更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (36)
近づいたと思ったのは、自分の気のせいか――。
2人を結ぶ距離は近づいた筈なのに、遠く離れたように感じるのは気のせいか――。
国内有数の企業である水原グループ。
それを束ねるのが、水原家当主である男であり、綾の父親である。
娘の婚約も決まり、事業もこれからますます大きくなるだろうと期待に満ち溢れているところと言うべきか。
しかし、彼は知らない――。
後に、彼の思いもよらない人物が水原の持つ権力を絶大なものに押し上げることになろうとは――。
夢にも思わなかったに違いない。
彼の期待には反することになるが…。それは、決して今、彼の目の前で必死の形相で食らい付かんばかりの勢いで嘆願してくる青年ではないのだ。
水原は、青年―堺の言葉に耳を傾けながら確かに彼の言うことも、彼の心配も尤もだと鷹揚に頷いていた。
彼の言うとおり、自分も安心できる。
一刻でも早く、彼と娘の間に新たな命でも授かれば――。
それが、娘が決して望んでいないことであろうが何だろうが、関係なかった。
肩に何千、何万という人間の生活に影響を与えるであろう自分が持つ責任という程度にしか捉えていなかった。
そのためには、娘の犠牲も致し方ないと――。
「分かった。綾にはそのように言っておこう」
重い口調ではあったが、望みの返事を聞くことができた堺は、顔を輝かせた。
「ありがとうございますっ」
態度、声、表情の端々から嬉しさのようなものが感じられる。
後少しで、娘婿となる堺の態度に水原が悪い気などするはずもなくもう一度、鷹揚に頷き返した。
「え…?」
綾は、父親から聞かされた言葉を思わず聞き返した。
体が、脳が、心がそれを拒否していた。
聞き間違いだと思いたかった。
ひどく驚いた表情をして聞き返す娘に、娘の気持ちなど知る由もない―あるいは興味がないのかもしれない父は、何て事ない世間話を聞かせるような軽い感じで同じ言葉を繰り返した。
「正一君と話して式の日取りを早めることが決まったと言ったんだよ」
夕食の傍ら娘に決定事項だけを伝える父親は、娘の表情の変化に気づいてなどいなかった。
手にした箸を持つ手が俄かに震える。
それまで血色豊かだった表情は、一気に色を失くした。
あらぬ一点のみを瞬きも忘れて凝視する。
もとより少なかった時間を何故、減らされなければならない――。
ごくりと喉を嚥下する。
「どうして?」
小さな声は、一応父親の耳に届いたようだった。
父は疑問を投げかけてきた娘に顔を向けた。
そして、いつもと変わらぬ様子で諭すようにして、答えを望む娘に答える。
「彼も不安なんだろう」
「何が…」
「この前も危険な目にあったばっかじゃないか」
「今は、宗司だけじゃなくて一哉もついてるから大丈夫よ。それに、たかが後、1月や2月のことでしょ。なんで我慢できないわけ!?」
手にしていた箸をテーブルの上に叩き付けた。
そして、父親を睨みすえて大きな感情的な声を張り上げた。
娘の変貌振りに目を瞠って驚いていた父親だったが、すぐに眉間に皺を寄せてきつい眼差しを娘に送る。
「綾。はしたないじゃないか。きちんと座りなさい」
「嫌よ!」
「綾!」
父の言葉を拒絶した娘に、今度はきつい声音で咎めるような強い声をあげた。
しかし、それでも綾は首を横に振り、父の言葉に従わなかった。
親子のにらみ合いがしばしの間続く。
どれ位そうしていたであろうか。
座ったまま立ち上がった娘を厳しい目つきで睨み据える父親とそんな父親にどこか縋るような視線を送る娘。
その均衡を崩したのは、父親の方だった。
ふぅと大きく息を吐き出し、肩を大袈裟に竦めて見せた後、綾から視線を逸らして自身が手にしていた箸をゆっくりとテーブルの上に置く。
いつもの父なら自分が強く言えば聞いてくれると分かっていた綾は、父親が折れてくれたかと期待したが、それは見るも無残に消え去った期待だった。
綾から視線を逸らしたまま、彼は立ち上がる。
その動向を期待に満ちた瞳で追いかける綾。
彼は、椅子から立ち上がり、綾に近づくと自分を見つめる娘の瞳と己の瞳を合わせて言った。
「これは、もう決まったことだ。綾の我侭は通用しない。聞き分けなさい。婚約者にこれ以上心配させるのは、酷というものだよ。子供じゃないんだ。水原の人間として恥ずかしくない言動をしなさい」
ぽんぽんとすれ違い様に綾の肩を軽く叩き、その部屋を後にした。
「普段…子供扱いする癖に…、都合のいい時ばかり大人扱いしないでっ!」
「そうか?じゃあ、以後気をつけることにするよ。だから、綾も節度ある態度を示しなさい。正一君の前でそんな態度を取ることは、私が水原の当主として許さないよ」
振り返ることもなく、それだけ言い捨てると父親はその場を後にした。
したがって、彼は娘の目尻に浮かんだ涙など見ていない。気づいてもいなかった。
扉の閉まる音がゆっくりと耳に届く。
ただ呆然と父親が出て行くのを見送るだけだった綾は、その扉の閉まる音にはっと目を見開くが、それと同時に滂沱のように涙が零れてくる。
「やだ…」
小さく拒絶の言葉が漏れるが、それを拾うものなど誰もいなかった。
がたりと綾の体からは力が抜け、一度は立ち上がったはずの椅子にもう一度、腰を下ろす。
その拍子に綾の手が掴んだテーブルクロスが歪な皺をつくり、がちゃりと並べられた皿が不快な音を立てる。
「嫌だ」
「嫌…」
「嫌よ!!」
という声は父親の耳に届くことはなかった。
ただ、他には誰もいない空間に虚しく甲高いヒステリックな己の声が響くだけだった。
時間は綾に己の幸せに浸る時間をくれなかった―。
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