形容し難い腹立たしさを抱えて男は、長く続く廊下をいつもより大股で歩いていた。
間違いなく誰かが通りかかろうものなら男の憂さ晴らしの餌食になっていたに間違いないであろう。
何故、自分があんな使用人より軽んじられなければならないのか――。
男―堺の怒りの原点はそこである。
何故、たかが小娘に叱責されなければならないのだ――。
女は、黙って男の言うことを聞いていればいい。
堺は、懐古的志向で封建主義的な考えの持ち主だった。
何故、男の自分が力も女の綾に命令されなければならないのか――。
水原の次期当主は、他の誰でもない自分なのだ。
したがって、誰であろうと自分に従うべきなのだ。
それが、どうだろうか――。
実質、強いのは綾であり、自分は軽んじられているではないか。
堺にとって、業腹以外の何物でもない。
何もかもが目障りだった。
結婚して数日も経たないというのに、不満は今にも爆発しそうなほど膨らみつつあった。
そんな彼を抑えているのは、将来、現当主の死後、全ての財産が手元に転がり込んでくるという希望だった。
部屋の扉が閉まる音が聞こえたが、一哉は振り返ることはしなかった。
着ていたコートを脱ぎ、ハンガーにかける。
綾は、一哉の一つ一つの動作をじっと見つめていた。
熱に浮かされたように――。
いつまで経っても話をする気配のない綾に、一哉は彼女に背を向けたまま問う。
「新婚旅行中断してまで、戻ってくるほど言いたいことがあるんだろ。さっさと言え」
その苛立ったような声音に綾の顔が俯けられる。
こんな声を聞くだけで泣きそうになるのだから、重症だろうと綾は自分で思った。
自分より大きな、服の上からではわからないが、鍛えられた背中に飛びつくことができたら――。
しかし、そんなことできやしない。
どうして、こんなに近くにいるのにそんなに遠くに感じられるのか。
しかも、一哉は自分から離れようとしたのだ。
どうして――。
どうして――。
どうして――。
いくつもの疑問符が綾の中で形にならないまま、消えていく。
「わ…私のこと、…そんなに嫌い?」
言いたいこと聞きたいことは、他にも沢山あったはずなのに――。
綾の口から出てきたのは、今にも消えそうな小さな問い。
彼女の不安を表しているようだった。
背中を向けたまま、一哉は奥歯をぎりっと噛み締めた。
――違うと言えたら…。
どんなに楽か……。
言えないからこそ、言おう。
「嫌いだ」
これ以上ない嘘を――。
彼女のための嘘を――。
自分を楽にするための嘘を――。
嫌いになることは難しい。
だから、嫌ってくれ――。とただ、願ってその言葉を口にした。
綾は目を見開いて、一哉の背中を見た。
次第に、涙で霞んでいく。
「だから…、籍を抜けたいの?…私の傍から…」
「言えば、抜けさせてくれるのか?」
ひどい男は、くるりと背を向けるとシニカルな笑みを浮べて言う。
涙が浮かぶ瞳で一哉の顔を睨みつける。
そんな綾の視線など意に介さず、笑みを浮かべ続ける。
こんなことで罪悪感を感じていては、駄目だ。自分には、そんな感情を感じる資格などないと言い聞かせて――。
苦しい表情をさせているのは自分なのだ。
泣かせているのは、自分なのだ。
だから、そんな資格などない――。罪悪感も感じてはいけない。
「そんなこと許さない」
喉の奥から絞りだされたようなくぐもった声。
一哉は、綾の答えに笑みを作るために持ち上げていた筋肉をふっと元に戻し、一瞬にして無表情になった。
「あ、そ。言いたいことはそれだけか?満足したら出てけ」
「お願い!もう我侭も言わない!だから、傍に居て…。いなくならないで」
背を向けようとした一哉の腕を咄嗟に掴んで懇願する。
綾は、一哉が大きく息を吐き出すのを聞いた。そして、きっと呆れているのだと思った。
一哉は、自分の腕を掴む綾の手をやんわりと握って、離させた。
「お前は、水原の人間で、俺は、草壁の人間だ。その時点で、俺はお前に従うしかないんだ。逆らうことなんてできない。例え、どんなに嫌な奴であろうと逆らうことはできないんだよ。馬鹿なことばかり言ってないでとっとと旦那のご機嫌伺いでもしてろ。今頃、お冠だぞ」
そう言うと綾の身体を反転させ、とんっと軽く背中を押した。
それほど強い力ではないはずなのに、足が自然と前へ出る。
一歩前に出た足につられるようにして、さらに反対の足も前に出た。
狭い部屋では、すぐドアまで辿りついてしまう。
ドアノブに手を触れながら、一哉を振り返る。
だが、綾の視界に入ってくるのは、背中だけだった。何も言わない背中だけでは、一哉が何を考えているかも分からないし、表情も見えないため、どんな顔をしているのかすら分からない。
「どこにもいかないで…」
最後に弱弱しい声で懇願する。
「それが、命令なら従ってやる」
早く出て行け―。と思いながら極力冷徹な声で答える。
自分のことなど見ずに、振り返らずに前だけを見ていろと思っても言葉にしなければ永遠に伝わらないままだ。
しかし、どの面下げてそんな偽善者めいた言葉を吐けようか――。
ガチャリと扉が閉まる音と同時に、力が抜けたように近くにあったベッドに倒れ込むようにして身体を横たえる。
綾の細い手が触れたところが熱を持ったように熱かった。
触れた指の温度は冷たかったはずなのに――。
部屋の外に出た綾は、零れてきそうになる涙を拭った。
未練がましく涙に濡れた赤い瞳で部屋の扉を見つめ、中にいる人物のことを思った。
他の何を置いても傍にいて欲しいのは、彼なのに―。
自分の言葉は、伝わらない。
家のチカラでしか、引き止めることができない――。
どうして、本当に欲しいものは手に入らないのか――。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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