更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (68)
急いで帰ってきた男は、屋敷内でも走ってこの部屋に訪れたのだろう肩で息をしていた。
信じられないものでも見るかのように、室内のソファに腰を下ろして寛いだように座っている妻の顔を見た。
彼女は、男を睨みつけていたが、男の目が己の目と合ったとき、意識的に口角を持ち上げてにやりと笑った。
それに気づいた男の瞳がはっとさらに見開かれた。
「あなたも聞いて飛んで帰ってきてくれたのかしら?」
目は口ほどにものを言うとは、よく言ったもの。
嘲りを含んだそれに気づかないほど男は、愚鈍ではなかった。
「聞いたと思うけれど…。私、妊娠したの。3ヶ月目らしいわ」
淀みない声でされる宣言は、男からしてみれば最終宣告のようにも感じた。
男と綾の間に最低でも半年以上は、肉体的接触はなかった。
故に、綾の腹に宿った新しい命は、決して男のものではない。
そして、彼女の発言は彼女が自身の不貞を宣言する言葉。
「二人で話がしたいだろうに、わ…私はこれで」
この場において、邪魔者であろうと判断したことと先ほどの娘の言葉にショックを隠せない男は、逃げるようにぎこちない動作で娘夫婦を残して娘の部屋を去った。
父親が自室を後にする際にも、綾は気に留めた様子もなく、対峙している色を失った堺から目を離すことはしなかった。
水原が姿を消してからもしばらくは、2人とも口を開くことも身動き一つすることもなかった。
2人きりになってから数分が経過した後、先に動いたのは堺だった。
ゆらりと身を動かして一歩、また一歩と近づいていく。
「一体、どういうことだ」
間抜けな問いを一笑すると綾は堺から視線を逸らして、何もない虚空を見つめた。
「どういうことも何もないでしょ。妊娠したってだけでしょ」
「何故だ!?妊娠など」
「するわけがないって言いたいのかしら?」
男の言葉を先に奪う。
意味深に笑いながら男を見やると苛立ちを隠せない顔をして自分を見ていることに気づく。
だが、綾は笑い返した。
「だったらどうだって言うわけ?」
「誰だ!?俺とお前の間に…」
こともなげに言い返した綾に、男は声を荒げた。
掴みかからんばかりに荒立った男は、さぞかし滑稽なもののように映ったに違いない。
自分も同じことをしていたに過ぎないというのに、それを相手に許すことはできないなどとは、傲慢他ならない。
「子供なんてできるわけないわよね?そもそも、子供を作る行為そのものしてないんだもの」
「誰だっ!言え!」
「何で、言わなくちゃいけないの?」
「言えっ!!」
跳ね除けた綾の肩を掴んでがくがくと揺さぶる。
強い力に綾が悲鳴を上げる。
前後、左右問わず揺さぶられるのは、いい感覚ではない。
強すぎる力に身の危険すら感じる。堪らず、助けを求める声を上げた。
咄嗟に出た名前は、一番近くにいて欲しいものの名前。
「か…一哉っ!」
「誰だっ!誰の子だっ!!」
「一哉!一哉っ!!」
ただ、ひたすらに一哉の名を呼ぶ。
その甲高い声は、廊下の外まで響くほど大きな声だった。
東から綾に薬をと渡されていた一哉が、彼女の部屋に向かうために廊下を歩いていたところで綾の甲高い悲鳴が聞こえてきて慌てて部屋に駆け込んだ。
一哉が部屋に飛び込んだ瞬間、彼の視界に入ってきたのは、がくがくと体が揺さぶられ、男の手によって掴まれた衣服が綾の喉元を絞め、苦しげに眉根を寄せている姿だった。
「恥知らずなっ!何をしたか分かっているのかっ!よもや…私以外の男の子など冗談ではないわっ!!」
完全に自我を見失い相手を罵るだけに成り下がった男。
その姿を目にした瞬間、一哉は手にしていた盆の上に載っていた薬とグラスに入った水など気にすることなく床に落とすと、飛びつき堺を綾から引き剥がした。
グラスが床に落ち、割れる音と同時に水が零れる音がしたが、構ってなどいられなかった。
「何をしているんですかっ」
「う、うわっ!」
一哉の手によって引き剥がされた堺はバランスを崩して見事に床に尻をついた。
そんな男のことなど捨ておいて、一哉はソファに座る綾を気にした。
「大丈夫ですか?」
綾の顔を覗き込むようにして伺う。
彼女の一哉のシャツを掴む手に、力が籠められる。
「貴様!どういうつもりだっ!」
吼える男は無視をして、綾を落ち着かせるように背中をゆっくりと摩っていた。
綾は、一哉に隠れるようにして、男から逃げる。
「どういうつもりだ?ですか…」
床に尻をついたまま無様に声を張り上げるだけの堺に背を向けていた一哉だったが、相手を見ることなく低い声を発した。
そう口にした表情は、強張り、瞳は剣呑な色を宿していた。
切れそうな刃のような表情をしている一哉を彼が声を発したと同時に見上げた綾は見てしまい、息を飲んだ。
「か…一哉」
名を口にするが、ともすれば消え入りそうな弱々しい声だった。
一哉は綾には何の返事も返すことなく、ゆっくりと背後を振り返った。決して表情は和らげることはなく。
五月蝿いくらいに喚きたてていた堺は、一瞬にして押し黙った。
「どの口がそんなことを言うのか…。今、さっき何をしていましたか?」
突き刺すような声音。
冷たい視線。
ぞくりと背筋が粟立つ。
今にも人を殺めそうな凶悪な表情。
「何をしていたかと聞いてるんです」
あくまで口調は丁寧に、しかし、高圧的に――。
一哉の迫力に圧倒されて言葉も出ない。指一本動かせばそのまま取って食われると思い、動くこともできなかった。
明らかに怯えの色を見せ始めた堺を見ても、一哉は表情を和らげることはしなかった。
それどころか、綾から離れると一歩、また一歩と堺に近づいていく。
堺は、本能から距離を測ろうとして、尻をすりながら後ずさるが、歩く方が早いのは当たり前だ。
すぐに目の前に一哉が来てしまい、怯える他なかった。
威厳などあったものではない間抜けとしか言い様がない姿だった。
逸らしたいのに逸らせないと蒼白な顔で上から己を見下ろす一哉を見返すばかりの堺だったが、途中ではっとしたように大きく目を見開いてみせた。
「まさか…」
喉に絡みつくような声は、震えていた―。
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2008
Vizard (67)
自分の身に起こる事実を医師の口から告げられたときは、実感が湧かなかった。
その言葉を理解したときに訪れたのは、言い様の知れない喜びだった。
それは、後からあふれ出てきて留まることを知らないようだった。
これ以上嬉しいことはない。そう―体が、神経が、それを構成する細胞全てが告げている。
自分の中にいる自分ではない確かな存在を思って、しずかに手を寄せて瞳を閉じた。
いるのだ。
自分の子宮の中に、証が…。
口々にヒトの口から零れ落ちるように自分と同じように喜びを表す言葉が紡がれる。
いつもなら表情を変えない老婆ですら滅多に見せない笑みを張り付かせているのだから、他の使用人たちの驚きも当然のこと。
見慣れないものを見て喜びよりも驚きで目を白黒させた使用人たちに「ごほん」とわざとらしい咳払いと鋭い視線で咎めると彼らは、皆慌てたように顔を逸らしたものだ。
何にせよ喜ばしいことに変わりはない。
しかし、誰よりも喜んでいるのは、新たな命を―そして、愛しい男の子供を宿した彼女自身に違いない。
それを聞いた時、彼の体に戦慄が走った。
足のつま先から天頂を走りぬける雷光。
その正体は何か―。
他の者が感じたのと同様の主の吉報を喜ぶ歓喜の衝撃か―。
それとも、地の底からせりあがってくる恐怖の予兆か―。
それでも、目にした彼女があまりに嬉しそうに笑うから、何も言えなかった――。
自分の胸にあるぐちゃぐちゃとした感情を上手く言葉に載せることはできなかった。
にこやかに、雄弁にそして、流暢に話す父親の言葉を右から左へと聞き流す。
馬鹿馬鹿しいと鼻で笑いながら―。
目も合わせずにつまらなさそうな表情を隠すこともなく、ただそこに座っているだけだった。
場所が自分の部屋なれば、その自室に訪れた客である父親を置いてただ出ていくこともできまい。
出て行こうと思えば出て行けないこともなかったが、体がだるくてそんな気にはなれなかった。
聞くに堪えない話にただ聞いている振りだけを続ける。気を抜けば零れそうな欠伸をかみ殺した。
「それで、男か?女か?」
父親のその問いに綾は、彼の目に映らないように顔を背けて嫌悪の表情を浮かべた。
当然、返事も返さない。
聞いたのに何も言ってこない娘を怪訝に思った父親は、綾の前に回りこんできて、彼女の顔を覗き込むようにしてもう一度問う。
「綾?どうした?」
「いいえ、別に」
うんざりしながら綾は、また父親から顔を逸らした。
娘にそんな態度を取られた父親の顔には、深い皺を刻んだ。
「綾、聞いているのか?」
「うるさいなぁ…。もう」
つんとそっぽを向いて、頬を膨らませながら小さく不満を漏らす。子供が拗ねたような表情さながらだ。
娘の乱暴な言葉に険のある表情をした。
「男か、女かですって?そんなこと分かるとでも思ってるわけ?」
いつになく不躾な言葉遣いの綾。
苛立ちを隠せないように、父親に食ってかかる。
「性別なんてどっちでもいいわ。無事に産まれてきてさえくれれば…」
声のトーンを和らげて、愛おしむような手で己の腹部を服の上から撫でる。
その姿、眼差し、表情は母親そのもので―。
男は、娘の姿に目を瞠った。
記憶の中の断片を呼び起こされるようなその光景。
今はもういない。己が随分、昔に失くしてしまった者の姿が脳裏に浮かび、娘に重なる。
過去のものになり、消えていたはずの懐かしさと切なさを感じさせる既視感。
しかし、その姿は娘がうつむけていた顔をあげて自分を睨みつける瞳によって霧散した。
「そりゃあ、そうよね。お父様は、水原の後をついでくれる跡取りが欲しいんですものね」
皮肉たっぷりに告げられる言葉は、綾自身の恨みが籠められていた。
挑むように睨みつけ、そして口許は無理やり笑みを象るために筋肉が吊り上げられている。
「水原の後を継がせるためには、男じゃなきゃ意味がないんですものね。まぁ、たとえ女の子でもお父様ならその使い道を探してくれるかしら、どこかの企業のご子息を宛がって下さるのでしょうね。私にしたように…。水原のためなら、娘だろうがなんだろうが構わず道具として扱うくらいですから」
他者から言葉にされて始めて気がつくということは、如何に愚かしいことか―。
往々にしてそのような場合、気づいてももう手遅れであることが多い。
良かれと思って決め、強いたことに過ぎないのかもしれないが、相手に自分の意志が一字一句違わず伝わるかというと決してそのようなことはあり得ない。
寧ろ、伝わらないことがほとんどだ。
彼もまた、ご他聞に漏れず己の真意が娘に伝わっていないことを知った。
何故、自分の思いが娘に伝わっているはずだなどと思えようか。それこそ、彼女が聞いたらば、何を言いだすかと一蹴されかねない。
家のためなら、血縁者すらも相手に差し出す冷血漢と罵られたことにただ、ショックを受けるばかり。だが、恐らく彼女の言葉を否定するものは誰もいないだろう。
「お父様が大事にしているのは、水原で私の意志など関係ないのでしょう?」
「あ、綾…。そんなわけ」
「お父様が言ったんじゃない。私の役目は、あの男と結婚して、その子供を産む。忘れたとは言わせないわ。この子が男の子だったら私はその義務から解放されるのでしょう?だったら、ぜひとも男の子が産まれてきて欲しいと私も思いますわ。こんな家など守って一体なんの価値があるのかしら」
話口調こそ丁寧で、落ち着いているように見えるが、綾の頭は見た目ほど冷静ではなかった。
唇が言葉を紡げば紡いでいくほど、冷静さを欠き、常日頃溜め込んだ鬱憤を撒き散らす。
丁度、目の前にその元凶がいるのだからまだ成人を超えたはいいものの、幼さの抜けきらない彼女に抑える術などなかった。
頭で理解する前に勝手に口が動く。
突き動かしているものは、感情と嫌悪。それだけだった。
目を瞠って娘を見つめる。彼の中では、驚くばかりで上手く整理がつけられないでいた。
一体、己の目の前にいるのは誰なのか―。
娘とは思えなかった。
幼稚な我がままはいつものことだったが、それでも最終的に従順順に己の言うことを聞いていた娘とは…。
父親から顔を背け、冷たく淀んだ視線で睨みつける。
その瞳が何よりの答えだった。
―私は、あなたを許さないと…。
バンッッ―。
娘の反抗に彼が言葉を失い、呆然としていると突如として部屋の扉が激しい音を立てて開く。
突然舞い込んだ乱雑で、邪魔としか言いようのない音に室内で緊迫した空気の中にいた2人の視線がそちらへ向く。
血相を変えた男の姿。
顔は蒼白で、髪は乱れている。男の焦りが如実に現れているようだった。
見ようによっては、聞きつけて飛んで帰ってきた善き夫のように見えなくもないが、彼女は気づいていた。
決してそのような類のものではないと。
綾は、父親に向けたのと同様に男も睨みつけた。
2008
Vizard (66)
雪に埋もれた季節から、桜舞う季節を経て新緑鮮やかな季節へと移り変わり、雨の匂い漂う季節が訪れるまで後少し時間がかかるだろう。
日に日に日中の気温も上昇していき、まだ着慣れないスーツでは動きにくい上に蒸し暑いことこの上ない。
3月に高校を卒業して他に拘束するようなものもなく、今まで義兄に任せていた仕事が全て自分に回ってくる。
自動車免許を持たない彼は、車の運転だけはすることはできないが、それ以外の職務が肩にのしかかる。
面倒と言えば面倒以外の何物でもないのだが、仕方ないと思えるくらいの余裕はある。
いつもの時間になっても彼女は現れなかった。
主である水原 綾を待っていた草壁 一哉は、姿を見せない綾に首をかしげた。
同じように送迎のために出迎えに来ていた一哉の義兄である草壁 宗司を見やったが、彼も同じく不思議に思っていたのだろう首を横に振るだけだった。
「様子を見てきます」
兄に断って、一哉は綾の部屋へと向かう。
部屋の前で立ち止まるとノックして中からの返事を待つが、応えはなかった。
返事のない扉に怪訝な顔つきになり、ドアに耳を寄せて中の様子を探る。
厚みのある木の扉の向こうからは、人が動いている気配はする。しかも複数の―。
一哉の眉間にさらに深い皺が刻まれる。
もう一度ドアをノックしてみるが、またもや返事はなかった。
返事がないことを確認したあと、遠慮がちに戸を開いて中を確認する。
一哉が部屋の扉を押して顔を部屋に覗かせた瞬間に、すぐ間近にある老婆の顔にそこに人がいることは想像してはいても、流石に皺まみれの能面のような顔に驚愕し、体のバランスを崩しながら2、3歩後退した。
一方の老婆は、全く動じた様子を見せることもなく、じっと無感情の瞳で一哉を見据えると抑揚のない少ししわがれた声で告げる。
「本日は、お嬢様はお休みいたしますので、あなた方は結構です」
一哉の横を音も立てずに美しい所作ですり抜けながら告げる。
そう言われれば、気になるのは当然のことだ。
自分の横を通りすぎる東に尋ねた。
「何かあったのですか?」
「ご気分が優れないとのことですので、お休みしていただき、お医者様に見ていただきます。ご心配なく」
東からの答えを耳にしながら、一哉は室内に目を向ける。
彼女の言葉通り気分の悪そうな様子の綾がベッドに横たわる姿が視界に入ってくる。
「無礼ですよ」
咎められるような声にはっとして開けた扉を閉じた一哉だった。
それ以上、そこに留まる理由はない。
後ろ髪引かれる思いで、一哉はその場を後にした。
重厚なテーブルの上に置かれた電話がけたたましい音をたてて鳴る。
机に置かれた書類から目を上げて、受話器を取った。
会議前のために繋ぐなと秘書に申し渡したばかりだというのにものの数分立たないうちに鳴りはじめた電話のベルに眉間に深い皺を刻んだ。
苛立たしげに舌打ちをしながら、乱暴に受話器を持ち上げると声を荒げた。
しかし、すぐに機械ごしにもたらされた情報に深くかけていた椅子から音をたてて立ち上がる。
すぐに、歓喜の声が男の口からは零れ落ちた。
受話器を置くと、落ち着かない逸る足取りで部屋を出た。
そろそろ会議の時間だと告げようと部屋の前に立った男だったが、扉が乱暴に開きいつもの穏やかな表情とは打って変わって歓喜に満ち溢れた満面の笑みで現れた義父の姿に面食らったような顔をした。
約半年前に己の浮気―過ち―己、己だけでなく生家を案ずるなら決して知られてはならない事実を彼の娘に知られてからというものの男は、義父が苦手だった。
その目が怖かった―。
自分の行動を知られているのではないか―。
無言のうちに咎められているような気がしてならないのだ。
電話を受け取った後、意気揚々と部屋を出た男は、扉を開けた先に義理の息子である男の姿を見つけて深く笑みを刻むと満足そうに大きく何度も頷いた。
労うように肩をぽんぽんと叩かれるが、男の上機嫌の理由を知らない彼は不思議そうな顔をして首を捻ることしかできない。
だが、次の言葉によって義父の上機嫌の理由を知る。
「結婚3年目にして良くやったな」
「…はい?」
何のことを言われているのか分からずに聞き返すことしかできなかった。
余程、機嫌が良いのかにこやかに笑う男は豪快に喜びを体で表し、にこやかにそして高らかに告げる。
「先ほど、連絡があったんだがね。綾が妊娠しているというじゃないか。今、3ヶ月に入ったところだそうだ」
「…!!」
驚愕と疑問符だけが頭に残る。
がんがんと頭を何かで殴られたかのような衝撃が走る。
足が床に縫いとめられたかのように動けなかった。
ご機嫌な様子の男は、婿養子である彼の変化には気づかずに揚々と彼の前から姿を消した。
「これで、産まれてくる子が男の子だったら言う事ないがね…早々に綾は休学させることにしよう。何かあってからでは遅いからな。いやぁ、しかし、なんにせよ良かった。一時はどうなることかと思ったが、これで水原も…」
とまだ先にならなければ分からないことだというのに、早くもそんなことを言いながら、今まさに歌でも歌いだしそうなほど上機嫌な様子で去っていった。
対照的なのは、立ち尽くしたまま動けない男だった。
顔は青ざめ、目はぎょろりと剥き出しになったまま、今まさに聞いた言葉を反芻してはぶるぶると身震いした。
―ありえない…。
そう、ありえないのだ。
あってはならない。
それは――。
数ヶ月の後に産まれてくる子供は――。
妻と呼ばれるヒトの腹の中で日々、成長しているその新しい命は――。
己の子ではないのだから――。
2008
Vizard (65)
「そ…それは…っ」
翳すようにちらつかせるそれに顔を青ざめさせる。
綾の立ち位置からは、写真に写っているものは小さすぎてよく見えない。
堺の動揺に何が写っているのかと興味が湧き、目を細めてみるが、確認はできない。
「お分かりですか?」
「や…やめろ」
綾の立つ後方をちらりと視線で気にしながら、額に冷や汗を浮かばせて声を張り上げる。
だが、一哉は酷薄な笑みをさらにその整った配置の顔に深く刻んだだけだった。
その表情が物語っていた。
誰が止めてやるかと――。
「ふっ…」
「よ、よせっ!やめろっ!!」
「あなたの浮気調査の証拠とでもいいましょうか?こういう物的証拠があって初めて、相手を追い詰めることができるんですよ。今のあなたのように―」
静止の声も聞かずに薄く形の整った唇からは、追い詰める言葉が滑るように零れ落ちた。
堺の声に紛れはしたが、しかと綾の耳にも一哉の声は届いていた。
大きく見開いた目で取り乱す堺の背中を見つめた後、すぐに一哉を見た。
手にした写真は、堺に提示した写真の他にも数枚あるようだった。
「他の写真も?」
部屋の扉に一番近いところから聞こえてきた冷静な声に、2人の男は意識を向けた。
一人は、面白いことを聞いてくれる―と。
もう一人は、がばりと大きな所作で振り返り、動揺と己のしてきたことに対する脅迫観念によって歪んだ表情を綾に晒した。
「ええ。勿論、ご覧になりますか?」
「違う!!私じゃないっ!私であるはずが!!」
綾のいる方向を見つめたままみっともなく喚き散らす堺を背後で一哉は口許だけを歪めて笑い、綾は醜いものを見るもかのように険のある表情をした。
綾の表情の変化を平常心を失いながらも悟った堺は、みるみるうちに歪み、醜いものへと変化していく。
ふぅと大きく息を吐き出すと一哉は手にしていた写真へと目を落とすと呆れたような、妙に感心したように口を開いた。
「まぁ、こんな映りの悪い写真じゃ。そう仰るのは無理もないかと思いますけどね…」
「そ…、そうだ。馬鹿げている。私がこんなことするわけないだろう!私を嵌めようなど」
「では、こちらの写真ではいかがでしょうか?ああ。あなたの顔がよくわかる。…―失礼、私の仕事はお嬢様に仇なす者の排除なものですから、多少で過ぎた真似かとは思いましたが、知ってしまった以上、野放しにはできませんでしたので」
一哉の弁護というわけではないが、事実を口にしたまでの発言に食いつくようにして早口で捲し立てる堺の逃げ道を塞ぐように別の写真をちらつかせる。
「…!?…これは…」
つい先日の身に覚えのありすぎる写真に開いた口がふさがらない。
明らかに至近距離で取られた写真に震えが走る。
「ご存知ですか?その慌て様が何よりの証拠だということを…」
綾と2人だけになった部屋で写真をしまっていると部屋の戸口に立ったままだった綾が近づいてくる気配がしてゆっくりと顔をあげた。
寄り添うように立つと細く整えられた指で一哉の手から写真を取り上げた。
じっと写真を見つめた。
目で追いながらも眉ひとつ動かさない。ただの情報として捉えていることがわかる。
「今まで、ずっといなかったのコレの所為?」
透き通るような澄んだ声で落ち着いた様子で尋ねる綾を見て戸惑いを覚えつつも頷いた。
「そう…」
「…驚かないのか?」
「何に?驚く必要なんてないわ……。知っていたもの」
「知っていた?」
怪訝な顔つきで自分を見てくる一哉に気づいていたが、綾は彼に顔を向けることなく頷くことで返した。
「私が東を通じて依頼したところは、あなたほどに証拠は集められなかったけれど…」
くすりと小さな笑みを零して―。
東という彼女が信頼を寄せる老女の使用人を思い出して、己がその東から頼まれて街中にある事務所に遣いに出たときに受け取ってきたものを思い出す。
そして、その帰りに目撃したことにより堺に対して疑念を持った。
「まさか…あの時の」
「…?」
小さく口の中で転がすように呟いた一哉の言葉に怪訝な顔つきで横に立つ彼の顔を見返した。
「旦那様は…」
「知らないと思うわ。伝えたところで、あの男と離婚したところで子供がいない私には、次のお父様のお眼鏡に適う男と結婚させられる。水原のために…。冗談じゃないわ。あの男もお父様も許さない―。水原なんかなくなればいいんだわ。2人とも利用してあげる……」
眦を吊り上げ、恨みをたっぷりと籠めた暗い声音。
綺麗に整えられた親指の爪をぎりっと強く歯で噛みながら、綾は口にする。
俯いた顔で誰に聞かせるわけでもなく呟く綾を上から見つめながら、一哉の顔は苦悶するように苦渋の表情を刻んでいた。
彼女の心を支配するのもまた暗いものだ…。
己のものとどちらが深いか―。
そう考えて、だがしかし、すぐに考えることを放棄して、綾の口許に置かれた手を取り上げると突如握られた手首の強い力に驚く彼女などお構いなしに薄く開いた唇に己のそれを重ね合わせた。
すぐに綾は瞼を下ろし、与えられる甘い感覚を甘受した。
長い口付けの後、とさりと固いベッドの上に体が横たえられる。
――2人を止めるモノも、枷となるものは最早、何もなかった。
差し出されたものに老女はぴくりとこめかみの筋肉を動かした。
それでも動揺を悟らせることはしなかった。
「よろしいのですか?」
抑揚のない声で尋ねた彼女に、彼女の主たる若い女は、満面の笑みを浮かべ、大きく首を縦に振った。
翳りのない笑みを見たのは、何時からのことだろうか。
手渡された錠剤のシートと目の前の主人の顔を交互に見て、老女は頷いた。
「構わないわ。もう必要ないの…、処分して」
「左様でございますか」
「ええ」
「では、この経口避妊薬は処分させていただきます」
優秀な彼女は何も言わない。
全ては、主のため―。
彼女が望むのならばなんだってしよう。
2008
Vizard (64)
いつもなら外で待つ自分へと駆け寄ってくることもないのに―。
そんなにアレが戻ってきたことが嬉しいのかと悔しさを覚えて人知れず、隠すように拳を握った宗司だった。
だが、そんな思いも綾には届くことはない。
「早く帰りましょ」
と言われれば「分かりました」と頷くことしかできない。
悔しさと憤りを覚えても仕方のないことだ。無用の長物にしかならない―。
一日前とは打って変わって弾んだ様子を見せる彼女の願いをかなえるべく、アクセル踏むことしか宗司にはできなかった。
屋敷へと送り届けた後も、宗司が運転席から降りて扉を開ける時間も惜しかったのだろうか。自分で後部座席のドアを開けるとそのまま屋敷の中へと入っていってしまった。
遠ざかる綾の後姿にやりきれなさを隠せない宗司の落胆のため息が届くことはなかった。
出迎える使用人への挨拶もおざなりに、綾は真っ直ぐにある部屋へと足を向けていた。
しかし、彼女が向かおうとした部屋はまるで通りかかる人を誘うかのように扉が開けっ放しになっていた。
開いたままの扉を認めた瞬間に、綾は怪訝な顔つきになり、眉間に皺を寄せた。
嫌な予感のようなものを綾は咄嗟に感じた。
また、いなくなっていたら―。
そんな筈はないと言い聞かせながら…。
急ぎ足で扉に近づいて部屋の中を確認した綾は、その空間でにらみ合う―綾の立ち位置からは自分に背を向ける男の顔は確認できなかったが、はっきりと愛しくてならない存在―一哉の顔だけは確認できた。
ひらひらと舞い落ちる紙を足で踏みつけて、もう二度とあんな冷たい瞳で見られたくないと思うような冷酷な色を宿した瞳で自分ではなく、自分に背を向ける堺に向かって身も凍りそうなほど冷え冷えとした声音に意志を載せる。
「あなたも本当に救えない人ですね…」
「なっ…!?」
絶句して身を屈める堺。
目の前の男が、堺であると綾が認識したのは男の声を聞いたときだった。
夕方とは言え、何故こんなに早い時刻からここにいるのかと綾は、本来はここにいるはずのない人物の姿に危ぶんだ。
そして、暗い一面を隠すことなく見せ付けるような言動をする一哉にも…。
しかし、綾がそれを問うことはできなかった。
一哉は、途中から綾が入ってきたことに気づいていた。
一方の堺は、完全に冷静さを欠いていて背後の様子まで気に留めていられるほどの余裕は持ち合わせていなかった。
彼の一番の注意は、一哉によって踏みつけられ、ぐしゃりと不自然な皺を刻んでいる紙だった。
たとえ、気づいていたとしても綾に対して上手くこの場を乗り切ることができたかどうかは定かではないが…。
「わざわざ、事前に報告してくれるなんて愚行の極みとしか言いようがありませんね」
くすくす笑う一哉。
「こういうことは本人の預かり知らぬところで動くから最大限の効果を発揮するんですよ?知りませんでしたか?」
「貴様…。まだ立場が分かっていないようだな…。このことを私がお義父さんに知らせたら、お前のような薄汚い男娼風情は即刻排除される。そんな奴を排出し、あまつさえこの水原に仕えさせた草壁家とてただでは…」
男がぎりぎりっと歯軋りをしながらも自分に分があるというように勝ち誇ったように宣言する間も一哉はくつくつと笑い続け、終いには耐え切れなくなったかのように声をあげて笑いはじめた。
そんな一哉の様子を不自然に思うのは当然のことだろう。
ぴたりと黙って不思議なものでも見るかのように一哉を見つめる男に、笑い声混じりに告げた。
「草壁の家の人間がどうなろうと関係ない。寧ろ、感謝しますよ。どうぞお好きなように如何様にでも…いっそのこと二度と這い上がってなどこれないように地獄の底にでも徹底的に沈めてもらいたいものですけど」
とても身内に対する態度とは思えない一哉の様子に呆気にとられたようにぽかんと口をあけて見つめた。
それは、綾とて例外ではなかった。
暗く凄惨な表情は、見るものに恐怖という感情をありありと伝える。
知らず知らずのうちに背筋があわ立ち、一歩後ずさった。
「私のことも…できるものならやってみてください。ただし、やるからには、覚悟と責任を持てと忠告致します。自分だけが武器を手にしたと思わないで頂きたい」
そう宣言しながら一哉は堺から顔を背けながら机に近づき、無造作に置いてあったものを手にした。
「第一、文面だけの報告書など稚拙なところも甚だしい。証拠になりゃしない。確固たる証拠がなければ、人は信用しませんよ。旦那様ほどの人ならば尚のこと」
薄ら笑いとともに一哉は、告げると自分が手にした封書から持ち帰った写真を手に取って、もう一度確認して、口角を大きく持ち上げた。
一哉の手にしているものが写真らしきものではあると分かっても、それが一体何を写したものであるか知らない堺は、怪訝な目つきでそれを手にして満足気に笑う一哉を見ることしかできない。
一哉は、ふいっと顔をもう一度、堺のほうへと向ける。
一度は外れた視線がまた自分へと戻ってきたことに堺は、緊張を覚え、自然と体を強張らせたが、すぐに2つの目が自分を見ていないことに気づき眉間に皺を寄せた。
一哉は、堺の方へと向けた顔で、さらに彼の後ろにいた綾を見ていた。
自分が見つめられていることに気づいた綾は、ごくりと喉を嚥下させた。
「扉を閉めてもらえますか?」
言われるままに一番ドアの近くにいた綾が扉を閉めた。
一方、動くことができなかった堺は、綾が閉めた扉の音にはっとしてがばっと背後を振り返った。
そこで初めて、綾の存在に気づいた堺だった。
驚愕に見開いた表情で難しい顔つきで自分を睨みつける綾を見つめることしかできなかった。
まるで親の仇でも見るような鋭い瞳。
しかし、堺が驚いている時間など一哉は与えなかった。与えるはずもなかった。
「…ぁ…」
「少しは、周囲にも気を配ったらどうですか?」
ひらひらと写真を翳して見せる一哉に、舞うそれを確認した堺は目をこれでもかと見開き、大きく開いた口は戦慄き意味のない言葉を羅列するばかりだった。