『本当にお前が居てくれて助かった』
しみじみと何度と無く繰り返す父の言葉に一哉は黙ったまま返事を返すこともしなかった。
表情は、いつもと何ら変わらない穏やかな表情だった。
水原家に挨拶を済ませた後に家へと向かう車の中で何度と無く聞き、もうすでに聞き飽きた台詞。
ふんと顔を外に向けながら、一哉の頭には顔を合わせたばかりの己が保護しなければならない対象である2つ年上のまだ少女と大人の間の危なげな綾の顔を思い出す。
一哉は、父には聞こえないように鼻で笑う。
その笑いが示すものは、何かはわからない。
そう本人にしか知りえない…。
家に帰ると父親は、自室に籠もった。
一哉を気遣ったり、待ったりということはしない。
一哉自身特に父に対して期待をしたりはしない。
この家に来てからそれが当然なのだから、もう感覚は麻痺している。
父親とは、離れてゆっくりとした足取りで自室に向かう。
途中で恰幅のいい女が自分の方へ歩いてくるのを視界の端に捉えて、一哉は立ち止まり女の通行の邪魔にならないように体を壁に張り付くように立って女が通り過ぎるのを待つ。
女が自分の前を通りすぎる時に合わせて腰を折った。
「ただ今戻りました。母上」
一哉の言葉に女は、冷たい一瞥と鼻息を荒く吐き出すだけで、何の言葉も返さなかった。
いつものことなので、そのような扱いを受けたところで別に何とも思わない。
大股に去っていく女の姿を一哉は、顔を下げたまま視線だけを女のたるんだ肉の浮き出た背中に向けた。
その瞳は、剣呑な光が宿っていた。
言葉にするなら、憎しみとかそういった類のものだ。
女の姿が見えなくなってから、一哉は女とは逆の方向に向かって歩く。
自室のある2階に向かうために階段を昇る。
階段を昇っていると一哉の視界に人の足が目に入る。
顔を上げた一哉の目に映ったのは、3人いる兄のうちの1人だった。
「ただ今、戻りました。兄上」
先ほどの女に向けたように頭を下げて言う一哉に女と同じように上から見下ろし、高圧的に鼻で笑う。
先ほどの女によく似た風貌の男は、一哉にとって3番目の兄にあたる。
恰幅のよい体つき。
身長は、一哉とさほど変わらないのだが、全体的に線の細い一哉と比べると何故か大きく見えるのだから不思議なものだ。
まだ、中学生の一哉と同じ身長なのが気に食わないのかこの男は、一哉に横に並ばれることを嫌い、こうして一段あるいは数段高い位置から一哉を見下すことを好んでしていた。
「ふん…。お前がこの家にいるのを見れば言われなくてもわかる」
「そうですね。失礼しました」
兄の言葉に軽く笑みを張り付かせて答えて横を通り過ぎようとすると大きな節くれだった手に肩を掴まれる。
ぴくりと一哉は反応して、足を止める。
横目で兄の顔を確認すると卑屈な笑みを浮かべて一哉を見ている。
「何でしょう?」
「お前が、お嬢様を警護するだと?」
「ええ、成り行きでそうなったみたいですね」
ふわりと笑みを浮かべて兄の不満そうな物言いに答えた。
兄の表情は、明らかな嫉妬を含んでいた。
いちいちそれにまじめに取り合っていたら、無駄な労力だけを浪費することになり、馬鹿を見るということを一哉は知っている。
だから、こういうときは取り合わずに笑いながら、やり過ごす。
それが、この家に来てから一哉が身につけたものだった。
そうしていれば、相手は勢いを殺がれて去っていく。
「…お前のようなひょろひょろした軟弱ものに何ができる。いいか?男は力だ。お前のようななよなよしたヤツは女の格好でもして、お嬢様の傍から離れないことだ。それくらいしか能がなさそうだしなっ」
と言いながら、掴んでいた一哉の肩をぐいっと押す。
外から強引に力を加えられたことによって一哉がバランスを崩して階段上でふらつく。
ふんっと鼻でそれを笑いながら、「そんなことでは、到底無理だな」と言った後、満足したのか階段を降りて去っていった。
その乱雑な動きの後ろ姿を、一哉は転びそうになっていたバランスを取り戻した後、鋭い視線を送りながら見送った。
そして、誰にも聞こえないような小さな声で何かを言ったが、それは、一哉自身の耳にも入らなかった。
「おうおう。妬まれてるねぇ。ま、いくら妬んだところであのデブにはお嬢様の護衛なんて逆立ちしたってできねぇだろうけどな」
次に聞こえてきたのは、茶化すような声。
顔をそちらに向けると長兄の姿がある。
すらりとした長身に、がっしりとした体躯は、傍から見てもスーツに包まれたそれが鍛えられたものであるとわかる。
母親ではなく父親似の精悍な顔つき。
今は、その顔に人をからかうような笑みを浮かべて一哉を見ていた。
「お帰りだったのですか?」
「ま、そーゆこと。で?お前は、あいつよりも先にお嬢様の護衛を仰せつかったというわけ?」
「たまたまですよ」
長兄の言葉に、こいつもかと内心で思う一哉だった。
「だろーね」
「ええ。兄上では、年が離れすぎていたということもあって、まだ中学生の僕が丁度いいみたいです。護衛といってもお守りするのは、学校の中だけですから」
「ま、普段は、宗司がいるしね」
「ええ。では、宿題があるので…」
失礼しますといいかけた一哉だったが、長兄が人を食ったような顔つきを一切取り去って、目を細めた。
「少しでもヘマをしてみろ。今度こそこの家から追放してやる」
地を這うような低い声で言う。
だが、一哉はそれも笑ってやり過ごすのだ。
「肝に命じておきます」
「ま、ヘマしてもいいけどね」
裏を返せばさっさと消えろと言ったところか…。
と笑いながら長兄の姿もどこかへと消えていった。
後1人一哉には、兄がいる。
彼は一哉からしてみれば、2番目の兄にあたるのだが、今日父に連れられ、出向いた先で紹介された少女のボディーガードとして働いている。
そんな2番目の兄の自分への態度も他の2人と大差ない。
むしろ、学校生活だけとはいえ、今まで彼の仕事の一部だったものが一哉自身に回ってきたことで、彼の態度はより極端なものへと変貌することが容易に想像できた。
ふぅとため息をつきながら一哉は、自分の部屋の前までいくと扉に手をかけ部屋の中へと入る。
一哉の部屋。
家の中にあって一番狭いこの部屋が、一哉にとって唯一安らげる場でもある。
ほとんどモノは置いていない。
机と椅子のみ。
片隅には綺麗に畳まれた布団一式がある。
ドアの鍵をかけ室内に入ると一脚しかない椅子にどかりと腰を下ろした。
息が詰まる。
しかし、もう慣れた。
10年もこんな生活を続けているのだから……。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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