更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (67)
自分の身に起こる事実を医師の口から告げられたときは、実感が湧かなかった。
その言葉を理解したときに訪れたのは、言い様の知れない喜びだった。
それは、後からあふれ出てきて留まることを知らないようだった。
これ以上嬉しいことはない。そう―体が、神経が、それを構成する細胞全てが告げている。
自分の中にいる自分ではない確かな存在を思って、しずかに手を寄せて瞳を閉じた。
いるのだ。
自分の子宮の中に、証が…。
口々にヒトの口から零れ落ちるように自分と同じように喜びを表す言葉が紡がれる。
いつもなら表情を変えない老婆ですら滅多に見せない笑みを張り付かせているのだから、他の使用人たちの驚きも当然のこと。
見慣れないものを見て喜びよりも驚きで目を白黒させた使用人たちに「ごほん」とわざとらしい咳払いと鋭い視線で咎めると彼らは、皆慌てたように顔を逸らしたものだ。
何にせよ喜ばしいことに変わりはない。
しかし、誰よりも喜んでいるのは、新たな命を―そして、愛しい男の子供を宿した彼女自身に違いない。
それを聞いた時、彼の体に戦慄が走った。
足のつま先から天頂を走りぬける雷光。
その正体は何か―。
他の者が感じたのと同様の主の吉報を喜ぶ歓喜の衝撃か―。
それとも、地の底からせりあがってくる恐怖の予兆か―。
それでも、目にした彼女があまりに嬉しそうに笑うから、何も言えなかった――。
自分の胸にあるぐちゃぐちゃとした感情を上手く言葉に載せることはできなかった。
にこやかに、雄弁にそして、流暢に話す父親の言葉を右から左へと聞き流す。
馬鹿馬鹿しいと鼻で笑いながら―。
目も合わせずにつまらなさそうな表情を隠すこともなく、ただそこに座っているだけだった。
場所が自分の部屋なれば、その自室に訪れた客である父親を置いてただ出ていくこともできまい。
出て行こうと思えば出て行けないこともなかったが、体がだるくてそんな気にはなれなかった。
聞くに堪えない話にただ聞いている振りだけを続ける。気を抜けば零れそうな欠伸をかみ殺した。
「それで、男か?女か?」
父親のその問いに綾は、彼の目に映らないように顔を背けて嫌悪の表情を浮かべた。
当然、返事も返さない。
聞いたのに何も言ってこない娘を怪訝に思った父親は、綾の前に回りこんできて、彼女の顔を覗き込むようにしてもう一度問う。
「綾?どうした?」
「いいえ、別に」
うんざりしながら綾は、また父親から顔を逸らした。
娘にそんな態度を取られた父親の顔には、深い皺を刻んだ。
「綾、聞いているのか?」
「うるさいなぁ…。もう」
つんとそっぽを向いて、頬を膨らませながら小さく不満を漏らす。子供が拗ねたような表情さながらだ。
娘の乱暴な言葉に険のある表情をした。
「男か、女かですって?そんなこと分かるとでも思ってるわけ?」
いつになく不躾な言葉遣いの綾。
苛立ちを隠せないように、父親に食ってかかる。
「性別なんてどっちでもいいわ。無事に産まれてきてさえくれれば…」
声のトーンを和らげて、愛おしむような手で己の腹部を服の上から撫でる。
その姿、眼差し、表情は母親そのもので―。
男は、娘の姿に目を瞠った。
記憶の中の断片を呼び起こされるようなその光景。
今はもういない。己が随分、昔に失くしてしまった者の姿が脳裏に浮かび、娘に重なる。
過去のものになり、消えていたはずの懐かしさと切なさを感じさせる既視感。
しかし、その姿は娘がうつむけていた顔をあげて自分を睨みつける瞳によって霧散した。
「そりゃあ、そうよね。お父様は、水原の後をついでくれる跡取りが欲しいんですものね」
皮肉たっぷりに告げられる言葉は、綾自身の恨みが籠められていた。
挑むように睨みつけ、そして口許は無理やり笑みを象るために筋肉が吊り上げられている。
「水原の後を継がせるためには、男じゃなきゃ意味がないんですものね。まぁ、たとえ女の子でもお父様ならその使い道を探してくれるかしら、どこかの企業のご子息を宛がって下さるのでしょうね。私にしたように…。水原のためなら、娘だろうがなんだろうが構わず道具として扱うくらいですから」
他者から言葉にされて始めて気がつくということは、如何に愚かしいことか―。
往々にしてそのような場合、気づいてももう手遅れであることが多い。
良かれと思って決め、強いたことに過ぎないのかもしれないが、相手に自分の意志が一字一句違わず伝わるかというと決してそのようなことはあり得ない。
寧ろ、伝わらないことがほとんどだ。
彼もまた、ご他聞に漏れず己の真意が娘に伝わっていないことを知った。
何故、自分の思いが娘に伝わっているはずだなどと思えようか。それこそ、彼女が聞いたらば、何を言いだすかと一蹴されかねない。
家のためなら、血縁者すらも相手に差し出す冷血漢と罵られたことにただ、ショックを受けるばかり。だが、恐らく彼女の言葉を否定するものは誰もいないだろう。
「お父様が大事にしているのは、水原で私の意志など関係ないのでしょう?」
「あ、綾…。そんなわけ」
「お父様が言ったんじゃない。私の役目は、あの男と結婚して、その子供を産む。忘れたとは言わせないわ。この子が男の子だったら私はその義務から解放されるのでしょう?だったら、ぜひとも男の子が産まれてきて欲しいと私も思いますわ。こんな家など守って一体なんの価値があるのかしら」
話口調こそ丁寧で、落ち着いているように見えるが、綾の頭は見た目ほど冷静ではなかった。
唇が言葉を紡げば紡いでいくほど、冷静さを欠き、常日頃溜め込んだ鬱憤を撒き散らす。
丁度、目の前にその元凶がいるのだからまだ成人を超えたはいいものの、幼さの抜けきらない彼女に抑える術などなかった。
頭で理解する前に勝手に口が動く。
突き動かしているものは、感情と嫌悪。それだけだった。
目を瞠って娘を見つめる。彼の中では、驚くばかりで上手く整理がつけられないでいた。
一体、己の目の前にいるのは誰なのか―。
娘とは思えなかった。
幼稚な我がままはいつものことだったが、それでも最終的に従順順に己の言うことを聞いていた娘とは…。
父親から顔を背け、冷たく淀んだ視線で睨みつける。
その瞳が何よりの答えだった。
―私は、あなたを許さないと…。
バンッッ―。
娘の反抗に彼が言葉を失い、呆然としていると突如として部屋の扉が激しい音を立てて開く。
突然舞い込んだ乱雑で、邪魔としか言いようのない音に室内で緊迫した空気の中にいた2人の視線がそちらへ向く。
血相を変えた男の姿。
顔は蒼白で、髪は乱れている。男の焦りが如実に現れているようだった。
見ようによっては、聞きつけて飛んで帰ってきた善き夫のように見えなくもないが、彼女は気づいていた。
決してそのような類のものではないと。
綾は、父親に向けたのと同様に男も睨みつけた。
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