2008
Vizard(5)
「あの子可愛いわよね」
自分のクラスで横に座る友人の声に綾はふと顔をあげて友人の顔を見返した。
「あの子?」
綾が怪訝な顔つきをしたのに対し、友人は可笑しそうに口元に手をあてて笑った。
鳩が豆鉄砲を食らったみたいに目を丸くした綾の顔が余程面白かったのか…。
「やだぁ。わからない?皆も言ってるのよ」
「わからないわよ…」
友人の言い方に少しむっとしたように眉間に皺を寄せる。
「あの子。よく綾を探しにくるじゃない?結構、あれを楽しみにしてる子おおいのよ?」
「ああ…一哉のこと?」
そこで漸く友人が口にした存在が、最近付けられたばかりの一哉だと悟る。
一哉の顔を思い浮かべて確かに、顔は他の兄弟と違って可愛い顔つきをしているかもしれないが、綾からしてみれば、そんなことどうだっていい。
取り分けて話題にあげるようなことでもないと思っていた。
はっきり言って理解できないとさえ思った。
「そうそう。あの可愛い顔で微笑まれたら。もうダメよ…」
と顔をうっとりさせて言う友人の顔を横目に見ていた綾だったが、突如にっこりとその顔に笑みを浮べた。
「デートする?」
綾の言葉に、友人はきょとんとした顔で綾を見返した。
しかし、すぐに机の上に置かれた綺麗に手入れのされた綾の手をばっと掴んで握ると目を輝かせて頷く。
「いいの?」
「いいわよ」
くすりと笑みを零した。
漸く今日の自分の仕事が終わると…一哉は思いながら綾の後ろをついて正門の傍で綾の帰りを待つ兄のもとに向かっていた。
これが終われば、一哉には自由な時間が与えられる。
やれやれと思いながら一哉は、兄の待つ場所へと向かっていたのだが、何故か今日に限って綾の横には、彼女の友人がいた。
見覚えのある彼女の顔は、以前綾を探していたときに、キスをせがまれた女子生徒で…。
何故か、一哉の方を何度もちらちら確認する。
あの時は、面倒でせがまれた通りのことをしてやったが、こうやってしてみると面倒だと感じざるを得ない。
自分は、さして大したことだと思っていないので平然とした顔で相手と顔を付き合わせることができるが、相手は違うパターンが往々にしてある。
そう、目の前の彼女よろしく…。
居心地の悪さを感じながらも、自分へと向けられる視線には、気づかない振りをした。
どうせ、後少しだ…と自分に言い聞かせて。
直ぐそこに兄の姿が見えていた。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
「ありがとう」
「どうぞ」
正門で待っていた一哉の兄の宗司が、車のドアを開けて綾に促がす。
軽く礼を言いながら車に乗り込む綾だったが、くるりと一哉の方に顔を向ける。
一体何だろうか?と一哉は一瞬、身構える。
「一哉」
「何でしょうか?」
「彼女を送ってあげて。私の大事なお友達なの。何かあったら許さないわよ」
とだけ言い切ると綾は車に乗り込んだ。
バタンとドアが閉められ、一哉が聞き返す時間はなかった。
一哉が綾の言っていた相手を見るとにっこりと笑い返してくるので、同じように笑い返した。
面倒なことを…と思っても顔には出さなかった。
彼女の我侭や突拍子もない命令に従うことが己の仕事なのだ。
「行きましょうか?どちらです?」
柔らかな口調で2人きりになった相手に問う。
車の後部座席から、窓の外に映る2人の姿を見ながら綾は、くすりと笑みを零した。
そこに映る常に穏やかな表情、柔らかな笑み……確かに友人の言うとおり、可愛いといえるかもしれない一哉の姿ある。
そして、常に顔色を変えない少年が今の自分の要求に戸惑っているように見えるのは気のせいだろうか。
それは、綾を充分に満足させるものだった。
「お嬢様、いかがなさいましたか?」
「なんでもないわ。出して頂戴」
「かしこまりました」
綾のかすかな笑い声が運転席に座る宗司の耳にも届いたようで…。
だが、宗司の問いには、なんでもないと答えて車を出すように命じる。
主である綾の命令に宗司は、特に意見を言うこともなく従いアクセルを踏む足に力を入れた。
わずかな振動音を身体に感じながら、目を窓の外に向けていた綾だったが、2人の横を通りすぎるときに一哉と目があったような気がした。
車が2人の横を通り過ぎると綾は興味を失ったかのように窓の外から変わり映えのしない車の中に視線を戻した。
そして、ハンドルを握る一哉の兄である宗司の顔を斜め後ろからじっと見つめた。
流石に、食い入るような綾の視線に宗司は怪訝に思ったのだろう信号が赤になったところで綾を振り返る。
「いかがなさいましたか?」
「え?」
宗司の言葉にはっとして彼を見返すと相手がふっと相好を崩す。
「私の顔をじっと見つめていらっしゃったようですから」
指摘されて漸く自分が彼を見つめていたことに気づく。
慌てて視線を逸らした。
「あ、ごめんなさい」
「いえ。私の顔に何かついていましたか?」
「え?そんなことは、ないわ。ないわよ」
「では、どうなさいましたか?」
と尋ねられて、綾は一瞬彼女には珍しくも言うか言わないか逡巡した。
ずっと気になっていたことだった。
俯きがちに視線を泳がし始めた綾に宗司は、目を細めた。
「一哉が何か失礼なことでも?」
そう尋ねる宗司の声音は、綾にも分かるぐらい冷ややかだった。
「そんなことはないわ」
ここで頷いてしまえば、一哉は自分の護衛から外されて自分はあの男が望むように女子高へと編入させられる。
それに、一哉自身に不満はない。
自分のやっていることも黙ってくれている。
ついて回るという若干の煩わしさはあるが、それは致し方ないもの。いてもいなくても困らない存在程度だ。
「…ならいいのですが…」
否定の言葉を口にした綾に宗司が答えた直後、信号が赤から青に変わったので車を再び走らせる。
丁度、アクセルを踏んだときに綾が小さな声で尋ねた。
「ねぇ、何で一哉って一番下なのに名前に一っていう文字が入ってるの?」
綾の問いに宗司のハンドルを握る手がぴくりと震えた。
バックミラー越しに綾の顔を伺う。
「何だか他の3人とは似てないし…年も離れてるし」
その問いに宗司は大きく溜息を零した。
綾は、その吐息の大きさに反応したように宗司の顔を伺う。
「そのことについては、私の口からは何ともお答えできません。一哉に聞いてみてください。お嬢様がお聞きになればきっと答えてくれますよ」
というよううに宗司からは、含みのあるような答えは得られても綾が望むような答えは得られなかった。
別に、宗司が答えても問題はないことなのだが、彼が答えるのを拒んだだけだった。
しかし、綾からしてみれば何か根深い問題でもあるのかと想像してしまうような答えで…。
すっきりとしない顔で、ハンドルを操作する宗司の顔を見続けた綾だった。
だが、終ぞ答えを得ることはできなかった。
2007
Vizard(4)
それでも、退屈そうな顔は決して見せない。
品のある笑みを称えて、一心に相手の瞳を見つめる。それが礼儀なのだ。
そうすれば、相手はさして面白くもない話をさらに雄弁に語る。
心の中で嘲笑されているとも知らずに…。
豪華にセッティングされたテーブル。
暗めに調節された室内の柔らかな灯り。テーブルにおかれた燭台の蝋燭の光が手元を明るく照らす。
次々に運ばれてくる料理に舌鼓を打ちながら適当に相槌をうつ。
向かいあって座る男の話は至極つまらない。
故に、この時間は退屈以外のなにものでもない。
しかし、自分にはこの男と一緒にいなければならない義務と責任がある。
放棄することは許されない。
それが、名を背負うことに課せられた自分の責務なのだから…。
「そう言えば、やっと決まったってお父上から聞いたよ?」
「え?」
男が口にした言葉に、ふと皿の上に綺麗に盛り付けられた料理から顔をあげてみせる。
綾の目に映った男は、満足そうに笑っていた。
「学校でのボディーガードだよ。嬉しいよ…これで安心できる」
「…ああ。あれ……、そうね」
と綾は適当に相槌を打って脳裏に昨日、顔を合わせた線の細いまだ中学生の姿を脳裏に描いた。
視線を外して自分ではない誰かを考えている姿に男は気に食わなかったのか、わざと音をたてて手にしていたフォークとナイフをまだ食べかけの皿の上におく。
かちゃりと擦れあう音に綾が不審に思って男の顔を見上げる。
「堺さん?」
「でも、男だろ?」
じろりと暗い瞳で睨まれて、綾の体が一瞬だけぴくりと震える。
それは、相手にはわからない程度の変化だった。
何も言わずに相手を見返していると男は、さらに続けた。
「もしかして…ということもあるだろう?心配なんだよ……。ここは、やっぱり女子高に…」
「やぁだ。男って言ったってまだ中学生よ?」
「それでも…」
「男というよりも男の子よ?それに、学校にそんなに危険ばっかあるわけないじゃない。第一学校の信用に関わるわ。友達もいっぱいいるの…。後3年はみんなと一緒に過ごしたいの…。ダメ?」
上目遣いに小首を傾げて懇願すれば、男はうっと押し黙った後、しぶしぶと言った態で「わかったよ」と頷いた。
綾は、男が頷くのを見届けた後、顔にはこれでもかというほどの笑みを浮かべ、心の中では嘲笑を浮かべた。
冗談じゃないわ――。
声には出さずに唇だけを動かして、綾は吐き捨てるように言った。
「何か言った?」
「ううん。それより、このお料理凄くおいしいわ」
男が反応したが、綾は笑みを口許に張り付かせてごまかすように話をそらした。
小中高から大学まで一貫教育を行っているこの学校は無駄に広い。
一哉は、無駄に豪華な長い廊下を歩きながら、「またか…」と心の中で思った。
一哉が守るべきお嬢様は、大人しく守られてくれなどいない。
一哉が姿を確認しに行く頃にはふらりとどこかに姿を消しているのだから…。
最初、見た時は驚き、失態だと思ったりもしたが、平然と何食わぬ顔をして上級生だろうか…男子生徒と仲良く並んで帰ってくる姿を見た時は、安堵とともに憤りも覚えたものだ。
姿を消すたびに探すのが、一哉の役目。
いなくなった先で変なことにでもなったら、それこそ身の破滅だ。
「一哉くん?」
くるりと踵を返して、綾の教室の近くから去ろうとした一哉の背中に女子生徒の声がかかる。
ぴたりと足を止める。
後ろを振り返って一哉は、笑みを振りまいた。
「何でしょう?」
「今日も可愛いわね…。綾ならいないわよ」
「ありがとうございます」
男の一哉からしてみれば、可愛いという言葉は決してほめ言葉とはいえない。
それでも、首を傾けながら礼を述べ、その顔に得意の柔らかな笑みを深く刻んでやるだけで、相手は陥落すると一哉は知っている。
そして、最大限それを利用する。
「どこに居ったかご存知ですか?」
「うーん。どうしよっかな」
ふふっと笑いながら、教えるか教えないか迷っているような仕草をする。
相手は、駆け引きをしているつもりなのかもしれないが、一哉にとってこれほど鬱陶しいことなどない。
「お願いします…。僕、困るんです」
と捨てられたような子犬の視線を彼女に送ると「わかったわ」と答える。
「キス一回」
女子生徒からそういわれた時は、きょとんとした一哉だったが、すぐに彼女に顔を近づけ振れるような口付けを与えた後、ふわりと笑みを刻んで「教えてください」と言う。
とろんとしたような表情の女子生徒に笑いかけながらも、一哉の目は決して笑っていなかった。
「センパイ?」
かわいらしく小首を傾げてみせる。
「あ…綾は、数学教官室よ…」
「ありがとうございます」
それだけ聞けばもう用済みだった。
くるりと踵を返し、彼女の前から足早に去った。
教えられたとおり、数学教官室近くの柱の影で待つ。
決して入ったりはしない。
もうすぐで予鈴が鳴ろうという時にがらりと教官室の扉が開く。
物陰から様子を確認していると、部屋の入り口に出てきた女子生徒と教師が軽く唇を触れ合わせる。
一哉は、その様子を物陰から見ながら、「よくこんなところでやるもんだ…」と呆れたように息を吐き出してみせる。
彼女の手には、何か包装されたものがあるのを見つけた。
そして、手を振って教師と別れてこちらに向かってくる彼女を待った。
「お嬢様」
「…あらいたの?」
一哉が自分の横を通り過ぎようとしていた女子生徒―守るべき対象である水原家令嬢である綾に声をかけながら、ずいっと一歩前に出た。
突如目の前に現れた一哉の姿に、綾は俄かに驚いたような顔をしたが、すぐに何でもないことのように振舞った。
「ええ」
「なんだぁ~今日は、撒けたと思ったのに」
「今日は、数学教師とですか?」
「見てたの?」
「ええ」
「そ。分かってるわよね?」
「…もちろん」
「はい。じゃ、これあげる」
言える訳がない。
自分の失態として扱われるのだから…。
一哉の答えに満足したのか、綾は、手にしていたかわいらしくラッピングされたものを一哉に渡した。
日替わりで男を替えては、その度に何かを貰ってかえってくる。
「これは…?」
「ちょっと前に欲しかったものをおねだりしてみたんだけど…もう他の人から貰っちゃったからいらない。あげるわ。やっぱり安月給の教師じゃだめね」
とさして面白くもなさそうで答える。
綾から荷を受け取りながら、一哉は綾の顔を見た。
こんなもの誰かに頼むまでもなく手に入るというのに…。
彼女は、自分に群がってくる男に無理難題を押し付けては楽しんでいた。
それは、時に自分の欲しいものをねだってみせたり、手に入らないものを欲しがったり…。
そのたびに、男達が奮闘する姿を見るのが楽しいのだという。
婚約の話は、公にしていないが故に、彼女のもとに男は群がってくる。
財産や家目当てに集まってくる男達に対する報復のようなものでもあったが、何より彼女が一番楽しんでいるのだから性質が悪い。
女子高に移るのを嫌がったのも、これがあるからだと一哉は踏んでいるし、事実そうだった。
何より、彼女の我侭っぷりには、一哉もほとほと手を焼いていたのだった。
それでも、決してこの任を放棄するわけにはいかなかったし、するつもりもなかった。
2007
Vizard (3)
しみじみと何度と無く繰り返す父の言葉に一哉は黙ったまま返事を返すこともしなかった。
表情は、いつもと何ら変わらない穏やかな表情だった。
水原家に挨拶を済ませた後に家へと向かう車の中で何度と無く聞き、もうすでに聞き飽きた台詞。
ふんと顔を外に向けながら、一哉の頭には顔を合わせたばかりの己が保護しなければならない対象である2つ年上のまだ少女と大人の間の危なげな綾の顔を思い出す。
一哉は、父には聞こえないように鼻で笑う。
その笑いが示すものは、何かはわからない。
そう本人にしか知りえない…。
家に帰ると父親は、自室に籠もった。
一哉を気遣ったり、待ったりということはしない。
一哉自身特に父に対して期待をしたりはしない。
この家に来てからそれが当然なのだから、もう感覚は麻痺している。
父親とは、離れてゆっくりとした足取りで自室に向かう。
途中で恰幅のいい女が自分の方へ歩いてくるのを視界の端に捉えて、一哉は立ち止まり女の通行の邪魔にならないように体を壁に張り付くように立って女が通り過ぎるのを待つ。
女が自分の前を通りすぎる時に合わせて腰を折った。
「ただ今戻りました。母上」
一哉の言葉に女は、冷たい一瞥と鼻息を荒く吐き出すだけで、何の言葉も返さなかった。
いつものことなので、そのような扱いを受けたところで別に何とも思わない。
大股に去っていく女の姿を一哉は、顔を下げたまま視線だけを女のたるんだ肉の浮き出た背中に向けた。
その瞳は、剣呑な光が宿っていた。
言葉にするなら、憎しみとかそういった類のものだ。
女の姿が見えなくなってから、一哉は女とは逆の方向に向かって歩く。
自室のある2階に向かうために階段を昇る。
階段を昇っていると一哉の視界に人の足が目に入る。
顔を上げた一哉の目に映ったのは、3人いる兄のうちの1人だった。
「ただ今、戻りました。兄上」
先ほどの女に向けたように頭を下げて言う一哉に女と同じように上から見下ろし、高圧的に鼻で笑う。
先ほどの女によく似た風貌の男は、一哉にとって3番目の兄にあたる。
恰幅のよい体つき。
身長は、一哉とさほど変わらないのだが、全体的に線の細い一哉と比べると何故か大きく見えるのだから不思議なものだ。
まだ、中学生の一哉と同じ身長なのが気に食わないのかこの男は、一哉に横に並ばれることを嫌い、こうして一段あるいは数段高い位置から一哉を見下すことを好んでしていた。
「ふん…。お前がこの家にいるのを見れば言われなくてもわかる」
「そうですね。失礼しました」
兄の言葉に軽く笑みを張り付かせて答えて横を通り過ぎようとすると大きな節くれだった手に肩を掴まれる。
ぴくりと一哉は反応して、足を止める。
横目で兄の顔を確認すると卑屈な笑みを浮かべて一哉を見ている。
「何でしょう?」
「お前が、お嬢様を警護するだと?」
「ええ、成り行きでそうなったみたいですね」
ふわりと笑みを浮かべて兄の不満そうな物言いに答えた。
兄の表情は、明らかな嫉妬を含んでいた。
いちいちそれにまじめに取り合っていたら、無駄な労力だけを浪費することになり、馬鹿を見るということを一哉は知っている。
だから、こういうときは取り合わずに笑いながら、やり過ごす。
それが、この家に来てから一哉が身につけたものだった。
そうしていれば、相手は勢いを殺がれて去っていく。
「…お前のようなひょろひょろした軟弱ものに何ができる。いいか?男は力だ。お前のようななよなよしたヤツは女の格好でもして、お嬢様の傍から離れないことだ。それくらいしか能がなさそうだしなっ」
と言いながら、掴んでいた一哉の肩をぐいっと押す。
外から強引に力を加えられたことによって一哉がバランスを崩して階段上でふらつく。
ふんっと鼻でそれを笑いながら、「そんなことでは、到底無理だな」と言った後、満足したのか階段を降りて去っていった。
その乱雑な動きの後ろ姿を、一哉は転びそうになっていたバランスを取り戻した後、鋭い視線を送りながら見送った。
そして、誰にも聞こえないような小さな声で何かを言ったが、それは、一哉自身の耳にも入らなかった。
「おうおう。妬まれてるねぇ。ま、いくら妬んだところであのデブにはお嬢様の護衛なんて逆立ちしたってできねぇだろうけどな」
次に聞こえてきたのは、茶化すような声。
顔をそちらに向けると長兄の姿がある。
すらりとした長身に、がっしりとした体躯は、傍から見てもスーツに包まれたそれが鍛えられたものであるとわかる。
母親ではなく父親似の精悍な顔つき。
今は、その顔に人をからかうような笑みを浮かべて一哉を見ていた。
「お帰りだったのですか?」
「ま、そーゆこと。で?お前は、あいつよりも先にお嬢様の護衛を仰せつかったというわけ?」
「たまたまですよ」
長兄の言葉に、こいつもかと内心で思う一哉だった。
「だろーね」
「ええ。兄上では、年が離れすぎていたということもあって、まだ中学生の僕が丁度いいみたいです。護衛といってもお守りするのは、学校の中だけですから」
「ま、普段は、宗司がいるしね」
「ええ。では、宿題があるので…」
失礼しますといいかけた一哉だったが、長兄が人を食ったような顔つきを一切取り去って、目を細めた。
「少しでもヘマをしてみろ。今度こそこの家から追放してやる」
地を這うような低い声で言う。
だが、一哉はそれも笑ってやり過ごすのだ。
「肝に命じておきます」
「ま、ヘマしてもいいけどね」
裏を返せばさっさと消えろと言ったところか…。
と笑いながら長兄の姿もどこかへと消えていった。
後1人一哉には、兄がいる。
彼は一哉からしてみれば、2番目の兄にあたるのだが、今日父に連れられ、出向いた先で紹介された少女のボディーガードとして働いている。
そんな2番目の兄の自分への態度も他の2人と大差ない。
むしろ、学校生活だけとはいえ、今まで彼の仕事の一部だったものが一哉自身に回ってきたことで、彼の態度はより極端なものへと変貌することが容易に想像できた。
ふぅとため息をつきながら一哉は、自分の部屋の前までいくと扉に手をかけ部屋の中へと入る。
一哉の部屋。
家の中にあって一番狭いこの部屋が、一哉にとって唯一安らげる場でもある。
ほとんどモノは置いていない。
机と椅子のみ。
片隅には綺麗に畳まれた布団一式がある。
ドアの鍵をかけ室内に入ると一脚しかない椅子にどかりと腰を下ろした。
息が詰まる。
しかし、もう慣れた。
10年もこんな生活を続けているのだから……。
2007
Vizard(2)
ぎぃっという木の軋む音と一緒に、スリッパを履いた人の足音が静かな廊下に響く。
がちゃりという金属の音がして、扉が閉まる。
ドアノブから細く華奢な指を離すと絨毯の敷かれた廊下をゆっくりとした足取りで歩く。
スカートの裾から覗く細い足が規則正しく動く。
スリッパの音は、床に敷かれた絨毯が吸い取ってくれる。
廊下には、窓から差し込む光が陰影を作っていた。
顔を上げて、窓の外を見上げながらいつもと変わらない風景が広がっている。
夏から秋の季節へと変わろうとしている景色が窓の向こう側に見ることができた。
立ち止まってその景色を見ていた水原 綾は、見方によっては暗く見えなくもない表情でひっそりと溜息を零したが、すぐに顔を前に向けると足を動かす。
自分の部屋から出てだだっ広い廊下を歩いていた綾だったが、自分の視線の先によく見知った顔と全く見たことのない人物が話しあっているのを目にして俄かに首を傾げてみせた。
綾が気づくのと同時に、廊下で話をしていた人物のうちの1人が彼女に気づいてにこやかな顔で彼女を手招きする。
「綾こちらに来なさい」
父親である男の声に歩みを少し速めて近づく。
父親ともう1人、父親よりも幾分か年嵩が上の体付きが不精からではなく鍛えられたことによってがっしりとしたよく見知った男。名を草壁と言う。
その草壁という男の傍に寄り添うようにして、まだ幼さを残した面立ちながら上背のある少年が立っていた。
綾は、じっと検分するようにその少年をじっと見つめながら、自分よりも年下か或いは、よく見ても同じくらいの年頃にしか見えない。
後、数年すればきっと魅力的な男に成長するに違いないだろうなと彼らに近づきながらぼんやりと思った。
「なぁに?お父様」
父親の傍まで近づくとにっこりと笑って綾は少し甘えたような声で聞く。
「綾」
「旦那様。私から…」
娘の名を呼び、恐らく綾の不思議そうな様子に答えるべく口を開こうとした父親だったが、傍に立っていた草壁の低いはっきりとした声に遮られることとなった。
自分の父親の代わりに説明をしてくれるという草壁に綾の視線が向けられる。
草壁は、自分の横にいる少年に目配せをする。
すると彼が一歩前に出て綾に向かって静かに一礼をした。
「誰かしら?」
「お初にお目にかかります。草壁 一哉と申します」
柔和な顔付きにこれまた人の警戒心をいとも簡単に解いてしまうような柔らかな笑みを浮べて少年が己の名前を名乗るのを聞きながら、綾は一哉と名乗った少年の後ろに立つ草壁の顔を見る。
綾の表情から言わんとしていることを察したのか、草壁はいつもは厳しい顔をくしゃりと歪めて笑い顔を浮べる。
一哉のものとは全く似ても似つかないその表情。
思わず、見比べてしまう綾だった。
「末っ子の一哉ですお嬢さまより2つ下の学年になります」
草壁の答えを聞きながら、もう一度一哉の顔を見る。
さっきと全く変わらない穏やかな笑みを浮かべて綾を見返す一哉。
「へーそーなのまだいたのね」
「こら綾」
「上の3人とは年が離れておりますからお嬢さまがそのように仰られても仕方ありませんよ」
少し下世話な印象を受ける娘の言葉を嗜める父親だったが、その張本人である草壁が苦笑を浮べつつフォローを入れる。
綾の父親は、一哉の肩に手を置きながら上機嫌な様子で娘に伝える。
「彼はお前のボディーガードをしてくれる」
という父親の言葉に一瞬、大きく目を見開いた綾だったが、自分よりも頭の位置が上にある少年の顔を見ながら彼女の口から零れてきたのは、疑いの声だった。
「え?だってひょろひょろよこんな頼りないのが?」
そう言われて顔色を変えたのは、父親と草壁だけで、言われた本人である一哉は眉一つ動かさなかった。
父親達の様子などお構いなしに綾の口からは滑るように次から次へと言葉が漏れてくる。
「それにボディーガードなら他にも居るじゃない」
現に、綾には現在他のボディーガードが付いている。
それは、ここには居合わせていないのだが、草壁の他の息子であり、一哉にとっては兄にあたる人物のうちの1人でもあった。
そもそも草壁家とは、水原家に何代も前から仕えている家であった。
ゆえに草壁の名を持つものが、常に水原の周りを固めているというのは、不思議ではないことだった。寧ろ、当然と言ってもいい光景で―。
「なにも子供を使わなくてもいいわ。第一、まだ中学生じゃない」
そう言って一哉から視線をふいっと外した綾の顔を一哉は、じっと見つめていた。
「そうもいかないだろう?」
「そうです。お嬢様。上の兄達と違ってまだ頼りないかもしれませんが、一通りのことは仕込んであります」
草壁の言葉に、今、現在自分に付けられている一哉の兄の姿を脳裏に思い描いた。
彼は、どちらかと言えば草壁似だろう。
ここにいる一哉は、草壁とは似ても似つかないくらいの柔和な顔だ。
「それに…堺さんからも言われてることだしな……」
父親の苦い口調に「そうね…」と首肯した。
「あくまで、一哉がお守りするのは、学校生活のみです。普段は、今まで通り一哉の兄である宗司がお傍につきます」
「ふぅん」
草壁の言葉には、あまり興味なさそうな顔をしながら耳を傾ける綾。
娘のあからさまな態度を父親が嗜める。
「綾。きちんと聞いてなさい」
「…はぁい」
「堺様がご心配されるのは、当然です。流石にもうすぐで30になる宗司が学校内まで入ることは不可能ですから、代わりに一哉をご用意させて頂きました」
「いや、本当に彼がいてくれて助かったよ」
堺というのは、綾の婚約者である。
綾は、先日16の誕生日を迎えたのだが、その誕生日の一週間ほど前に父親に連れられて堺という自分よりも10歳年上の男と面会した。
その時点で、堺との結婚が決まっていた。
会ったその日に結婚というのは、昔ではよく聞いたことであり、綾とてその程度の知識は持ってはいたが、まさか自分がこうなるとは思っても見なかった。
古くから続く財閥の家であり、父親はいくつもの会社を経営するグループの長であるだけに、自分の結婚にお金や会社のことが絡まない訳はないと理解してはいた綾だったが、まさか自分に選択の余地すらないとは思ってもみなかった。
幼少の頃に亡くなった母親がいたら、結果は少しは違っていたのかもしれないが、いない人間を求めたところで遅い。
母親がいない分、父親はそれだけに綾に対して甘くなり、叱られることもなく、ほとんどやりたい放題の彼女。
それでも、受け入れる覚悟があるという程度には、結婚というものに対して冷めた考えを持っていた綾だった。
事業の関連で、堺という男を選んだ父親だったが、堺自身は、すっかり綾に心酔しているようだった。
すぐにでも結婚式を挙げて入籍したいと言う堺のことは、どうでも良かった綾だったが、堺の勢いは綾が高校に通うことも止めそうな勢いだった。
家でじっとしているのも綾の性には合わない。
せめて高校だけは卒業させて欲しいと悪あがきをして、堺を牽制した綾だったが、堺から父親に学校に通わせうるのも不安だ。せめて共学の学校から女子高に編入しては、どうかと打診していた。
当然、それはすぐにでも父親の口から綾に告げられて、綾は臍を曲げて見せた。
そこで、父親は堺に対して綾には、学内でもボディーガードをつけて見張らせるということで納得させたのだった。
そして―、白羽の矢が草壁の家の者で年も近い一哉に立ったという訳だった。
上機嫌な様子で笑い声交じりに言う父親の言葉を聞きながら、綾は人知れず溜息を零しながら、もう一度だけ一哉を見た。
変わらない表情で綾を見返すだけの一哉。
心の中で綾は、学内だけのことだ大した危険は考えられないだろうがボディーガードを任せるるにしては、頼りないと1人毒づいた。
2007
Vizard(1)
笑い声に混じって、まだ小さな子供の泣き声も聞こえる。
「可愛いなぁ」
と小さく呟く男の声は、この屋敷とも言うべき広さを持つ大きな家の主である水原 一哉。
温厚そうな顔をしている彼の見た目に騙されてはいけない。
頭の中では、いくつもの策を巡らし、牙を向くものには容赦ない。
国内と言わずに世界でも恐れられている男である。
彼の視線の先にあるのは、泣いているまだ赤ん坊とも言える小さな小さな子供―彼にとっては、孫にあたる子供を抱いたまだ小さな少女と見紛うばかりの立川 希莉の姿。
大きな声をあげてなく子供の背を軽くぽんぽんと叩きながら、落ち着かせるように体を左右にゆっくりと振っている。
その横には、自分の息子である怜迩の姿がある。
怜迩の腕には、こちらは体は大きいがまだ幼児と呼ぶべき子供の姿がある。
そこには、まだ若い家族の姿がある。
普段は、別の場所で暮らしている彼らをここに連れ出したのは、他でもない一哉本人である。
何かと息子は、自分と彼女が接触を持つことを嫌う。
息子をからかって楽しむという歪んだ嗜好を持つ彼が、彼女にちょっかいをかけないわけがない。
正確に言うならば、海里は彼とは全く血の繋がりはなく関係も孫などではないのだが、希莉の甥である海里は、自分にもよく懐いている。可愛いと素直に思える。
しかも、彼女にはもれなく孫の萌と海里がついてくる。
手を出さないわけがない。
息子の怜迩のいない隙を狙って希莉の許にわざわざ出かけ、怜迩に何か言われているのだろう拒否する彼女を丸め込んでここへ連れてきた。
当然、それを知った怜迩が時間を置くことなく表れた。
そして、今に至る。
ひとしきり息子をからかって満足した後、彼はソファに座って彼らの様子を見ている。
子供の声に、気付いたのか彼の妻である綾も顔を見せた。
「あら…希莉ちゃん達来てたのね」
一哉の横に座りながら、綾が言うのを彼は、ふふんと笑って子供達の姿を見る。
「そう。僕が連れてきたんだ」
「あらまぁ」
それは、怜迩がさぞかし怒ったのではないかと綾は即座に思った。
そんな妻の考えなどお構いなしに、一哉はぼそりと呟く。
「懐かしいなぁ、あの位の子供を見ると怜迩が産まれた頃を思い出すよね」
「……そうね」
少し眉が悲しそうに下げられるのは、決して見間違いなどではない。
綾の肩に手を回すと一哉は、ぽんぽんと慰めるように叩くと綾は、一哉の手を掴む。
「…でもあなたは、意地悪だったわ」
「…えー?優しくしてあげたのになぁ」
「どこが?外面だけは良くて…」
「綾さんヒドイよ…」
「だって本当のことよ。私が影でどれだけ泣いたと思ってるの?」
妻の言葉に苦笑を浮かべる一哉に、綾は怯むことなく言い募る。
それでも、「懐かしい思い出よね…」と綾が口にして体を一哉に預けた。
彼は、妻の言葉に黙ったまま鷹揚に頷いた。
懐かしいと口にすることができるのは、2人が年月を経てそう言えるだけの余裕ができた証拠なのだろうか―。
それは、2人にしかわからない。
30年以上前――。
―草壁家。
「一哉。準備はいいか?」
いつも厳しい顔の父親だが、その日はいつもよりも厳しい顔つきに見えたと覚えている。
―水原家。
何気なく、部屋の外に出た自分を呼び止める父の温和な声にふと振り返った。
「綾。こちらへ来なさい」
それは初めての出逢い。
運命を左右するほどの…。
外面だけは完璧な彼との――。
ワガママな彼女との――。
愛しい愛しい最初の出逢い。