更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
VIzard (38)
「か…一哉?」
強い力で引き剥がされて驚きに目を見開いた綾は、力の入らない声で一哉の名を口にして、目の前の先ほどまで自分を抱きしめてくれていたはずの男の顔を食い入るように見つめた。
一哉を呼ぶ声は、掠れていた。
動揺する声を聞き、揺れる瞳を見て、一哉が何も感じない訳がなかった。
あの日―綾が攫われた日に自覚した気持ちは、今ではすんなりと受け入れられている。
しかし、2人を取り巻く環境は、2人にそれを許さないのだ。
綾と一哉の2人に残された道は、別々の道だけ―。
だから、敢えて一哉はその顔から悲痛な表情は一切消失させた。
何も感じさせない―最初から一貫して綾に見せてきた寧ろ、一哉の心など知らない綾からしてみれば馴染みとも言える冷たい氷のような表情をその顔に被った。
仮面のように――。
さぁ、幕を降ろそう――。
不毛で救いようのない時間に――。
自分たち…、否、自分に――。
「長かったな」
綾から顔を逸らし、彼女に背を向けながら大袈裟に息を吐き出し、疲れたような表情をしてみせる。
視線だけで綾を見ると、綾の目は驚愕にみるみるうちに見開かれていく。
誰だろうか。
目の前の彼は―。
とても、ついっさっきまで自分を抱きしめていてくれた人物と同一人物には綾には、見えなかった。
酷薄な笑みを口元に浮かべ、冷めた言葉をその己の名を呼んでくれた口から吐く。
彼に体温など感じられなかった。
眉間に皺を寄せ、驚愕に見開いた表情のまま、固まるしかなかった。
それを可笑しそうに笑うのは、一哉だった。
「これで、お役ご免だろ?」
敢えて同意を求めるように尋ねる。
その表情は、まさに面倒ごとから解放されようとしている清清しいまでの表情。
相手のそんな表情を見せられて、綾の表情は凍りつき苦渋に満ちた表情になっていく。
「何、呆けた顔してるんだ?」
小馬鹿にしたような一哉の物言い。
綾には、この現実を受け入れられそうにはなかった。
ただ、誰かに嘘だと言って欲しかった。
だが、それを否定してくれる人間などこの場に誰もいなかった。
綾に降りかかるのは、酷とも言える現実だけで――。
救いの手を差し伸べてくれる者も、助けとなる者もいなかった。
いつまでも呆けた顔をしている綾に言い聞かせるつもりで、一哉は口にする。
最初の言葉を――。
「最初に言っただろ」
「…な、何を」
身体が心がそれを聞くことを拒否していた。
一度は止まったはずの涙が、後から後から湧いてくる。瞬きも忘れて一哉を見る綾の目に―。
溢れてきた涙は、重力にしたがい頬を滑り落ちる。
零れ落ちたときには生暖かい温度をもっていた涙は、時間の経過とともに外気にさらされ、熱を失い頬を伝い、顎を伝い床に落ちるときには冷え切っていた。
近くにいるのに、一哉の顔は見えなかった。涙によって遮られた視界によって――。
そんな綾に酷い男は言う。
「期限がきたら終わりだ」
ひどく冷めていた声だった。
もとより、感情を一切感じさせない言葉を吐く少年ではあったが、綾の知る中でも一番冷めた声に感じられた。
感情など持たない機械のような―。
「そんな……」
「何をそんな驚いた顔している?最初から言っていただろ」
愕然と信じられないというように口にした綾を鼻で笑う。
「お前のことは好きにならない――」
ぶわっと堰を切ったように綾の瞳に今まで以上の涙が溢れてくる。
じゃあ、最初から―。
あの時…、自分が攫われたときに名前を呼んで一番最初に駆けつけてくれて助けてくれたのは―。
自分の立場も省みずに、そんなことをすれば自分の立場が危うくなると分かっていて、義理の兄である宗司を殴って、一喝してくれたのは―。
全て、嘘だったというのか―。
聞きたいことは沢山あっても、言葉にならなかった。
「期限が来たらとっととあの男と結婚しろって言ったよな?今度は、どんな我侭も認めないともな」
そう言うと一哉は、くるりと背を向けた。
それが、綾にも滲む視界の中で分かった。
咄嗟に一哉の名を口にしていた。
「か、一哉!」
縋るような綾の声に一哉は、舌打ちをした後、深く瞼を瞑った。
自分は、振り切ろうとしているのに…。
何故、大人しく引き下がってくれないのか――。
どう足掻いても、自分たちには明るい未来など一切ないのだから――。
綾の耳にチッと大きな舌打ちが聞こえてきて、彼女は、はっとする。
次の言葉を模索する綾の鼓膜を刺激したのは、壁を叩きつける大きな音だった。
ガンッ――。
その音の大きさに驚き、一歩後ずさる。
「…この際だから言っておく」
低い―腹の底から出すような声音。
自分のことなんか嫌ってくれ―。
嫌いになって忘れてしまえ―。
「昔も今も俺はお前みたいな奴が一番嫌いだ。何でも思い通りになると思ってるその根性に虫唾が走る。勘違いすんな。俺がお前の我侭に付き合ったのは、お前が俺と付き合うことであの男と結婚するって言ったからだ」
はっきりと口にされた拒絶の言葉。
がくりと床に膝をつく。
項垂れる綾を見て、一瞬、ほんの一瞬だけ、一哉の表情が苦渋を刻んだ。
そして、振り切るかのようにして綾の部屋を出た。
大股な足取りで部屋の外に逃げると扉を乱暴に閉める。
閉めた途端に一枚の壁を挟んでも聞こえるような綾の嗚咽を耳にしてしまった。
罪悪感と悲痛な気持ちから逃げるようにしてその場を足早に去る。
決して逃げられることなどないと分かっていながら―。
酷い言葉を口にしたのは一哉自身のはずなのに、彼が自身に割り当てられた部屋に戻る頃には、彼の瞳は紅く染まっていた。
ダンッ。
自室の部屋の扉を閉め、背を扉に預けるとずるずるとその場にしゃがみこむ。
まるで誰も入ってくるなと抗う幼い子供のように。
「…っく…」
歯軋りの音が聞こえそうなほど、歯と歯を食いしばって零れてきそうになる恨み言を堪える。
何、分かっていたことじゃないか…。
最初から自分たちには、別れしか用意されていなかった。
自分もそして彼女も狭間に落ちて抜け出せなくなった愚か者でしかないのだ。
誰か…。
誰でも良い。
助けて――。
教えて欲しい。
感情に蓋をする術を。
愛しいと思える者を嫌いになれる方法を――。
しかし、そうあることを…なれることを望んでおきながら、そんな方法などないことを、綾も一哉も一番に理解していた――。
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