように、2人は触れ合った。
2人だけの暗い空間で…。
忘れるための、諦めるための――忘れられない甘い、切ない口付けを交わす。
誰にも邪魔されないこの場所で…。
2008
VIzard (38)
「か…一哉?」
強い力で引き剥がされて驚きに目を見開いた綾は、力の入らない声で一哉の名を口にして、目の前の先ほどまで自分を抱きしめてくれていたはずの男の顔を食い入るように見つめた。
一哉を呼ぶ声は、掠れていた。
動揺する声を聞き、揺れる瞳を見て、一哉が何も感じない訳がなかった。
あの日―綾が攫われた日に自覚した気持ちは、今ではすんなりと受け入れられている。
しかし、2人を取り巻く環境は、2人にそれを許さないのだ。
綾と一哉の2人に残された道は、別々の道だけ―。
だから、敢えて一哉はその顔から悲痛な表情は一切消失させた。
何も感じさせない―最初から一貫して綾に見せてきた寧ろ、一哉の心など知らない綾からしてみれば馴染みとも言える冷たい氷のような表情をその顔に被った。
仮面のように――。
さぁ、幕を降ろそう――。
不毛で救いようのない時間に――。
自分たち…、否、自分に――。
「長かったな」
綾から顔を逸らし、彼女に背を向けながら大袈裟に息を吐き出し、疲れたような表情をしてみせる。
視線だけで綾を見ると、綾の目は驚愕にみるみるうちに見開かれていく。
誰だろうか。
目の前の彼は―。
とても、ついっさっきまで自分を抱きしめていてくれた人物と同一人物には綾には、見えなかった。
酷薄な笑みを口元に浮かべ、冷めた言葉をその己の名を呼んでくれた口から吐く。
彼に体温など感じられなかった。
眉間に皺を寄せ、驚愕に見開いた表情のまま、固まるしかなかった。
それを可笑しそうに笑うのは、一哉だった。
「これで、お役ご免だろ?」
敢えて同意を求めるように尋ねる。
その表情は、まさに面倒ごとから解放されようとしている清清しいまでの表情。
相手のそんな表情を見せられて、綾の表情は凍りつき苦渋に満ちた表情になっていく。
「何、呆けた顔してるんだ?」
小馬鹿にしたような一哉の物言い。
綾には、この現実を受け入れられそうにはなかった。
ただ、誰かに嘘だと言って欲しかった。
だが、それを否定してくれる人間などこの場に誰もいなかった。
綾に降りかかるのは、酷とも言える現実だけで――。
救いの手を差し伸べてくれる者も、助けとなる者もいなかった。
いつまでも呆けた顔をしている綾に言い聞かせるつもりで、一哉は口にする。
最初の言葉を――。
「最初に言っただろ」
「…な、何を」
身体が心がそれを聞くことを拒否していた。
一度は止まったはずの涙が、後から後から湧いてくる。瞬きも忘れて一哉を見る綾の目に―。
溢れてきた涙は、重力にしたがい頬を滑り落ちる。
零れ落ちたときには生暖かい温度をもっていた涙は、時間の経過とともに外気にさらされ、熱を失い頬を伝い、顎を伝い床に落ちるときには冷え切っていた。
近くにいるのに、一哉の顔は見えなかった。涙によって遮られた視界によって――。
そんな綾に酷い男は言う。
「期限がきたら終わりだ」
ひどく冷めていた声だった。
もとより、感情を一切感じさせない言葉を吐く少年ではあったが、綾の知る中でも一番冷めた声に感じられた。
感情など持たない機械のような―。
「そんな……」
「何をそんな驚いた顔している?最初から言っていただろ」
愕然と信じられないというように口にした綾を鼻で笑う。
「お前のことは好きにならない――」
ぶわっと堰を切ったように綾の瞳に今まで以上の涙が溢れてくる。
じゃあ、最初から―。
あの時…、自分が攫われたときに名前を呼んで一番最初に駆けつけてくれて助けてくれたのは―。
自分の立場も省みずに、そんなことをすれば自分の立場が危うくなると分かっていて、義理の兄である宗司を殴って、一喝してくれたのは―。
全て、嘘だったというのか―。
聞きたいことは沢山あっても、言葉にならなかった。
「期限が来たらとっととあの男と結婚しろって言ったよな?今度は、どんな我侭も認めないともな」
そう言うと一哉は、くるりと背を向けた。
それが、綾にも滲む視界の中で分かった。
咄嗟に一哉の名を口にしていた。
「か、一哉!」
縋るような綾の声に一哉は、舌打ちをした後、深く瞼を瞑った。
自分は、振り切ろうとしているのに…。
何故、大人しく引き下がってくれないのか――。
どう足掻いても、自分たちには明るい未来など一切ないのだから――。
綾の耳にチッと大きな舌打ちが聞こえてきて、彼女は、はっとする。
次の言葉を模索する綾の鼓膜を刺激したのは、壁を叩きつける大きな音だった。
ガンッ――。
その音の大きさに驚き、一歩後ずさる。
「…この際だから言っておく」
低い―腹の底から出すような声音。
自分のことなんか嫌ってくれ―。
嫌いになって忘れてしまえ―。
「昔も今も俺はお前みたいな奴が一番嫌いだ。何でも思い通りになると思ってるその根性に虫唾が走る。勘違いすんな。俺がお前の我侭に付き合ったのは、お前が俺と付き合うことであの男と結婚するって言ったからだ」
はっきりと口にされた拒絶の言葉。
がくりと床に膝をつく。
項垂れる綾を見て、一瞬、ほんの一瞬だけ、一哉の表情が苦渋を刻んだ。
そして、振り切るかのようにして綾の部屋を出た。
大股な足取りで部屋の外に逃げると扉を乱暴に閉める。
閉めた途端に一枚の壁を挟んでも聞こえるような綾の嗚咽を耳にしてしまった。
罪悪感と悲痛な気持ちから逃げるようにしてその場を足早に去る。
決して逃げられることなどないと分かっていながら―。
酷い言葉を口にしたのは一哉自身のはずなのに、彼が自身に割り当てられた部屋に戻る頃には、彼の瞳は紅く染まっていた。
ダンッ。
自室の部屋の扉を閉め、背を扉に預けるとずるずるとその場にしゃがみこむ。
まるで誰も入ってくるなと抗う幼い子供のように。
「…っく…」
歯軋りの音が聞こえそうなほど、歯と歯を食いしばって零れてきそうになる恨み言を堪える。
何、分かっていたことじゃないか…。
最初から自分たちには、別れしか用意されていなかった。
自分もそして彼女も狭間に落ちて抜け出せなくなった愚か者でしかないのだ。
誰か…。
誰でも良い。
助けて――。
教えて欲しい。
感情に蓋をする術を。
愛しいと思える者を嫌いになれる方法を――。
しかし、そうあることを…なれることを望んでおきながら、そんな方法などないことを、綾も一哉も一番に理解していた――。
2008
Vizard (36)
近づいたと思ったのは、自分の気のせいか――。
2人を結ぶ距離は近づいた筈なのに、遠く離れたように感じるのは気のせいか――。
国内有数の企業である水原グループ。
それを束ねるのが、水原家当主である男であり、綾の父親である。
娘の婚約も決まり、事業もこれからますます大きくなるだろうと期待に満ち溢れているところと言うべきか。
しかし、彼は知らない――。
後に、彼の思いもよらない人物が水原の持つ権力を絶大なものに押し上げることになろうとは――。
夢にも思わなかったに違いない。
彼の期待には反することになるが…。それは、決して今、彼の目の前で必死の形相で食らい付かんばかりの勢いで嘆願してくる青年ではないのだ。
水原は、青年―堺の言葉に耳を傾けながら確かに彼の言うことも、彼の心配も尤もだと鷹揚に頷いていた。
彼の言うとおり、自分も安心できる。
一刻でも早く、彼と娘の間に新たな命でも授かれば――。
それが、娘が決して望んでいないことであろうが何だろうが、関係なかった。
肩に何千、何万という人間の生活に影響を与えるであろう自分が持つ責任という程度にしか捉えていなかった。
そのためには、娘の犠牲も致し方ないと――。
「分かった。綾にはそのように言っておこう」
重い口調ではあったが、望みの返事を聞くことができた堺は、顔を輝かせた。
「ありがとうございますっ」
態度、声、表情の端々から嬉しさのようなものが感じられる。
後少しで、娘婿となる堺の態度に水原が悪い気などするはずもなくもう一度、鷹揚に頷き返した。
「え…?」
綾は、父親から聞かされた言葉を思わず聞き返した。
体が、脳が、心がそれを拒否していた。
聞き間違いだと思いたかった。
ひどく驚いた表情をして聞き返す娘に、娘の気持ちなど知る由もない―あるいは興味がないのかもしれない父は、何て事ない世間話を聞かせるような軽い感じで同じ言葉を繰り返した。
「正一君と話して式の日取りを早めることが決まったと言ったんだよ」
夕食の傍ら娘に決定事項だけを伝える父親は、娘の表情の変化に気づいてなどいなかった。
手にした箸を持つ手が俄かに震える。
それまで血色豊かだった表情は、一気に色を失くした。
あらぬ一点のみを瞬きも忘れて凝視する。
もとより少なかった時間を何故、減らされなければならない――。
ごくりと喉を嚥下する。
「どうして?」
小さな声は、一応父親の耳に届いたようだった。
父は疑問を投げかけてきた娘に顔を向けた。
そして、いつもと変わらぬ様子で諭すようにして、答えを望む娘に答える。
「彼も不安なんだろう」
「何が…」
「この前も危険な目にあったばっかじゃないか」
「今は、宗司だけじゃなくて一哉もついてるから大丈夫よ。それに、たかが後、1月や2月のことでしょ。なんで我慢できないわけ!?」
手にしていた箸をテーブルの上に叩き付けた。
そして、父親を睨みすえて大きな感情的な声を張り上げた。
娘の変貌振りに目を瞠って驚いていた父親だったが、すぐに眉間に皺を寄せてきつい眼差しを娘に送る。
「綾。はしたないじゃないか。きちんと座りなさい」
「嫌よ!」
「綾!」
父の言葉を拒絶した娘に、今度はきつい声音で咎めるような強い声をあげた。
しかし、それでも綾は首を横に振り、父の言葉に従わなかった。
親子のにらみ合いがしばしの間続く。
どれ位そうしていたであろうか。
座ったまま立ち上がった娘を厳しい目つきで睨み据える父親とそんな父親にどこか縋るような視線を送る娘。
その均衡を崩したのは、父親の方だった。
ふぅと大きく息を吐き出し、肩を大袈裟に竦めて見せた後、綾から視線を逸らして自身が手にしていた箸をゆっくりとテーブルの上に置く。
いつもの父なら自分が強く言えば聞いてくれると分かっていた綾は、父親が折れてくれたかと期待したが、それは見るも無残に消え去った期待だった。
綾から視線を逸らしたまま、彼は立ち上がる。
その動向を期待に満ちた瞳で追いかける綾。
彼は、椅子から立ち上がり、綾に近づくと自分を見つめる娘の瞳と己の瞳を合わせて言った。
「これは、もう決まったことだ。綾の我侭は通用しない。聞き分けなさい。婚約者にこれ以上心配させるのは、酷というものだよ。子供じゃないんだ。水原の人間として恥ずかしくない言動をしなさい」
ぽんぽんとすれ違い様に綾の肩を軽く叩き、その部屋を後にした。
「普段…子供扱いする癖に…、都合のいい時ばかり大人扱いしないでっ!」
「そうか?じゃあ、以後気をつけることにするよ。だから、綾も節度ある態度を示しなさい。正一君の前でそんな態度を取ることは、私が水原の当主として許さないよ」
振り返ることもなく、それだけ言い捨てると父親はその場を後にした。
したがって、彼は娘の目尻に浮かんだ涙など見ていない。気づいてもいなかった。
扉の閉まる音がゆっくりと耳に届く。
ただ呆然と父親が出て行くのを見送るだけだった綾は、その扉の閉まる音にはっと目を見開くが、それと同時に滂沱のように涙が零れてくる。
「やだ…」
小さく拒絶の言葉が漏れるが、それを拾うものなど誰もいなかった。
がたりと綾の体からは力が抜け、一度は立ち上がったはずの椅子にもう一度、腰を下ろす。
その拍子に綾の手が掴んだテーブルクロスが歪な皺をつくり、がちゃりと並べられた皿が不快な音を立てる。
「嫌だ」
「嫌…」
「嫌よ!!」
という声は父親の耳に届くことはなかった。
ただ、他には誰もいない空間に虚しく甲高いヒステリックな己の声が響くだけだった。
時間は綾に己の幸せに浸る時間をくれなかった―。