vizard (81)
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2009
vizard(84)
水原のもとに差出人無記名の不気味な封筒が届いてから翌日の夜。
一晩を置いたお陰もあってか、昨夜ほどの怒りを露呈させることはなかったが、水原の周囲からは不穏な空気が漂っていた。
その所為か、水原の屋敷内は緊迫した雰囲気が漂っていた。
使用人たちは互いに目配せし合い、注意を払っていた。
この空気の中で落ち着いていたのは、一哉と綾の2人だけだったのかもしれない。
一番、落ち着かないのは仕事がまだ残っていたにも関わらず、家へ来るように言われた堺だろう―。
何故か、いつも以上に人の視線が体にささるのだ。
昨夜の段階で、使用人たちには水原が受け取った郵便物の中身が知れ渡っている。
この屋敷内で知らないものがいるとすれば、それは堺だけに違いない。
涼しい顔で父親の傍らに立つ綾を見ても答えなど分かるわけもなく、ただ静かに怒っているであろう水原を伺いみることしかできなかった。
「申し訳ありません。遅くなりました」
緊迫した雰囲気の中、誰も口を開こうとしないまま、いや、開けないまま時間だけが無為に過ぎていったのだが、その緊迫した雰囲気を打ち破るように一哉が姿を現した。
一哉の姿を視界の端に捉えた瞬間に本能的に堺は、頭の片隅で警鐘が鳴るのを感じた。
「いい。それで?」
「はい。全て事実でございました」
「そうか」
「よろしければこちらをどうぞ」
自分の側に立ち、一哉の口から語られる自分の問いに対する答えを静かに聴きながら、水原はゆっくりと頷いた。
一言おいて、一哉が差し出したものには、さして興味も示す事がなく、「良い」と一言で遠ざける。
もう、見る必要もないと判断したのだろう。
ゆっくりと水原は、堺に視線を向けると一言、単調に命じた。
「出て行け」
突如として言われた言葉に、堺は呆気に取られたような顔をして、水原を見返した。
呆けた顔をして自分を見てくる憎らしい娘婿を視界から追い出すように水原は顔を背けると、一哉の後ろに立っていた使用人に命じる。
「あれを」
「かしこまりました」
言われるままに一礼をすると命じられた使用人が、堺の側までいき手にしていたものを広げ机の上においた。
「こちらにサインを」
そう言いながら彼女が指し示したのは、離婚届だった。
既に、綾のサインはされていた。
ぎょっとして、目を見開く堺。
一体どういうことかと下を見ていた顔をがばっと上げ、水原の顔を見た。
「…これは…」
掠れた声で問う堺を、水原はふんっと鼻息だけを返した。
代わりに答えたのは、水原の側い控えていた一哉だった。
「ご覧になってお分かりになりませんか?離婚届ですよ。堺さま」
口調は丁寧だが、どこかぞんざいな感じのする一哉にかっとなった堺は、それを命じたのが水原だということも忘れて、机を叩きつけて立ち上がった。
「貴様、どういうことだ!」
「…厭きれたお方ですね。それを差し出したのは、私ではなく、旦那様ですよ。それは、旦那様に向けた言葉と取られても仕方ありませんね」
冷静な一哉に指摘されて、堺はぐっと息を飲んだ。
視界の隅に映る水原の顔を見ると、彼は怒りを湛えた瞳で自分を見ている。
そうこうしているうちに、一哉がすぐ側まで歩みよってきて、堺の前につい先ほど、水原に差し出そうとしていたものを渡してきた。
恐る恐る手にとり、中身を確認する堺の顔は、徐々に青ざめていった。
そして、きっと一哉の顔を睨みつけた。
「貴様…」
「昨日、旦那様宛てに差出人不明の郵便物が届きましてね。開封して、中身をご覧になっていただいたところ、あなたの不貞の履歴が事細かに書かれていたそうです。私は、旦那様にご要望で事実確認をしたまでです。ご自分の不手際を私の所為にされても困ります」
「何を言うか!こんなことするのがお前以外のどこにいる!?」
自分の不徳のなすところを他人の所為にする男の性根にますます水原の怒りのボルテージが上がっていっていることなど男は気づかずに一哉に罵詈雑言をぶつける。
それも、一哉の手の内だったのかもしれない。
水原の不興を買うだけ買えばいい。
そうすれば、水原は男を絶対に、許しはしないし、その後の処分も完膚なきまでに叩きのめしてくれるに違いない。それを知っていたからだ。
「黙れっ!堺。貴様はとっとと言われたままにサインをして、この家を出て行け!私の娘をよくもこけにしてくれたもんだ。只で済むと思うな」
我慢の限界が来た水原が堺を一喝した。
青ざめた顔で、汚い言葉で一哉を罵っていた堺だったが、水原の迫力に言葉を飲み込んだ。
対照的に、笑っていたのは一哉だった。
言いたいことはまだある。
しかし、水原が堺にそれを許さなかった。
「ま、待ってくださいっ!これは、何かの嘘で」
「みっともない。不快だ。この男にサインをさせて、とっとと追い出せ。いいな」
食い下がろうとした堺を見ることも無く、居合わせた使用人たちに命じるとさっさと自室に引き上げる水原だった。
彼とて鬼ではない。
素直に堺が認め、謝るならば、離婚は免れないとしてもその後の処分は寛大にしようとしていたのだが、それは、堺が一哉を罵ったり、自分のしたことを認めようとしなかった浅ましい言動によって水原の気は180度変わってしまった。
娘と離婚させて、追い出すだけでは飽き足らない。
何で、こんな男と娘を結婚させてしまったのだろうか。
嫌がっている娘の言葉も聴かず、自分が正しいのだと押し付けたことがまざまざと彼の脳裏を過ぎる。
堺に対する怒りと綾に対する罪悪感が彼の心を支配していた。
その夜は、とても眠れそうになかった。
「お送りしろ」
水原の命じた通り、離婚届にサインをさせた後、一哉は近くにいる男の使用人数名に命じて、彼の体を家から出した。
「貴様!謀ったなっ!」
外に放り出された後、一哉は他の使用人たちに下がれと命じて、堺と2人きりになった。
悔しそうにぎりぎりと奥歯が音が鳴りそうなほど噛み締めながら怒号を吐く、男の言葉を涼しい顔で受け流した。
「失礼な。言いがかりもよして貰おうか。きちんとした事実だろう?」
「何を。お前達の方こそっ」
一哉と綾のことに触れようとした男に、一哉は鋭い眼光をくれてやると堺は、自然と体が竦み口を閉ざした。
「最後に、変な欲を出しすぎたな」
暗く淀んだ瞳と地を這うような低い声は、とても見た目からは想像できない。
何度見ても見慣れない。
「怜迩を狙ったのがお前だということは分かっている。その時点で、貴様の運命は決まっている。楽に死ねると思うなよ」
ぶるりと体の芯から震えるような脅し。
それと同時に、男は自分の計画が目の前の男に知れていたことを知り、愕然とした。
絶対に知られてはいないと思っていた―。
「残念ですね。もうちょっと賢いかと思っていたんですけど」
にっこりと秀麗な笑みを浮かべて悪辣な言葉を吐き捨てた。
笑っているはずなのに、どこか寒々しく、恐ろしさを相対した人間に抱かせるそれ。
だが、次の瞬間には、180度全く異なる表情を見せる。
「ただの欲にまみれた能無し男だったと言う訳だ。水原の人を見る目もたかが知れてるな」
吐き捨てるような己が主人を軽蔑するような言葉に堺は、もう既に何も言えなかった。
否、言ったら殺されるような気がしたのだ。目の前の冷たく無情な男に―。
人であって人でないような男に―。
こうして、その翌日水原 綾と堺 正一の離婚が成立した。
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2009
vizard(83)
呆気なく男の幕は降りた―。
その影で笑う者が2人。
「面白いものが手に入ったんだけど。興味ない?」
そう告げた女の唇には、毒々しい色の紅が引かれていた。
何とはなしに、一哉は女の手を取った。
「くだらないものだったら、殺すぞ」
「おーこわっ」
わざとらしく体を2、3度横に揺らした女を吐き捨てるように「似合わない」と一蹴すると一哉は吸いかけの煙草を口に戻した。
紫煙を深く肺に吸い込みながら、女の言葉を聞き流していた。
「最近は、大人しくなったって噂で聞いたのに全然じゃない」
「噂なんて信じる奴はクソだな」
女の方を見ることもなく、何もない空間をぼうっと見ながら体内に溜まった煙を出し、宙の中で好き勝手に舞い、やがて消えていくのをただ見つめていた。
自分を見てくれることない男に、女は焦れたように男の顎を掴み自分の方に向かせた。
「その口の汚さも相変わらずね。好きよ」
にっこりと笑いながら顔を近づけていく。
だが、すぐに男によって手は振り払われ、顔は背けられた。
いっそのこと憎らしくも思える男の態度。
むっとしつつも、しつこく言い寄ると手痛い仕返しが待っているのを女は長年の付き合いで知っている。
「お前の好意なんかクソ食らえだ。さっさと寄越せよ」
「急かす男は嫌われるわよ」
嫌味を籠めて口にするものの、相手に全く効き目はなかった。
「ふんだ。お前に好かれるほうが死にたくなるね」
「全く、憎らしいところは相変わらず。ほら、絶対泣いて喜ぶわよ」
これ以上、駆け引きをしても無意味だと悟った聡い女は、手にしていたものを渡した。
一哉は、受け取りながら鼻で笑ってみせた。
「はっ。どうだか」
憎まれ口しか叩かない年若い青年の表情の変化をいまかいまかと待ち望んで、一哉の動きを小指一本も見逃すまいと見つめてくる中、自分へと注がれる視線にも頓着することなく、受け取った茶封筒の中に入っていたものに目を通す。
ざっと目を通した後、女を横目で見る。
すると女は、したり顔で笑うだけだった。
そして、唇の動きだけで「どう?」と勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
ふんっと鼻を鳴らして、一哉は座っていたスツールから立ち上がると銜えていた煙草を灰皿に置き、一言女に残して姿を消した。
「流石」
それだけで、女は十分だったのかもしれない。
ふふっと毒々しい唇の端を持ち上げて見せた。
灰皿に残されたたった今まで一哉に吸われていたまだ、火のついたままの煙草を銜えるとゆっくりと煙を吸い込んだ。
「どうしたの?嬉しそうな顔して」
どこかへとふらふらと出かけていったと思ったら、早く戻ってきた一哉を見つけて綾が問う。
綾の問いに一哉はただ、口の端を持ち上げただけで「わかる?」と聞いた。
「分かる?って。分かるに決まってるじゃない」
「仕方ないな…」
とだけ言うとおもむろに綾の唇に自分の唇を重ねた。
どちらからともなく、自然と深くなるそれ。
かさりと音をたてた、紙の音によって邪魔をされるまで続いた。
2人の間に挟まれたそれに綾の視線が自然と向く。
2人の唾液で濡れた綾の唇を親指で拭ってやりながら、彼女の視線の注がれているそれに気づく。
「ああ、これ?」
「何?」
「宝物」
曖昧な表現をする一哉に綾の顔がはてなをいくつも刻む。
それを、可笑しそうに笑いながら、一哉は彼女の前から姿を消した。
その後姿を見送りつつ、やっぱり何か様子が変だと思いながらもまぁ、愉しそうだかあいいかと気にしないようにした綾だったが、数日のうちに一哉が宝物と称したものの正体を知ることができた。
それを渡されたときの水原と言ったら、目を当てられたものではなかった。
鬼のような形相で、今にも火を噴きそうなほど赤く、怒りの様相を呈していた。
それは、今まで綾が見たこともない父の姿だった。
唯一の救いは、張本人である男の姿がないことか。
無記名で投函されたそれは、堺の不貞を示すもの。
過去のものから、つい最近、愛人関係にあった女との間に子供が産まれたことまで、事細かに克明に記述されていた。
差出人不明のものだけに、事実確認が取れてないもの故に、宛名の書かれた水原に差し出すことに使用人たちは戸惑いがあったものの、もし隠していて、後で知れたらということを考えると恐ろしかったので、水原に開封を依頼したところ、このような事態になってしまったのだ。
その場に居合わせた者たちは、水原の怒りにひっと息を飲み、微動だにできなかった。
ただのいたずらと一蹴できないほどの詳細に記述されたそれ。
まるで、確かめろとでも言うように事実確認がしやすいように相手の情報まで詳細に書かれていたり、恐らく音声でも入っているのだろうテープや写真の存在が少なくとも全くのでっちあげであるということを否定している。
机にそれらをぶちまけた後、水原は怒り抑えてはいるが怒気が滲み出た声で近くにいたものに命じる。
「草壁…。一哉を呼べ」
部屋でゆっくりとした時間を過ごしていた一哉は、水原の命によって自分を呼びにきた使用人を見て、かかったと顔では怪訝な顔つきをしつつもほくそ笑んだ。
そうだ。
水原の怒りの発端である封筒は、一哉が投函したものだった。
数日前に女から受け取った、堺の浮気の情報をもとに、一哉がもう一度自分の手で調べ直したものを纏めただけのもの。
それには、過去に堺の弱みを握るために調べた過去の浮気の証拠も盛り込んだ。
そして、一番に水原の怒りを買ったのは、最近産まれた赤子の存在だろう。
今頃、怒り心頭だろうにと思いながら、いつもと変わらない足取りで自分を呼び出した男のもとへ行く。
自分の想像に難くない、寧ろ、想像以上の怒りを秘めた男の姿を見て、勝ちを確信した一哉だった。
「旦那様、お呼びですか?」
「これを調べろ」
見るのも汚らわしいというように手にしたものを見ることもなく、一哉に差し出す。
一哉は、片方の眉をわざとらしく持ち上げながら、その自分が用意した数枚の紙を受け取る。
「明日までには、全てお調べ致します」
「頼む」
一礼をして部屋を後にした一哉は、零れてくる笑いを堪えながら、自室に戻った。
戻った後は、机の上に用済みとなった紙を放り投げると机の引き出しから次に、水原に見せるべきものを数点用意した。
それらは、水原に言われるでもなく準備がし尽くされていた。
この家から、堺を追い出すための道具だ。
水原の様子では、堺は無事には済まないだろう。
悉く、救えない男だと零れてくる笑いが止まらない。
自分の快楽によって自分の身が滅ぼされる―。
これ以上ない、ショーが明日には見られるに違いない…。
2009
vizard (82)
「な、何でよ!?」
取り乱したように、綺麗にセットされたゆるく波を打つまとまった髪を掻き毟り、綾は声を荒げた。
指が入った髪はぐしゃぐしゃに乱れていた。
分からないということを示す綾だったが、その答えは至極簡単だったのだ。
「簡単だ」
「え…」
一哉のはっきりとした声音に綾が、ふっと彼を見た。
簡単とはどういうことか―。綾には分からなかった。
いくら考えても分からないのだ。
相手は、自分たちに弱みを握られて、こちらの様子を伺いながら生活しなければならないということを強いられているというのに―。
何故、自分たちを怒らせるようなことを…。
「怜迩がいなくなれば、誰が水原を継がなくてはならない?」
「…あいつよ」
唇を噛みながら答える綾に一哉はゆっくりと鷹揚に頷いた。
「そうだ。怜迩が着くまでの繋ぎじゃなく、水原を正真正銘自分のものにできる。多少、短絡的すぎるところは否めないがな」
「でも、急に怜迩がいなくなったら、疑われるのは、あいつじゃない。一番、得した人間が疑われるのは定石じゃない」
捲くし立てるように詰め寄り、綾が訴える。
彼女の言う事も間違っていない。
しかし、今回は相手も入念に考えていたようだ。
「そのために、今回は無い頭を絞ったようだ」
一哉は、酷薄な笑みを浮かべながら、相手を卑下するような言葉を吐いた。
その一哉の言葉に綾は怪訝な顔をして見せた。
「何?」
「まず、自分で手にかけようとはしなかったところだな。実行犯は、伊達の同僚だ」
じっと綾の顔を見据える。
綾は、先ほど会ったばかりの青年の顔を思い出した。
「何それ…。伊達は…?」
綾の問いは尤もだろう。
一哉とて抱いた疑念だ。
それには、ゆっくりと首を振って見せると綾は安堵したように息を小さく零した。
「伊達は、無関係だ」
「そうよね…」
「話を戻すが、あいつは、実行犯と自分の間に数名人を挟んでいる」
そんな面倒なことをしているところが本気の度合いを表しているといって過言ではないだろう。
一哉は、山崎から堺に行き着くまでに時間を取られてしまい、帰ってくるのが思いのほか遅くなってしまったのだ。
山崎を吐かすことにそう苦労はしなかったが、彼から出てきたのは、一哉自身が全く把握していない者だったのだ。
狙いも掴めやしない。
そんなことで納得することもできずに、動きまわっていたのだ。
そして、堺に行き着いたという訳だ。
今回の騒動の背後に堺の存在を知った時の一哉は、沸々と腹の底から湧いてくる怒りを静めるのに苦労したくらいだ。
見破れなかった自分と幼い怜迩を狙った悪質な男に―。
「あいつまで辿り着くのに苦労したさ」
先ほどからずっと驚きっぱなしの綾に肩を竦めて見せる。
「冗談じゃないわ。お父様に言って―」
ふっと口許を歪めた一哉を見て、綾ははっとしたようにそう告げると彼に背を向けようとする。
だが、すぐに一哉が手を伸ばして彼女の右手を掴み、止めさせた。
「待て」
「何で、止めるのよ!」
声を荒げて、綾は掴まれた腕を振りほどく。
彼女の怒りは尤もかもしれない。
だが、すぐに真剣な一哉の目とぶつかり、それ以上何も言えなくなってしまった。
「今回は証拠が揃ってない」
一哉が取ってきたのは、証言に過ぎなく、しかも聞いているのが一哉だけということはそれだけでは証拠とは言い難いのも事実だ。
何一つ間違ったことは言っていない。
確かに、それだけではとても自分の知る父親が納得するとは思えない綾だった。
悔しそうに唇を噛み締めた。
「そんな。じゃあ、このまま黙って見過ごせと言うの?」
「まさか」
「どうするの?」
という問いに、一哉は彼女から目を逸らし、顔を俯けて、長く、そして重い息を吐き出した。
不安気に揺れる瞳で一哉を見つめる綾。
答えをじっと待つ。
しかし、この時点で一哉は何も策がなかった。
瞳を閉じて、何か思案を続けた後、顔をあげる。
「…あの男の執着心は買っていたんだけどな。飼い犬に噛まれるような真似、嫌いなんだよな。そろそろお役御免願おうとするか。もう少し利用価値のある男だとは思ったんだけどな」
―少なくとも水原の当主が死ぬまでは持ってくれると思っていた俺の見込み違いだったようだ。
とは、綾の手前、口にすることはなかったが、口にした言葉に続けて心の中で呟く一哉だった。
急に何を言い出すのかと綾は、ますます眉間に皺を寄せて意図の読めない一哉の顔を見つめた。
「一哉?」
その自分を呼ぶ綾の声に反応するかのように一哉は、綾の顔をもう一度見つめると、殊の外明るい声で告げる。
「少し時間はかかるかもしれないが…排除する。危険な邪魔者は消えてもらおう」
それを聞いた瞬間に綾の顔はぱあっと日がさしたように明るくなる。
「今回のことは、証言だけだから、証拠とは言い難い。確固たる証拠がないのを旦那様は嫌うだろうしな」
と言って、顎に手を置き、何かを考え始めた一哉だった。
この時点で、綾には何もすることがない。
いつだってそうだ。
一哉に任せておけば、事は全て上手くいく。
抜けられない会議があったために、連絡を受けた後にすぐにでも家に帰りたかった水原だったが、曲がりなりにも1つの会社を運営する男だ。その位の分別は持っていたようだった。
周りがひやひやするのを余所に、会議が滞りなく終了するのを待って、水原は自宅へと帰った。
そして、怜迩が無事であるのを彼自身の目で確認した後、怜迩の命を奪おうとした男の社会的抹殺が命じられた。
一哉が手を下すまでもなかった。
怜迩のことが水原に伝えられたその会議に、堺も出席していたのだが、彼はその話を聞かされた時、自分の計画が失敗したことを悟り、人知れず机の下で拳を握り、自分が命じた男への怒りをそこにぶつけた。
警戒に警戒を重ね、間に数人の人間を挟んだことによってまさか、自分までは行き着くことはないだろうと楽観視をしていた男は、今度はもっと頼れる人間を使って計画を一から練り直さなくてはと暗く淀んだ野心を燃やしていた。
今度は確実にするために―。
一つ、幸せだったは、自分に残された時間がそれほど多くないということに彼自身が気づいていなかったというところだろうか。
2009
一哉が山崎を連れていくために車を使ったために、移動手段の無かった伊達は、事態の収拾をはかった後、帰るには公共の交通機関を使うしかなかった。
そのため、屋敷に着くまでにさらに時間が掛かってしまった。
やっと着いたと思い屋敷の門をくぐる。
「ただいま、戻りました」
動き回った故の肉体的疲労の所為か、慕っていた男がまさか自分の仇なす人間だと知った故の精神的疲労の所為かいつものように帰りの挨拶を告げた声音は、自分のものとは思えぬほどに疲れきったものだった。
扉の開いた音に誰かが気づいたのだろう。慌しく自分の許へ駆け寄ってくるのを感じたのだが、顔を上げる気力も無かった。
死人のようにゆっくりと靴を脱ぎ、屋内に上がる。
「伊達!」
甲高いその声は、綾だった。
流石に、雇い主の1人でもある相手にいくら疲れてるとはいえ、草臥れた姿で応対するわけにもいかず、慌てて佇まいを正した。
「遅くなり、大変申し訳ございませんでした」
「一哉は?」
伊達が皆まで言い終わる前に綾は、伊達に飛び掛るようにして伊達の腕を掴むと問うてくる。
その剣幕に面を食らったような顔になる伊達だったが、もう一度繰り返すように問われ、体を揺さぶられれば、応えないわけにはいかなかった。
たとえ、自分が彼の行き先を良く知らなくとも…。
「…それが、私には…」
「お嬢様。何をしているんですか?」
伊達がわからないと告げようとした矢先に、彼の背後から綾が物凄い剣幕で尋ねてきた男の声が聞こえてきて、2人して驚いたように後ろを振り返った。
水原で雇われている使用人専用の勝手口から姿を現した一哉の姿に、綾が我先にと飛び出した。
その拍子に伊達が手にしていたボールが床に落ち、数度バウンドを繰り返した後、やがてその動きを止めた。
伊達は、落ちたボールよりも一哉が連れていった山崎のその後と、彼が起こした行動の真意を知りたく、じっと綾に飛びつかれ困ったような表情を浮かべている一哉を一歩離れた位置から見つめた。
「何かわかったの?犯人は?」
綾は聞いておきながらも、矢継ぎ早に次から次へと問うものだから、一哉が応える間など一切あったものじゃない。
それほどまでに動転していると言えばそれまでかもしれないが、このままではこの場は一向に動かないだろう。
そんな彼女を落ち着かせるために、一哉は綾の肩をぐっと強い力で掴むと目と目を合わせる。
「落ち着いてください。今からお話しますから」
「…ごめんなさい……」
落ち着けと言われて、はっとしたように一哉から離れる綾だった。
彼女の本心を言うならば、今すぐにでも一哉に抱きついて、不安を紛らわして欲しいというのが本心かもしれないが、この場には伊達がいる。
自分たちのことを知らない彼の前でそんなことできるはずもなかった。
たとえ知らず知らずのうちに本能にそって行動していたとしても一哉がそれを許さないだろう。
自分の声に反応して離れてくれた綾にほっと胸を撫で下ろしながら、一哉は伊達に目を向けた。
「片付けは済んだか?」
「え、あ…はい」
端的な問いだったが、それが自分へと向けられたものだとわかった伊達は、山崎のことを考えていたためにしどろもどろになりながらも頷いた。
伊達の答えに満足したように一度、頷くと一哉は視界に入った見覚えのあるボールに目を向けた。
「何だ。持ってきたのか」
「あ、はい」
「まぁいい。怜迩様に聞いて処分しろ」
「わかりました」
返事をして、伊達は床に転がったボールを掴み上げた。
「旦那様は?」
「まだよ」
「そうですか。じゃあ、先にお嬢様だけにでも報告させて頂いた方がよろしいでしょうか?」
「そうね。こんなところでも何だわ。私の部屋で聞くわ」
流れるような動作で綾と一哉は姿を消した。
1人残された伊達は、一番気になる事も聞けずに佇んでいた。
彼らについていくこともできたかもしれないが、何故か2人を取り巻く雰囲気に割って入っていくことができなかったのだ。
とはいえ、伊達も完全な部外者でもない。
時は遅くてもいずれは聞かされるであろうことは想像に難くなかった。
もう一度、手にしたボールに目を落とした後、ふぅっと息を吐いてその場を後にした。
部屋の扉が閉まるなり、彼女は詰め寄ってきた。
内心で苦笑しながらも、これが子を想う母親の姿だろうと妙に納得している自分がいる。
それと対照的なのが、ここにはない男だった。
「一体、何だったの?」
「堺は?」
早く教えろとばかりに急かして来る綾の言葉を交わして、一哉は堺の所在を気にした。
この空間には綾と一哉の2人しかいない。従って、先ほど伊達がいたときのように一哉の綾に対する姿勢は、丁寧なものではなく、ぞんざいなものに変わっている。
だが、綾も今更気になど留めない。
それよりも、綾は早く自分に答えをくれない一哉に苛々を募らせていた。
「あんな男なんてどうでもいいじゃない!早く、私の聞いていることに答えて」
「今回に限って、無関係じゃない。寧ろ、あいつは関係者だ」
ぎろりと瞳が鋭くうごめく。
その瞳に、自分が睨まれたわけでもなく、数年前にその瞳で見つめられたときを思い出して綾の体がすくんだ。
そして、すぐに一哉の言葉に一つの疑念が綾に生まれる。
「関係者ってことは…」
「怜迩を狙わせた張本人は、堺だ。あの男…」
ぎりっと唇を噛み、忌々しげに堺の名を口にした一哉に、綾は目を見開いて彼を見つめた。
信じ難かった。背筋が粟立ち、体中の皮膚の毛穴がきゅっと締まり、鳥肌がたつ。
まさか、こんな身近にいたとは思いもよらなかった。
今回は、無事だったから良かったものの、もし怜迩がいなくなっていたかと思うと恐ろしくてならなかったのだ。
それは、一哉とて同じだったのだ。
弱みを握って完全に掌握したと思った相手にこんな風に噛まれるとは思ってもみなかった。
それだけに、一哉は業腹だった。
握った拳がみしみしと音を立てる。
ただの冗談でこんなことを口にするわけがないということは、綾とて知っている。
目を瞠ったまま、綾は悔しそうに唇を噛み、険しい表情を浮かべている一哉の顔を見続けた。
―ただ、彼女に分からなかったのは、己の戸籍上の夫である男が息子を狙った理由だった。
それは、至極簡単なことだったのに―。
2008
Vizard (80)
伊達に怜迩を狙った男の見張りを命じた後、怜迩を連れ帰るために、自分たちが乗ってきた車に戻る。
すぐ様、屋敷に送り届けるとただならぬ一哉の様子と傍らにいつもついている伊達の姿ないことに出迎えた使用人の者たちが何かを感じたのだろう、綾を呼び寄せた。
怜迩の世話を使用人に任せて、一哉はすぐさま綾に自分が見てきたものとこれからの予測をあくまで私的な見解に過ぎないが述べた。
綾の驚きようと言ったらなかった。
ただ、怜迩の無事が確認できていたので、そこまで動揺を周囲に見せることはなかった。
すぐに伊達と怜迩を狙った男を残してきた事故のあった現場に戻るという一哉を送りだし、綾は綾で父親である水原にすぐに連絡を取り始めたのだった。
ハンドルを握る一哉の眉間には、深い皺が刻まれていた。
自分が巻いた餌に飛び掛ってくれたのは、いいが…。
伊達と繋がりのある男と伊達を残してきたことを早くも後悔していた。
もし、伊達が逃がしていたら―。
とはいえ、一哉とて考えなしに伊達と山崎の2人を残してきたわけではない。
もし、伊達と山崎の2人が繋がっていたとしたら、2人を残すことで何かを燻りだせるかと思ったのだったが、万が一のために秘密裏にもう1人信用に値する人間を置いておくべきだったと自分の誤算を悔いていたのだ。
そもそもが思いつきで行動しただけに招いたものだから、後からいくら悔いたところで後の祭りだ。
ここまできたら、数あるリストの中で伊達という男を選別した自分の目を信じるしかないというところか―。
少し離れた位置に車を止めて、まだ人だかりが出来ている間を縫って、自分が置き去りにしてきた2人の許へ急いだ。
遠目に、まだこの場に2人がいることを確認してほっと胸を撫で下ろした。
しかし、一哉が安堵したのも束の間、山崎の体が急に立ち上がり、伊達の横をすり抜けて逃げようとしたのを目にした瞬間、ちっと舌打ちをして、体を群集の中から出そうとした。
だが、一哉の危惧を余所に、背後から伸びてきた伊達の手が山崎の体を引き寄せ、地面へと叩き付けた。
ザザァという地面と人体のすれる音が聞こえてきた直後、伊達の恫喝が聞こえてくる。
「あんた。どこまで、醜態さらせば気が済むんだ!」
苛立ちにも似た、怒声だった。
そして、直後の懇願にも似た忠告。
「いい加減、諦めろよ…」
車の中で抱いていた悪い予想が、全くの杞憂だったことを知る。
一哉は、ふっと頬を緩めるとゆったりとした足取りで、群集から抜け出すと、2人に近づいていった。
くすくすと笑いながら―。
一哉の笑い声は、2人の耳にも届いたようで、2人はゆっくりと振り返った。
1人は、動揺したように不安に揺らめく瞳で、もう1人は恐怖に怯えた瞳で自分を見ている。
伊達の横に立つとポンッと労うように肩を叩いた。
「上出来だ」
何が?と怪訝に思った伊達が問う前に珍しくも一哉が彼に答えをくれた。
「お前が、命じられたことも忘れて情に流されるような温い男じゃなくて良かったと言っているんだ。そんな不思議そうな顔をすることないだろう」
最後の揶揄うような言葉に、はっとして伊達は、顔を締めなおし、佇まいを正した。
そして、初めて気づいた。
この状況においても男が自分を試していたことに―。
なんという男だと脱帽すると同時に、やはり恐ろしさにも似た感情を抱いてしまう。
同時に褒められたのだという嬉しさのようなものも感じていた。
一哉は、すでに伊達には興味を失ったように、今は、ただ山崎に威圧感を与えるべく、凶悪な笑みを浮かべて上から見下ろしていた。
「さて、洗いざらい吐いてもらおうか…」
「…」
口を割らないという意志の表れか、ただ、恐怖に戦いて何も口にすることができないだけなのか。
どちらかは分からないが、男は一哉の言葉に何の反応も示さなかった。
「五体満足で帰れると思うなよ」
顔をずいっと近づけて、低い凄むような声に息を飲んだ。
切れ長の奥の瞳が今にも人を殺しそうな殺人鬼のような鈍い光を放っていた。
背筋があわ立ち、今すぐにでもこの場から逃げ出したいと思ったが、逃げ出す事などできなかった。
逃げ出すような隙もなければ、体も動きそうになかった。
がっくりと項垂れた男から、離れると一哉は背後に立ったまま控える伊達に次の命令を下した。
「お前は、ここを片付けろ」
「…はい」
「終わったら、屋敷へ戻れ。また、連絡する」
「…あの、」
―山崎をどうするつもりなのか。
山崎には、今先ほど一哉が口にしたように五体満足で帰れないと伊達自身も告げたはずなのに、そう簡単に割り切れるわけもなく、彼の行く末が不安になって尋ねようとした伊達だったが、肝心な言葉は出てきてはくれなかった。
不安に泳ぐ伊達の瞳に、一哉はそれを悟ったのだろう。
ふっと顔を緩めて、伊達の耳に顔を近づけて彼にだけ届く小さな声で告げる。
「吐くもの吐けば、解放してやる。奴が黙っているようならば、多少は覚悟して貰わなならんがな…。その後は、奴のクライアント次第だ」
という一哉の答えは、今の伊達に出来ることは何もないということだった。
小さな声で、「わかりました」と応えた伊達は、後はもう何も見ないようにと2人に背を向けた。
明らかに落胆している伊達の背中を見つめ、今の彼の複雑な心情を慮ると仕方ないかと嘆息を小さく漏らす一哉だった。
だが、そうゆっくりもしていられないのが現状だ。
場の収拾を伊達に任せて、項垂れる山崎を連れて、一哉はその場を離れた。
伊達は、車のレッカーや群集の整理に殊の外時間を取られてしまった。
全てを終える頃には、日が暮れていた。
静けさを取り戻した道路に佇んでいると、恐らく怜迩が追いかけようとして道路に飛び出した原因であるボールが転がっている。
それをじっと見つめていた伊達は、ゆっくりとそのボールを拾い上げると腕に抱えて、一哉に命じられたように屋敷へと帰るために帰路についたのだった。