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更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き. 嫌いな方・興味のない方・間違っちゃった方はバックバック

2026

0320
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2008

0519

Vizard (50)



2人は、無言だった。
気だるさを感じつつ、横たえていた体を起こす。
これで、2度目になる経験。
最初のときに比べて、遥かに体は楽だった。
以前のような高揚感も満足感もなかった。
ただ、嫌悪感だけは大きかった。
事後の言いようの知れない寂しさと孤独感は訪れなかった。
自分に背を向けた男の背中を暗い瞳で睨みつけた。

そこに先ほどまで肌を重ねていた2人の男女の甘い雰囲気などなかった。
情事の後、必要以上に構おうとした男の手を払いのけたのは、女の方だった。
彼女の必要以上に触るなと言わんばかりの態度に男は、不快そうに眉間に皺を寄せて背を向けた。
背を向けた男に女は辛らつな言葉を吐き捨てるように投げつけた。



「下手くそ」



背を向けたまま、男は目を見開いた。
何か聞き間違えたかと思い、ゆっくりと振り返った。振り返った先にあった彼女は、暗く淀んだ瞳を湛え、睨みつけていた。
呆けた顔で自分を見つめる男に彼女は、先ほどよりもはっきりとそして大きな声で告げる。

「下手くそって言ったのよ。耳まで遠いのかしら?」

ふんっと鼻で笑うと顔を男から背けた。

男は、言われた直後は、2度同じ言葉を繰り返されたにも関わらず、言葉を失い、何も考えることができなかった。
下手という言葉は、誰か別に比較対象がいなければ出てこない言葉であろう。
うまく働かず、鈍い頭でやっと理解したのはそんなことだった。


堺が分かったのは、自分が罵られたことと綾が自分以外の誰かと同じ行為の経験があるということだけ――

綾との結婚が決まってから結婚するまでの間の婚約中の期間に、一度だけ焦ってことに及ぼうとした経験がある堺だったが、その時のことは鮮明に覚えている。
明らかにその時には、不慣れで怯えていたはずだ。
そして、彼から逃げるように去っていったのを覚えている。
少なくともその時は、未経験のことに遭遇して怯えていたはずだ。
今の綾は、もうすでにその時の面影一つ残していない。
推測できることは、その時から今日に至るまでに自分以外の男の存在があったということだ。
自分以外の誰か――

背を向けたままベッドを降りようとした綾の肩を掴む。
ぴくりと大きく揺れた綾だったが、その手をばしっとなぎ払った。
振り向き様に、強い眼差しで睨みつける。

「馬鹿な男。お父様が選んだ人じゃなければ、誰があんたなんかに抱かれたいと思うものですか。おめでたい頭ね。私が初めてだとでも思ったのかしら?」

なぎ払われた手と綾の台詞に堺は憤慨し、彼の顔は見る見る間に紅潮した。
宙に浮いたままになった手をぎゅっと握り、拳を震わせる。
くすくすという笑い声が、堺の鼓膜を刺激する。
それは不快以外の何物でもない。

「綾…」
「軽々しく呼ばないでくれる?」

堺の口から己の名が紡がれた瞬間に、綾は声を荒げた。

「誰だ…」

ぎりっと奥歯を摺りあわせて聞く男の声は、喉の奥でくぐもったような声になった。
ふんと鼻で笑う。

「私が誰と寝ようが関係ないでしょ」
「誰だ!?」

大きな声に音を伝える空気が、音が触れる鼓膜がびりびりと振動を伝える。
思わず眉を潜めた。
肩を掴まれて強引に、堺の方へ向けさせられるとがくがくと体を揺さぶられる。
脳髄を揺さぶられる感覚は、それが長くなれば長くなるほど不快感が増していく。

「…めて…」
「誰だ!誰だ!?」

馬鹿の一つ覚えのように声を張り上げ問う男の耳には、かぼそく、揺さぶられていることで言葉もうまく音として伝わらず静止を願う声は届かなかった。
いつまで経っても離れる気配のない力に、腕を振り上げて掴まれた手を離しながら声をあげた。

「は…、離してって言ってるでしょ!」

バシッと手を払いのけ即座に男から距離を取った。
床に落ちていたガウンを取り、羽織る。距離を置いた相手と対峙する。

「私の過去は私のものよ!あんたに土足で踏み込む権利なんてないわ!」
「なっ!?」

あの時間は、自分と彼だけのもの――
いや、自分だけの宝。

自分の感情に正直に生きた証。

誰にも踏み込ませはしない。
捨てもしない。
拠り所なのだ。今でも、これからも――

「お前の父親に…」

眦を吊り上げ、ぎりぎりと歯軋りをさせて男は口にする。
怒りで赤く染まった顔は、どこか間抜けに見えるのは、気のせいか。

脅迫めいた台詞だが、綾ははっと吐き捨てるように乾いた笑いを浮かべた。

「言えば?証拠でもあるの?余計なこと言ってお父様をまた、怒らせてみるのもいいんじゃないかしら?証拠もなく私を侮辱するような台詞をお父様に聞かせるのだから、今度こそこの家を追い出されることを覚悟することね。…とくれば社交界で、堺家はいい恥さらしね。それは、それで面白いと思うけど……。どうかしら?」

いくら堺が脅迫の言葉を口にしようと所詮、知慮が足りないのだ。
更なる脅しによって封じられる。
悔しそうにうなり声を発しながら、腹の底から搾り出した獣のようなうなり声を発する。
綾は、堺を睨みつけながら、ばくばくとうるさく音を立てる己の心臓の音を聞いていた。
2人の睨みあいが続く中、綾は一歩近づくとベッドの上に座ったままの男を上から見下ろしながら宣言する。

「体と水原の名前はやっても、あんたみたいなつまらない男には心はあげないわ」
「何?」
「あまりよくないあなたの頭でもわかるでしょ?あんたの子供は産んであげるってことよ。でもね…。あんたにこの家での権力を与えるためでもなんでもないわ。それが、私の役目だからよ」
「ふざけるなっ!」

勢い良くベッドから降りると、綾の前に立ちはだかる。

「あらあら、前から思っていたことだけど…あなたって本当に愚鈍ね」

くすりと暗い笑みを浮かべながら、そこまで言うと口を閉じた。
そして、笑みを象るために持ち上げていた口許の筋肉の力を抜くと、そこには鋭く険悪な瞳で男を睨みつける女の顔しかなかった。
その雰囲気に一瞬、圧倒され、男は体を俄かに退いた。

「こんなこと冗談で言うわけないでしょ」

綾が言い終わるか否かだった。
彼女の頬を激しい熱が襲う。
体がふわっとぐらつく。じんじんと熱を訴える。
何をされたのか一瞬分からなかった。頭では理解できなかった。
激しく熱をもった箇所を震えた手で抑える。
手が震えたのは、紛れも無く動揺だ。

蝶よ花よと大事に育てられてきた綾にとって人から手を上げられたことなどない。
初めての経験。
それを、気に入らない男によって与えられた。
耐え難い苦痛――

頬を抑えたまま、射殺さんばかりの眼差しで睨みつけた。
堺は、綾を叩いた手を宙に浮かせたまま、激昂したままの表情で綾を見ている。

「ふざけるな…許さんからな…そんなこと」
「あなたに決定権なんかないわ。この身の程知らずっ!…きゃあっ!!」

綾が罵り終える前に、今度は体を突き飛ばされる。
どんっという鈍い音と甲高い悲鳴。それに混じって、どたどたと乱暴な足取りで床を踏みしめる音。
乱雑に開かれた扉から堺の姿が消えた瞬間、綾の体はぷっつりと緊張の糸が途切れたように床に吸い込まれるようにして、尻をついた。

 

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2008

0518

Vizard (49)



結局のところ、堺が水原に許してもらえたのは比較的すぐのことだったが、妻である綾は相当に腹を立てていたのだろう。
綾の機嫌が直るまでに、相当の時間を要した。
屋敷で働く人間の誰もが、堺の醜態を知ることになり、いい笑いものも同然だった。
それは、綾が父親から懐柔されなければもっと長引いていたかもしれない。
いい加減、堺を憐れに思った水原が娘に苦言を呈した形となった。
勿論、水原自身も堺にはもっとしっかりしてもわなければ困るといった旨を言い渡したのだが…。
しかし、水原はしっかりしてくれと言った口で、堺の姿が見えなくなったところで、あれでは無理だろうなとぼやいたのをたまたま通りかかった使用人の一人は聞いてしまった。

水原の助力もあってか、漸く、綾の機嫌を取ることができた堺はほっと胸を撫で下ろしていたこれで、やっと夫婦らしい生活が送れると暢気なことを考えていた。
自分がここへきた目的も果たせようと――
自分の血を引いた子供を水原の家に誕生させ、その後、当主の座を頂く…という目的。
堺の子供を産むことなんて、綾は全く望んでいないと知らずに――





刻、一刻と近づく時間に諦めの境地にも似た思いだった。
避けては、通ることができないと頭ではわかっている。

緊張した面持ちの彼女で後部座席に座る彼女をバックミラー越しに伺い見た。
学校から屋敷へと帰る車中。
唇を固く引き結んで、一点を見つめる。
周囲などまるで目に入っていない様子。
そんな彼女の様子を不審に思ったのは、何も彼―一哉だけではなかった。
車のハンドルを操作する宗司も同様の違和感は感じているようで、ちらちらとバックミラーで後部座席に座る彼女―綾の様子を先ほどから何度も伺っている。
一哉は、兄の責めるような視線を感じたが、自分には心当たりなど全くないので、分からないということを主張するように肩を竦める。
宗司は、無言の一哉の答えにふんっと鼻をならした後、もう一度バックミラーに映る浮かない綾の顔を確認した。

綾は、父親の言葉を思い出していた。
堺に対していつまで経っても腹を立て、見ている方が男に同情したくなる扱いに苦々しく進言したときのことだった。

「いつまで拗ねている気かね?」

父の書斎に呼び出されて開口一番にそう口にされて綾の表情がぴくりと一度引きつったあと、硬直した。

「拗ねてなんか…」
「あれでは正一君も可哀想じゃないか」
「あれは、あの人が悪いんじゃない。お父様だって不快に思ったでしょ?」
「それは、否定しないけどね。夫婦は仲良くしないと駄目だろう?これから何十年と同じ時間を過ごしていかなくてはいけないのに最初からこうでは、先が思いやられる」
「それは…だって」
「正一君とは、仲良くやりなさい」

そんなの無理だ。と思った。
自然と唇を噛む。

「一哉のことで怒るのは、もう止めておきなさい」
「どうして?一哉をやめさせようとしたのよ」
「彼の心配だという気持ちも分かってあげなさい。お互いにきちんと話をしてよく理解しあうことが君たちには大切じゃないか?違うかい?」

理解しあうも何も、問答無用で結婚まで持っていったのは一体どこの誰か――
だからこそ水原がそう言っているということも考えられるが、綾はなりふり構わず罵詈雑言を父親に対してぶつけたくなった。

――どうして、好意の欠片も抱いていない相手と話合う必要があるのか…。

「もし子供が産まれたときに、両親の仲が悪かったらその子も可哀想じゃないか」

水原の口から出た言葉に綾の体がぴくりと揺れた。

忘れていたわけではない。
目を背けていただけだ。

自分が、この家に産まれた時から背負っている運命。やらなければならないこと。
そのために、生きてきたのだと言っても過言ではない。
そのために、好きでもない男と結婚したのだ。
自分にその役目から逃げることを許してくれる人物は誰もいなかった――



宗司の運転する車は、気づけば屋敷の敷地内に到着していた。
車が所定の位置で停止した後、先に下りた一哉の手によって後部の扉が開かれても、後部座席に座った綾は、呆然としたままある一点だけを瞬きもせずに食い入るように見つめていただけだった。

「お嬢様?」

訝しむような一哉の声にはっとしたように顔を上げる。
2人の目が合ったその瞬間、綾の縋るような視線に気づき、一哉の心臓が一度大きく脈打つ。
顔に出さないでおくことが精一杯だった。

「どうかなさいましたか?」

できる限り平静さを保って尋ねる。

「…何でもないわ…」

縋りつくことができたのならば、どんなに救われただろうか――
しかし、できなかった。
言ったところで助けてはくれない。
それどころか、送り出すような言葉をくれるに違いないから――
苛立ったような表情とともに――
彼に期待するのは、間違っている。そう自分に言い聞かせた。

「何でも…ないわ」

ひどく耳に残る頼りない声だった。





時計を確認すると既に夜中の2時を回っていた。
手にしていた本を閉じると立ち上がって本棚に本を戻して、部屋を出た。
睡眠の前に、洗面所に向かい、歯を磨き、自室に戻るために長い廊下を歩く。
他の者はすでに就寝しているようで、屋敷は静まりかえっているため、極力、音を立てないようにして廊下を歩いていた一哉だったが、2階でその静寂を打ち破るような乱暴な音が聞こえてきて、1階を歩いていた一哉はぴたりと足を止めて2階を見上げた。
怪訝に思いながら確認するために2階へとあがるために、階段に足を一歩踏み出した。

2008

0517

Vizard (48)




いつもと変わらない朝の風景なのだろうが、彼には全ての者が自分をあざ笑っているように見えてならなかった。
人目を気にしながら朝食を取るそんな彼の様子など意に介することなく―全く、興味がない様子で自分の分の朝食を取り澄ました顔で済ませる彼女。
2人の間には、会話はなかった。
何しろ、綾が取り付くシマも与えなかったという方が正しいだろう。
ツンとそっぽを向いたまま、同じテーブルにつく堺のことなど一回も見ようとしない。
恐ろしく徹底されたように――
給仕のために、居合わせた使用人の一人はそんな綾の様子が気になり、ちらちらと不躾な視線を送る。
それは、誉められたものではないが、結婚したばかりの夫婦が結婚後数日で、冷え切ったと形容しても問題ないであろう関係になっていれば、人の下世話な興味と思考が働いても文句は言えまい。
綾とてその視線に気づいてはいたが、敢えて注意をするようなこともしなかった。
適度に満腹感が生じたところで椅子から立つとダイニングルームを出た。
その際にも、堺を見る事も口を利くこともなかった。

一哉は、学生服に身を包み、自分と同じように屋敷に住み込みで働いている他の使用人と同じテーブルについて朝食を食べていた。
最初こそ声を掛けられることもあったが、当たりさわりのない返事だけをしていた一哉を他の人間は、面白くないと判断したようで、彼に声をかける回数も減っていき、今では業務連絡程度しか言葉を交わさなくなった。
無言で食事をする傍ら、他の人間の口さがないおしゃべりが聞こえてくる。
どうせ、いつもと同じ愚痴の言い合いだろうとさして気にもせずに箸を動かしていた一哉だったが、聞こえてきたお喋りの声にぴたりと手を止めた。

「昨日、堺家から婿養子に入った正一様だったかしら…、その人が旦那様と綾お嬢様を怒らせたらしいわよ」
「え…?」

一哉と同じテーブルで食事をしていた2人の女は、屋敷で働く、言わば女中のようなものだった。
言い出した女とは、別の女が驚きの声ををあげるのと同時に、一哉は、顔をそちらへと向けた。
彼女達は、一哉の視線に気づいたようで目を丸くして一哉を見返した。
それを気まずく思い、すぐに視線を手元に戻した一哉だったが、耳はいつもより彼女達の話に注意を向けられていた。
彼女達は、すぐに顔をうつむけて、視線を戻した一哉を怪訝に思い、互いの顔を見合わせて首を傾げた。
盗み見るように一哉を見るが、すぐに彼女達の興味は尽きたようで、それまでの話に彼女達の興味は戻った。

「凄かったらしいわよ」
「帰ってきてすぐじゃない」
「そうよ。身の程知らずだと思わない?旦那様もそうだけど、お嬢様が大分とお怒りになったようで、部屋から閉め出されたらしいわよ」

下世話な会話にの後。
ぴたりと会話は止まり、その直後、高い品の無い笑い声が部屋に充満した。
一哉は、聞くに堪えない笑い声から逃げるように立ち上がると自分の食器をシンクに置くと部屋を出た。
部屋を出ると先ほど話題に上がっていた一人が廊下を歩いており、すれ違う。

「調子に乗るなよ」

地を這うような声でぶつけられる悪意。
一哉の足はぴたりと止まる。

「……」

自分の横を通りすぎ、己に背を向けているであろう男を振り返ると相手も自分を見ていた。
険しい瞳で――

「何のことでしょう」

涼しい顔で問う一哉。
悪意には慣れている。
自分に悪意を向ける人間の感情を逆撫ですることも得意としていた。
今のように白々しい顔で、問えばそれだけでいい。笑みを付け加えてやればもっといい。
さすれば、目の前の男のようにますます感情を荒立てる。

「お前のような取るに足りないヤツなど、いくらでも替えがいるんだからな!私がその気になれば」
「楽しみにしておりますよ」

男の声を遮った。
一哉の台詞に言葉を失ったように、呆けた顔をする。
内心で男の間抜けな表情をあざけり、笑いながら続ける。

「なっ…」
「それほどの力をあなたが手にすることができることを心から――

薄っすらと笑みを浮かべていても決して目は笑っていない。
表情が何より物語っていた。
――お前には、無理だと…。

その言葉が決して額面どおりの言葉ではないことだといくら愚鈍な男とて感じた。
下のものに馬鹿にされることは、ひどく業腹なことだ。

「き…貴様……」
「何やってるの!?」

一哉と男の対峙は、割り込んできた甲高い声によって中断された。
2人の男の視線は、つかつかと大股に近づいてくる彼女に向けられた。
2人の男の間に立ちはだかる。

「何をしているの?」

彼女が強く責めるような視線を向けたのは、使用人である一哉ではなく、夫である堺にであった。
さすがにこれはまずいだろうと一哉の方が、この状況を危ぶんだ。

「お嬢様。私が至らないところがあったようですので…」

綾の剥きだしの敵意に呆気に取られていた堺だったが、一哉の言葉につまりながらもふんっと鼻息を荒くした。
自分の佇まいを正すと背後からの一哉の言葉に表情を軟化させた彼女に言う。

「そ、そうだ。出来損ないは、水原の品位に関わるからな」

――よく言ってくれる。
出来損ないはどちらだと胸中でふんぞり返る男を罵る。

同じくして綾は、堺の言葉に不快感を露わにした。
眉間に深い皺を刻み、夫である男を睨めつけた。
もとより、昨晩からの男の言い分、振る舞いに腹を立てていた綾だけに、その怒りは留まるところを知らないようだった。
何もかもが腹立たしい。

「あなたにそんな心配して頂かなくて結構。余計な口出ししないで下さる?一哉。この人の言うことなんか気にしないでいいわよ。行きましょ。遅刻しちゃうわ」

男を睨みつけたままくるりと背を向けるとまるで堺に見せ付けるかのように、一哉には笑みを浮かべて、一哉の腕を引いて、男の前から姿を消す。

「あの男…勘違いも甚だしいったらないわ。実家の力で水原に入れた分際で…。この家にきた時点で用済みだと言うのに…」

その途中、苛立ったような綾の声を一哉の耳は拾ったが、敢えて何も言わなかった。
気づかない振りをした一哉だった――
綾の言葉が間違っているとも正しいとも一哉は、口にはしなかった。

2008

0516

Vizard (47)




「我慢なりません。あんな子供に任せておけませんし、即刻、信頼のおける別の人間を」

座っている椅子から立ち上がらんばかりの勢いで憤慨したように顔を真っ赤に染め上げる男は新たにこの席に加わった堺だった。
すぐに近くから机をバシッと叩きつける音がする。
叩き付けたのは、男の向かい側に座っていた綾だった。
彼女は、立ち上がるとびしっと指を男に突きつけた。

「ふざけないで!あなたが決めることじゃないわ!」
「私は、君の心配を!」
「何よ。自分の思い通りにいかないからって、子供みたいに駄々をこねないでくれる?ばっかみたい」

女と男の言い合いが続く。
堺は、専ら綾にではなくすぐ近くにいる女の父親、そして自分にとって義父にあたる水原に嘆願していた。
しかし、堺の意見に絶対に避けたい綾は、彼を罵倒した。

「まぁまぁ、2人とも落ち着きなさい」
「落ち着いてるわ。この人があまりに勝手なことを言うからじゃない」
「綾」

まだ、文句が出てきそうな娘を嗜める父親。
父親の言葉に、ぐっと不満を堪えてただ、余計なことを言い出した男の顔を睨みつけた。まるで、親の敵のように――
綾の視線から逃げるようにしながら、堺は水原の顔をじっと伺う。

時刻は、夕食時だった。
すでに連絡を受けていた水原は、本来ならば異国で旅行を愉しんでいたはずの娘が突然、戻ってきたことにもさして驚いた様子は見せなかった。
さすがに連絡を受けたときは、多少は驚きはしたものの、帰ってきてしまったものは仕方ない。
そして、新たな家族を迎えての食事の場面で、堺が急に口にしたのだ。
―今回、旅行を取りやめるまでの原因を作った男を綾のボディーガードにしておくのは納得がいかないと――
それに食ってかかるように待ったの声をかけたのは、綾だった。
自分が帰ってくるまでの間、数度となく言い合いを続けているのかもしれないも思った。
綾に言っても埒が明かないから自分に男は、言ってきた。
しかし、こんなことでは先が思いやられる――
自分の妻の手綱くらい自分で握っておいて貰わねば――
聞くに堪えない言い合いに聞き飽きた水原は、堺に目を向ける。
堺は、自分へと水原の視線が注がれたことで自分の意見が通るかと顔を俄かに輝かせた。
そして、綾は父の答えに危ぶんだ。
最後に当事者である一哉は、この場にはいなかった。

「君の言い分は聞けないよ」

しかし、はっきりとした淀みない男の声に180度、彼らの表情は逆転した。
ほっとしたように肩に入っていた力を抜き、安堵の表情を浮かべる綾と顔の筋肉を硬直させたまま「は?」と間抜けな声を出した堺。
見事なまでに、間の抜けた面を晒した。

「これで、この話は終わりだ。綾もいいね」
「もちろん」

満足そうに笑む娘を見た後、手を止めていた食事を再開する。
綾とは対照的に悔しそうに歯軋りをした男を見て、綾は勝ち誇ったようにふふんと笑ってみせた。
堺は、拳を強く握った。

「正一君もいいね」

どうも納得していない様子の堺に気づいていながら、念を押すように尋ねる。
当然、納得などしていない堺が頷くはずもない。

「納得できません」

水原を見ることなくそう答えた堺は、気づかなかった。
水原の顔がぴくりと引きつったことに――
横目で父親の表情の変化を悟った綾は、馬鹿な男と口には出さないものの胸中で男を罵った。
水原は、トーンを下げた声で問う。

「君は、私の決定に納得がいかないと言うわけだね」

険のこもった声に堺がはっとして顔を上げた。
水原の顔を見て、漸く地雷を踏んだことに気づいた。

「あ…いや、あの…ですね」

青ざめた顔で、何とか取り繕おうとするが、上手い言葉は見つからず意味のない言葉が口からついて出てくるばかりだった。
ますます水原の顔は、険しくなるばかりだった。

「納得いかないということはそういうことだろう。違うかい?君は、私の見る目を疑っているということだろう?」

堺は、不用意な発言をした自分と引き際を見誤った自分を後悔しても遅い。
完全に水原の機嫌を損ねてしまったと悟る。
遅いと分かっていても、ここは謝らなければいけない。
自分の立場というものを考えるならば――
もとより同じ土俵に立てるわけがないのだ。
自分は綱渡りの綱の上にいるようなものだ。
自分の行動如何では、明日はどうなるか分からない。
己自身だけではない。自分の生家も危うくなる。

「申し訳ありません…出過ぎたことを申しました」

堺は、苦しげな声を出して謝罪の言葉を口にした。
しかし、堺の謝罪にも気難しい顔をしたまま大仰に息を吐き出すと手にしていたフォークとナイフをテーブルの上に静かにおいた。
テーブルの木と銀のナイフとフォークが触れるときにカチャと高い金属特有の音がなる。
その音が途轍もなく、恐ろしい鐘の音に聞こえる。

「不愉快だ」

堺を見ることもなく椅子から立ち上がるとそのまま部屋を出て行こうとする。
慌てたように堺が大きな音をたてて椅子から立ち上がり、水原の後を追いかける。

「待ってください!」

と呼び止めても水原は止まるどころか振り返りもしなかった。
代わりに、背後から金属のぶつかる音を聞いた。
堺が、背後を振り返ると同じように机の上にナイフとフォークを叩きつけるようにおいた綾ががたりと大きな音を立てて椅子から立ち上がった。
そして、彼女はじろりと堺を睨みつけた。

「私も不愉快だわ。今日は、もう顔もみたくないわ。別の部屋で寝てくださる?」

冷めた瞳、屈辱的な言葉。
堺の顔が紅潮するが、綾は全く気にとめた様子もなく、父と同じくすたすたと部屋を出て行ってしまった。
慌しい、結婚式、そして新婚旅行に行ったはずなのに辿りついた異国の土を踏んでわずか数分でとんぼ返りになった綾と堺にとって、結婚してから初めてゆっくりとした夜を迎える日だったはずなのだ。
それが、見事に崩れ去った。

男自身の不用意な発言によって――

一人取り残された堺は、みじめな思いと次から次へと沸いてい来る怒りにも似た感情。
ぶつける相手のいない感情の塊は大きくなっていくばかりだった。

爆発する日は、そう遠くないかもしれない――

彼の姿はそんなことを予感させるものだった。
膨らみ過ぎた感情は、時として人を暴走させる。
亀裂は、とても小さなものから始まるのだ……。

2008

0515

Vizard (46)



形容し難い腹立たしさを抱えて男は、長く続く廊下をいつもより大股で歩いていた。
間違いなく誰かが通りかかろうものなら男の憂さ晴らしの餌食になっていたに間違いないであろう。

何故、自分があんな使用人より軽んじられなければならないのか――。

男―堺の怒りの原点はそこである。

何故、たかが小娘に叱責されなければならないのだ――。
女は、黙って男の言うことを聞いていればいい。

堺は、懐古的志向で封建主義的な考えの持ち主だった。

何故、男の自分が力も女の綾に命令されなければならないのか――。
水原の次期当主は、他の誰でもない自分なのだ。
したがって、誰であろうと自分に従うべきなのだ。
それが、どうだろうか――。
実質、強いのは綾であり、自分は軽んじられているではないか。

堺にとって、業腹以外の何物でもない。

何もかもが目障りだった。

結婚して数日も経たないというのに、不満は今にも爆発しそうなほど膨らみつつあった。
そんな彼を抑えているのは、将来、現当主の死後、全ての財産が手元に転がり込んでくるという希望だった。





部屋の扉が閉まる音が聞こえたが、一哉は振り返ることはしなかった。
着ていたコートを脱ぎ、ハンガーにかける。

綾は、一哉の一つ一つの動作をじっと見つめていた。
熱に浮かされたように――。
いつまで経っても話をする気配のない綾に、一哉は彼女に背を向けたまま問う。

「新婚旅行中断してまで、戻ってくるほど言いたいことがあるんだろ。さっさと言え」

その苛立ったような声音に綾の顔が俯けられる。
こんな声を聞くだけで泣きそうになるのだから、重症だろうと綾は自分で思った。

自分より大きな、服の上からではわからないが、鍛えられた背中に飛びつくことができたら――。

しかし、そんなことできやしない。
どうして、こんなに近くにいるのにそんなに遠くに感じられるのか。
しかも、一哉は自分から離れようとしたのだ。

どうして――。
どうして――。
どうして――。

いくつもの疑問符が綾の中で形にならないまま、消えていく。

「わ…私のこと、…そんなに嫌い?」

言いたいこと聞きたいことは、他にも沢山あったはずなのに――。
綾の口から出てきたのは、今にも消えそうな小さな問い。
彼女の不安を表しているようだった。

背中を向けたまま、一哉は奥歯をぎりっと噛み締めた。

――違うと言えたら…。
どんなに楽か……。
言えないからこそ、言おう。

「嫌いだ」

これ以上ない嘘を――。
彼女のための嘘を――。

自分を楽にするための嘘を――。

嫌いになることは難しい。
だから、嫌ってくれ――。とただ、願ってその言葉を口にした。

綾は目を見開いて、一哉の背中を見た。
次第に、涙で霞んでいく。

「だから…、籍を抜けたいの?…私の傍から…」
「言えば、抜けさせてくれるのか?」

ひどい男は、くるりと背を向けるとシニカルな笑みを浮べて言う。
涙が浮かぶ瞳で一哉の顔を睨みつける。
そんな綾の視線など意に介さず、笑みを浮かべ続ける。
こんなことで罪悪感を感じていては、駄目だ。自分には、そんな感情を感じる資格などないと言い聞かせて――
苦しい表情をさせているのは自分なのだ。
泣かせているのは、自分なのだ。
だから、そんな資格などない――。罪悪感も感じてはいけない。

「そんなこと許さない」

喉の奥から絞りだされたようなくぐもった声。
一哉は、綾の答えに笑みを作るために持ち上げていた筋肉をふっと元に戻し、一瞬にして無表情になった。

「あ、そ。言いたいことはそれだけか?満足したら出てけ」
「お願い!もう我侭も言わない!だから、傍に居て…。いなくならないで」

背を向けようとした一哉の腕を咄嗟に掴んで懇願する。
綾は、一哉が大きく息を吐き出すのを聞いた。そして、きっと呆れているのだと思った。
一哉は、自分の腕を掴む綾の手をやんわりと握って、離させた。

「お前は、水原の人間で、俺は、草壁の人間だ。その時点で、俺はお前に従うしかないんだ。逆らうことなんてできない。例え、どんなに嫌な奴であろうと逆らうことはできないんだよ。馬鹿なことばかり言ってないでとっとと旦那のご機嫌伺いでもしてろ。今頃、お冠だぞ」

そう言うと綾の身体を反転させ、とんっと軽く背中を押した。
それほど強い力ではないはずなのに、足が自然と前へ出る。
一歩前に出た足につられるようにして、さらに反対の足も前に出た。
狭い部屋では、すぐドアまで辿りついてしまう。
ドアノブに手を触れながら、一哉を振り返る。
だが、綾の視界に入ってくるのは、背中だけだった。何も言わない背中だけでは、一哉が何を考えているかも分からないし、表情も見えないため、どんな顔をしているのかすら分からない。

「どこにもいかないで…」

最後に弱弱しい声で懇願する。

「それが、命令なら従ってやる」

早く出て行け―。と思いながら極力冷徹な声で答える。
自分のことなど見ずに、振り返らずに前だけを見ていろと思っても言葉にしなければ永遠に伝わらないままだ。
しかし、どの面下げてそんな偽善者めいた言葉を吐けようか――

ガチャリと扉が閉まる音と同時に、力が抜けたように近くにあったベッドに倒れ込むようにして身体を横たえる。
綾の細い手が触れたところが熱を持ったように熱かった。
触れた指の温度は冷たかったはずなのに――

部屋の外に出た綾は、零れてきそうになる涙を拭った。
未練がましく涙に濡れた赤い瞳で部屋の扉を見つめ、中にいる人物のことを思った。
他の何を置いても傍にいて欲しいのは、彼なのに―。
自分の言葉は、伝わらない。

家のチカラでしか、引き止めることができない――
どうして、本当に欲しいものは手に入らないのか――
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