自室に戻るために廊下を歩いていた一哉は、自分の進行方向から走ってくる己より小さな体を見つけた。
思わず足を止める。
彼女なら自分に気づくはずだと思っていたから――。
しかし、走ってきた彼女―綾は、一哉に気づくことなく彼の横を風のように通り過ぎていった。
それに、驚いたのは一哉の方だった。
彼女が通り過ぎていった方向を振り返る。
「泣いて…?」
と口にしたのは、一瞬そう見えたから――。
しばらく彼女の姿の見えなくなった空間を眉間に皺を寄せて、見つめていた一哉だったが、綾の後を追いかけることにした。
その綾の部屋までにかかる僅かな時間が、自分と彼女の余りにも短く、呆気ない終わりの時間だということに気づきもせずに…。
彼女がいるはずの部屋のドアをノックしても返事はない。
首を傾げてもう一度ノックしたが、同じく返事はなかった。
3度目のノックをしようとしてドアへと拳を近づけたが、木の扉に触れる前にぴたりとその手を止めた。
そして、ゆっくりと手を下ろしてドアノブに手をかけた。
築何十年と経過している屋敷は、少しの動きで大層な音を立てる。
一哉が押しているドアも然りだった。
木の軋む音を聞きながら、室内を確認する。
きょろきょろと顔を動かして、そこにいるであろう人物の姿を探す。
すぐに探していた人物は見つかった。
1人用にしては、広いベッドの上にうつ伏せになり、顔を埋めている姿が一哉の視界に入る。
扉の軋む音に、第三者が部屋に入ってきたことはベッドの上の彼女も分かっているであろうが、足音も立てずに室内に身体をすべりこませると静かに扉を閉めた。
そして、彼女に近づく。
綾は、誰かが部屋に入ってきて、自分に近づいてきているのを感じていた。
きっと父親か、あるいは、父親に頼まれて様子を未に来た誰かと思った。
そんな人間にまともに対応するだけの気力を綾は持っていなかった。
「何?」
顔をあげることなく、口にした言葉は、すぐ傍にあった布に吸い込まれてくぐもった音となった。
声の調子もどこかぶっきらぼうで投げやりな感じのするものだった。
だから、相手は気づかなかっただろう綾の声が震えていたことに――。
顔あげることなく上がった声に一哉の足は止まった。
軽く驚きに目を見開く。
忘れていたわけではない。
本来の彼女がどんな人物だったか――。
周りを自分の我侭で振り回して喜んでいた、どうしようもなく子供じみた彼女を――。
あまりに自分に見せる姿とのギャップの大きさに一瞬とはいえ、怯んだのだった。
食い入るようにベッドに伏せる彼女を見つめているとその肩が震えていることに気づき、さらに目を見開いた。
やはり、気のせいではなかった。
泣いている…。と。
「…綾…」
躊躇いがちに彼女の名を口にした。
いつもより声を落としていたはずなのに、いつもよりそれが大きく聞こえたのは気のせいだろうか。
それとも、この場で他に発せられる音が何も無かっただろうか。
確りと鼓膜に届いた耳障りの良い声に綾ははっとして、顔を上げると身体を起こして声にした方向を見た。
涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔を気にしている暇はなかった。
一哉がここにいるという事実に―。
自分の名をもう一度、口にしたという事実に―。
一哉は一哉で驚いた表情で自分を見る綾の顔を見て、少し驚いたような表情をした。
鼻は真っ赤で、目も赤い。
一体、何があったのかと気にならざるを得ない。
綾は、そこに立つ一哉の顔をじっと見つめていたが、やがて浮かんできた涙によってぼやける視界で一哉の姿は遮られる。
ゆっくりと瞬きをするとぼろりと大きな粒が零れる。
ぎゅっとベッドにかけられている布団のシーツを掴むとそこから立ち上がり、ただ呆然と自分を見つめる一哉に飛びついた。
どんっと言う衝撃とともに訪れた自分以外の人の温もりに驚きながらも抱きとめた一哉だったが、綾がこれでもかというほどの強い力で自分を抱き返し、声を震わせて泣く姿に幾度となく彼女の泣く姿を見てきたとは思ったが、そのどれとも何かが違うような気がして、何とも落ち着かない気分に陥る。
だが、そんな姿になった原因が何であるのかということを問うのは気が退けた。
それは、本能的なものだったのかもしれない。
泣く綾をただ、抱きしめるだけしかできなかった。
ここで、人が入ってくれば言い訳もできないという危険性に気づいてはいたが、綾も一哉も動くことはなかった。
ただ、一哉は綾が自分の名を繰り返すのを黙って聞いていた。
それは、聞いているほうが悲痛な気持ちになるような慟哭にも似ていた。
時間の経過とともに、何となく嫌な予感が自分の中で大きくなっていくのを一哉は気づいていた。
あまりに自分の名を呼ぶ綾の声が切なくて――。
ますます一哉の中で不安が大きくなっていくばかりだった。
自然と抱き返す力も強くなる。
すると、その分だけ綾の力も強くなるのだ。
それから、どれくらい時間が経過した頃だろうか――。
一哉が綾の涙の理由を知った―否、知らされたのは…。
すすり泣く声が小さくなっていき、落ち着いたのだろうかと思っていた頃だった。
「そのまま……そのまま、聞いて」
震える声で鼻を啜りながら小さく耳元で囁かれる。
一瞬、一哉の身体が硬直した。
綾は、そのまま続けた。
2人に取って終わりを意味する言葉を――。
「あ、あの男との結婚の時期を早める……って…言われたの」
しゃくり上げながらはっきりと口にした綾の言葉に一哉の瞳は、抱き合った状態で、一哉の肩に顔を埋めている綾には見えないところで見る見るうちに見開かれた。
そして、彼女を抱きしめていたはずの手から力を抜いて、だらりと腕を下ろした。
一度、強く瞼を閉じるとぐっと唇を噛み締めた。
それは、まるで彼自身に言い聞かせているような儀式のようだった。
最後に、急に自分を包む腕がなくなったことに驚いている綾の身体を己の身体から引き剥がした。
人一人、ましてや、女一人を引き剥がすには、あまりに強すぎる力でもって――。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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