「綾っ!!」
切羽詰ったような声音は、常日頃からは想像できないようなもので―。
まさかと最初は思った。
幻覚だとさえ思った。
しかし、強く自分に回された腕に、温もりに、近くから香る匂いに“彼”だと分かった。
目隠し用の布の下で、驚きに目を見開いた。
すぐに、締め付けんばかりに抱きしめる強い力に布の下の瞳からは、涙が湧き出てくる。
夢ではないだろうか―。
後ろで、拘束されていた手が解放されると同時に、これが夢などではなく現実であるということを確かめるようにただ、ただ―その体を抱き返した。
細い体。
間違えるはずなどない―。
やがて、視界を覆っていた布が同じように外されたが、涙で視界が滲んで見えるものも見えなかった。
ただ、耳元で自分の名を呼ぶ声に一度溢れ出した涙は止まることなく、止め処なく次から次へと流れ落ちた。
それを拭うように唇が吸い取る。
「綾」
と―。
安堵を滲ませて囁くように何度も零れる声に――。
それが、彼に―一哉に名前を呼んで貰えた最初の瞬間だったから――。
日常の彼からは、想像もできない行動。
死んでもいいとさえ思った。
否、このまま――。
一哉は、応対に出た1人目を沈めた後、現れた2人目もなんなく気絶させた。
その後、部屋の中で綾が拘束されているのを見つけたとき、もう衝動的に動いていた。
自分らしくもなく、彼女の名を呼び、抱きしめ、その体が無事であることを―、生きていることを確認する。
驚きに身を固くしている彼女のことなどお構いなしに強く抱きしめ、拘束されていた手を解放してやると同じように強い力で抱きしめられた。
体が歓喜に震えるのを感じた。
同じように視界を覆っていた布を外してやるとそこからは、大粒の涙が零れていた。
自然と体が動き、それを舐め取る。
甘かった。
ただ、名前を呼ぶことしかできなかった。
同じようにか細い、震える声で己の名前が彼女の口からも繰り返される。
それは、確かに恋人達の無事を喜ぶ逢瀬の時間だった。
――邪魔が入るまでは…。
確かに、2人は紛れもなく、2人の間にある約束事など関係なく、恋人同士の姿だったのだ。
バタバタと言う幾人もの足音が聞こえてきたことに最初に気づいたのは、一哉だった。
即座に感情よりも理性が働いた。
足音と想像しい気配に目を見開くと体を起こして、ガバッと自分にしがみついていた綾の体を引きはなした。
その瞬間的な判断力は間違っていなかった。
一体、どうしたのかと目を見開いて驚く綾に対して、一哉は表情を引き締めた。
その直後、大人数の人間が部屋へと流れ込んできた。
綾とて、その意味に気づかないわけではない。
一哉が自分の体を突き放した理由を知った。
見詰め合っていた綾と一哉だったが、綾は涙を浮かべたまま困ったように悲しそうに笑った。
「綾さん!」
自分を呼ぶ心配という色を含んだ婚約者の大きな声。
そんなものより目の前にいる少年の小さく繰り返される言葉がもっと、もっと欲しかった。
「お嬢様。大丈夫ですか?」
助けにきた忠実な従僕として完璧な言葉を吐く。
今は、もうその口から自分の名前が紡がれることはない。
“綾”とは……。
もう、従う者と従える者でしかない。
現れた婚約者のために場所を開ける一哉。
縋るような綾の視線に気づいていながら…。
分かっている。
頭では―。
それが、必要なことだと――。
でも、気持ちはついていかなくて…。
先ほどまで、確かに彼を抱きしめていた手は凄く震えていて…。
その震えは、日常ではあり得ない命の危険に晒された緊迫した環境から解放されたための震えか。
それとも―。
心から愛しい者から引き離されたことへの悲しみからか。
震える手で顔を、目を覆い嗚咽を噛み殺した。
何故、その手はずっと私を抱きしめていてくれないの―。
何故、周りはそれを許してくれないの―。
その姿は、緊張から解放されて安堵のあまり感情が制御できなくなった憐れな少女にしか見えなかった。
婚約者は、彼女をそっと立たせて部屋から連れ出す。
甲斐甲斐しいその光景は、見る者を感動すらさせたかもしれない。
無感動の瞳でそれを見送った後、一哉は気づいた。
自分の手がいまだ震えていたことに――。
今頃になって、震えが恐怖が一哉の体を襲っていた。
物音を怪訝に思って、2人目に顔を出した男は、その手にナイフという凶器を手にしていた。
それが、もし万が一彼女を傷つけていたかと思うと恐ろしくてならない。
寧ろ、一哉は幸せかもしれない。
それによって傷つけられることを綾が望んでいたなどとは知らされていないのだから―。
帰りの車の中で、一哉と引き離された綾は、泣き続ける自分を落ち着かせようと自分の肩を抱きしめる男の手をバシッと遠慮の欠片もない手で払いのけた。
「触らないで」
そう口にした声は、震えていたが、誰もそんな彼女の言葉を疑問に思うことはなかった。
異様な危機感に晒されたせいでただ、気が立っているだけなのだと。
そして、婚約者である男に同情すらよせるのだった。
婚約者がこのような目にあっては、今後が心配でならないだろうと―。
だが、そんな視線に目をくれることなく綾は、車の中で口を手で覆ったまま、ひたすら「一哉」とここにはいない彼の名を呼び続けた。
事の真相は簡単なものだった。
綾の父親により切り捨てられた男の逆恨みにすぎなかった。
狙われるのは、常に弱者だ。
しかし、見事失敗に終わった。
ただ、それだけのこと。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
嫌いな方・興味のない方・間違っちゃった方はバックバック
2008
Vizard (31)
苛立ちと喧騒が場を支配する。
「まだか!?まだなのか!!早くしろっ!」
がなりたてるのは、まだ年若い青年。
彼には、この状況で声を張り上げることしかできなかった。
何度となく繰り返されるバラエティのない同じ言葉に既に聞き飽きていた。
無力な男は、煩く騒ぎ立てるしかできないのだ。
今更、誰も動じない。
自分に与えられた仕事を全うするだけだ。
大企業の令嬢が攫われたとあれば、警察が動き出して当然の出来事だ。
今、室内には要請を受け、遅れて登場した警察官が大仰な機械を持ち込んでいる。
「正一君。少し落ち着きなさい」
苦い口調で諌める壮年の男に、諌められた青年は歯がゆそうな表情を向けたが、青年以上に苦悩に満ちた表情をしていて、青年は零れてきそうになった言葉を飲み込んだ。
感情の赴くまま浮かせていた腰を下ろした。
すでに何度か連絡はきていた。
しかし、一回ごとの通話時間が短く、警察が持ち込んだ逆探知は意味をなさなかった。
従って、どこから電話がかけられているのか発信元の特定は困難を極めていた。
時間の経過と共に関係者の苛立ちや焦燥は募る一方だった。
それから数時間後、漸く彼らは探し人の居場所を知ることになる。
それは、彼らにとって待ち望んだ報せだった。
目隠しをされ、五感の中でも重要な視覚を遮られてしまうとその他の感覚器が尚のこと発達したかのように鋭敏になる。
肌を突き刺すような緊迫感。
同じ空間にいるのは、2人の男。
1人は電話を通じて、恐らく父と交渉を続けている男。
もう1人は、首元にナイフを突きつけている。
声からして、2人は若くはない。
そう、自分の父親とそう変わらないであろう位の年のはずだ。
心なしか聞いたことがあるような声なのは、気のせいだろうか。
繰り返される電話を通じた会話。相手が自分の父親だということも分かる。
静かな空間において、電話の向こうの声すら微かに聞こえてくる。
焦ったような父親。
数度となく繰り返されるそれは、既に何度目だろうか。
父親の心配を余所に、自分はこの場で殺されてもいいとさえ思っている。
なんて、親不孝な娘だろうか…。
自分で自分に言い聞かせる。
でも嫌なものは嫌なのだ。
一度、幸せというものを味わってしまえば、自分からそれを手放すことは難しい。
願わくば、自分に鋭利な刃物を突きつけている男が、少し、ほんの少し手を動かすだけでいい。
そうすれば、それは間違いなく致命傷になるから――。
それなのに、口を封じられていない綾が、殺してという願いに応じてくれる気配はなかった。
ただ、時間だけが過ぎていく。
それは、綾にとって残りの猶予の時間なのか。
それとも男達にとっての猶予の時間なのか―。
今にも雪が降りそうな寒い冬空の下、高く聳え立つ煌々と光る建物を睨みつけた。
もう辺りは、真っ暗で夜の帳が降りていた。
吐く息は白く、肌を突き刺すような寒さがある。
少年の脳は、一度、目を通したものを忘れることなどなかった。一度見れば十分だった。
埋もれた優れた能力の一片にすぎなかった。
「ここか…」
睨みつけたまま動かなかったが、大きく息を吐き出した後、見上げるため上げていた顔を下へと下ろした。
ざりっと道路の砂利を踏み、足を大きく一歩踏み出した。
眼光だけは異様な光を発していた。
ホテルの自動ドアが少年の体を感知して、開くと同時に体を滑りこませるようにして中へと足を踏み入れる。
ホテル内は、宿泊客やチェックインを済ませる客でにぎやかで、特に怪しまれることなく奥へと進むことができた。
何食わぬ顔をして、エレベータホールまで突き進むと上へと向かう機体を待つ。
視線で辺りを確認する。
特に、変わった様子はないところから、恐らくまだ警察などがここへ来ている気配はないことから、自分が出てきた水原の家の者たちがこの場所を突き止めたといことは考えられない。
自分が出てきたときの様子から、とてもじゃないが、突き止めるまでには時間が掛かりそうだということは簡単に予想できたので、自分より早くここへくることはないだろうとは踏んではいたが、やはり想像通り、ここへは辿りついていないらしい。
2、3度軽く首を左右に動かして辺りを確認した後、チンというエレベータが到着した音が聞こえてきて、そそくさとその身を狭い箱の中へと押し込めた。
己以外に誰も同乗者のいない箱の中で、目的の階のボタンを押した後、長くゆっくりと息を吐き出して気を落ち着ける。
ものの数秒にしかならないが、瞼を閉じて、じっと目を伏せる。
己の心臓の音がすぐ耳の傍で聞こえるようだった。
コートの中でぎゅっと握られた手は、じんわりと汗を掻き、己の緊張を如実に表していた。
無事でいて欲しい―。
部屋の中がどうなっているかなど彼に知りようもない。
ただ、そう願うことしかできなかった。
最悪の事態を想定すると心臓が早鐘のように脈打つ。
それを落ち着けるようにゆっくりと息を吐き出して、自分の気持ちを落ち着けるのだ。
否、気持ちは怖いくらいに落ち着いていた。
体だけが妙な高揚感、緊張を覚えていて、対照的に頭や精神は奇妙なほど落ち着いていた。
ゆっくりとエレベータは静かに停止し、ベルを模した音が目的の階へと到着したことを告げる。
閉じていた瞳を開けて、静かに足を外へと踏み出す。
床を敷き詰めるように敷かれた毛足の長い絨毯が一歩、一歩足を踏み出す度にその衝撃を吸収する。
自分以外に誰も廊下を歩くものなど居らず、まるでこの世界には自分しかいないようにさえ感じられる。
一定の速度を保ち、迷うことなく目的の部屋へと向かう。
重厚な扉の前に立ち、じっと睨みつけた後、手を持ち上げて、部屋の扉をノックした。
コン、コン――。
部屋のドアをノックする音に室内にいた男達が息を呑むような気配がしたのを綾は的確に感じ取っていた。
目が不自由であるが故に、肌で、耳でしか感じ取ることはできなかったが、確かに一種の緊張感のようなものが走ったのは確かだった。
男達は互いに、緊張がありありと現れた表情で顔を見合わせる。
やがて、静かに1人の男が立ち上がり、部屋のドアへと向かう。
もう1人の男に見守られながら――。
この時間がひどく長いもののように感じられた。
やがて、鍵を開錠する音が聞こえ、彼は身を固くした。
そして、扉の向こうから壮年の男の顔が見えるなり、頤を素早く掴み上げたのだった。
ぎりぎりと締め上げるように頤を掴んだ手に力を入れる。
男は、苦痛に顔を歪ませたが、呻き声も上げられなかった。
空いた手で乱暴にドアを開くと体を素早く中へと滑り込ませて、頤を掴んだままの男を力いっぱい壁に叩きつける。
鍛えてもいない男にはそれだけで十分だった。
手を離すとずるずるとその体は床に吸い込まれるようにして沈む。
無表情でそれを見下ろす。
―ガンッ!!
何かを叩きつけるような鈍い大きな音に驚いたように体が跳ねたのは、綾だけではなかった。
綾は自分の傍にいる男がびくっと立ち上がり、離れていくのを感じた。
視界が不明瞭なため、気配でしか感じられなかったが。
やがて、もう一度大きな音と同時に自分の名を呼ぶ声に吃驚して見えない目で恐らく己の名を呼んだであろう人物がいる方向を見た。
「綾っ!!」
2008
Vizard (30)
寂れたビルの一角にそれはあった。
迷うことなく足を進める少年とはひどく場違いな場所のように思えなくもない。
固く引き結ばれた口は、意志の強そうな眦、鼻筋の通った鼻梁は、聡明さを際立たせている。
それだけではなく、今の彼の様子からは、危うげな雰囲気も漂わせていた。
焦りからか足の動きは自然と早くなり、何かに追われるようにしてビルの中にある一室のドアをノックもなく、乱暴に開けるとずんずんと中へと進んでいく。
寂れたビルとはまるで一転して、ドアの向こう側は綺麗な内装の施された部屋だった。
部屋の中央にソファーとローテーブルが置かれている。
しかし、人は誰もいなかった。
室内の様子を確認すると、目的の人物がいないことに目を眇めた。そして、すぐに奥へと進んでいく。
勝って知ったるなんとやら、迷うことなくさらに奥の部屋のドアに手をかける。
遠慮の欠片もない乱暴な手つきでドアを開けるとさらにその奥は居住スペースとなっているようだった。
その中では、2人の男女が抱きあい、口付けを交し合っていた。
男女のその光景を見せ付けられても少年は、眉一つ動かさなかった。
それどころか嘲笑を浮かべた。
「真昼間からお盛んだな」
少年のまだ、若い青年期特有の声にゆっくりと女の方が目を開けた。
男の方はと言えば、闖入者に驚いたように女の体からがばっと離れた。
動揺丸出しの男の姿に女は、詰まらなさそうな視線を送るときっぱりと告げる。
「帰って。邪魔」
男が目を見開く。
男の方からしてみれば、こんな扱いされて男としてのプライドが黙っているわけがなかった。
見ず知らずのまだ、学生服を着た少年の登場で追い出されなければならないのか。
最初は、女に言われた言葉を理解できずに呆けた顔をしていたが、すぐに顔を怒りで紅潮させた。
女は、そんな男に至極冷めた視線を送るとその細い足を振り上げ、男を蹴り上げた。
「帰れって言ってるでしょ!」
「いっつぅ…!」
遠慮の欠片もなく蹴り上げられた男は、蹴られたところを抑えて蹲った男をふんっと鼻で笑うと少年の腕を引っ張って部屋を出た。
「相変わらず、容赦ないな」
女に引っ張られるままに部屋を出ながら、蹲る男を一瞥する。
しかし、別に哀れみを感じている訳ではない。
女を怒らせた男を心の中では笑っていた。
「あんたが来るって分かってたら連れ込まなかったわよ」
「ふーん」
髪をかき上げながら煙草を口に銜えて女が言うが、少年は顔色も変えずにつまらなそうな声を返すだけ。
つれない少年の返事に苦笑いをしながら、紫煙を吐き出すと、自分の机として利用している机の引き出しから封筒を差し出した。
それを受け取ると中身を確認する。
「それでしょ。今日ここに来た理由」
「流石」
にやりと笑いながら答えながら、そこに書かれたものに目を通す。
「その様子じゃ、お嬢ちゃんホントに浚われちゃったのかしら」
「ああ。無能なバカの所為でね」
冷え冷えとした声音に、女は片眉をこれ見よがしに吊り上げて見せた後、口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。
「半分でもお兄さんでしょ。そんな言い方しちゃ可哀想じゃない」
「ふん。普段でかい面しておきながら、いざという時に役に立たない上に、言い訳だけはご立派ときたもんだ。これを無能と言わずしてなんと言う?」
辛らつな少年の言葉に、女は喉の奥でくつくつと笑うだけだった。
その笑いを少なからず不快に思った少年が横目でじろりと女を睨みつけるが、女は悪びれた様子もなくにこりと秀麗な笑みを浮かべてみせるだけだった。
「焦ってるわね。可愛い」
「うるさい」
揶揄うような女の言葉に、むっとしたように眉間に皺を寄せて睨みつけるが先ほどと同様効果は全くなかった。
余計におかしそうにくすくすと笑うのだから、埒が明かないとうもの。
「妬けちゃうわね。あんたをそんな風にしてしまえるお嬢ちゃんに」
「何言ってるんだか…さっきの男は何だよ」
「あら、気にしてくれるの?」
先ほど、女に手ひどい扱いを受け、いまだに部屋から出てこないところを見るとまだそこに男がいるのであろう部屋を一瞥しながら少年が問うが、女は面白そうに笑うだけだった。
「まさか」
「そうよね。あんたってそういう子だわ。ひどいわよね。あんたにとって初めての女である私をこうもすげなく扱うなんて」
「よく言う。あんたの方こそ、いたいけな少年に襲い掛かって上にのっただけじゃないか」
「そうとも言うわね。だって、可愛かったんだもの」
くすりと笑いながら相槌をうつ女だったが、少年はそれ以上何も言わずに食い入るように見つめていた。
「これは、結構有名だったのか?」
紙と写真を女にちらつかせながら問う。
「ああ。それ?まぁね、情報収集は簡単だったわよ」
「こいつも間抜けだな」
「まぁね。でも、お嬢ちゃんが無事だったならの話だけどね…。追い詰められた人間は何をするか分からないところがあるから気をつけなさい」
自分の方には、一目もくれずひたすら食い入るように渡したものに目を通し続ける少年に対し、少し恨み言の一つでもくれてやりたくなるというもの。
女の台詞にちっと舌打ちをする。
「場所が変わっているということは?」
「ないわよ。実際に念のために人をつけさせたけど、動いてないようだし、お嬢ちゃんが運ばれるのを見たって言ってたわ」
「見てるなら、助けろよ」
「あら、そこまでする義理はないわ。大体ね私にここまでさせた時点で、高くつくわよ。一哉。あんた以外なら絶対にこんなことしてないんだからね」
という声に顔をあげた一哉は、にっこりと笑ってみせる。
女も同じように笑ってみせる。
それは、いつしか2人の中でできた約束。
欲しいものを与える代わりに、一夜を共にする。
それは、今日だとて変わらないはずだと思っていた。
少なくとも女に限っては――。しかし…。
「ありがと。ごめん。金は払うよ」
「は?」
予想もしてなかった一哉の言葉に、女は呆けたような顔をした。
「いくら?」
「いくらじゃなくて……どういうこと?」
「秘密」
意味深な笑みを浮かべて笑うと「また来る」とだけ言って一哉は、用済みとなったその場を後にした。
引きとめようとする女の声を背に感じながら――。
迷うことなく足を進める少年とはひどく場違いな場所のように思えなくもない。
固く引き結ばれた口は、意志の強そうな眦、鼻筋の通った鼻梁は、聡明さを際立たせている。
それだけではなく、今の彼の様子からは、危うげな雰囲気も漂わせていた。
焦りからか足の動きは自然と早くなり、何かに追われるようにしてビルの中にある一室のドアをノックもなく、乱暴に開けるとずんずんと中へと進んでいく。
寂れたビルとはまるで一転して、ドアの向こう側は綺麗な内装の施された部屋だった。
部屋の中央にソファーとローテーブルが置かれている。
しかし、人は誰もいなかった。
室内の様子を確認すると、目的の人物がいないことに目を眇めた。そして、すぐに奥へと進んでいく。
勝って知ったるなんとやら、迷うことなくさらに奥の部屋のドアに手をかける。
遠慮の欠片もない乱暴な手つきでドアを開けるとさらにその奥は居住スペースとなっているようだった。
その中では、2人の男女が抱きあい、口付けを交し合っていた。
男女のその光景を見せ付けられても少年は、眉一つ動かさなかった。
それどころか嘲笑を浮かべた。
「真昼間からお盛んだな」
少年のまだ、若い青年期特有の声にゆっくりと女の方が目を開けた。
男の方はと言えば、闖入者に驚いたように女の体からがばっと離れた。
動揺丸出しの男の姿に女は、詰まらなさそうな視線を送るときっぱりと告げる。
「帰って。邪魔」
男が目を見開く。
男の方からしてみれば、こんな扱いされて男としてのプライドが黙っているわけがなかった。
見ず知らずのまだ、学生服を着た少年の登場で追い出されなければならないのか。
最初は、女に言われた言葉を理解できずに呆けた顔をしていたが、すぐに顔を怒りで紅潮させた。
女は、そんな男に至極冷めた視線を送るとその細い足を振り上げ、男を蹴り上げた。
「帰れって言ってるでしょ!」
「いっつぅ…!」
遠慮の欠片もなく蹴り上げられた男は、蹴られたところを抑えて蹲った男をふんっと鼻で笑うと少年の腕を引っ張って部屋を出た。
「相変わらず、容赦ないな」
女に引っ張られるままに部屋を出ながら、蹲る男を一瞥する。
しかし、別に哀れみを感じている訳ではない。
女を怒らせた男を心の中では笑っていた。
「あんたが来るって分かってたら連れ込まなかったわよ」
「ふーん」
髪をかき上げながら煙草を口に銜えて女が言うが、少年は顔色も変えずにつまらなそうな声を返すだけ。
つれない少年の返事に苦笑いをしながら、紫煙を吐き出すと、自分の机として利用している机の引き出しから封筒を差し出した。
それを受け取ると中身を確認する。
「それでしょ。今日ここに来た理由」
「流石」
にやりと笑いながら答えながら、そこに書かれたものに目を通す。
「その様子じゃ、お嬢ちゃんホントに浚われちゃったのかしら」
「ああ。無能なバカの所為でね」
冷え冷えとした声音に、女は片眉をこれ見よがしに吊り上げて見せた後、口の端を吊り上げて笑みを浮かべる。
「半分でもお兄さんでしょ。そんな言い方しちゃ可哀想じゃない」
「ふん。普段でかい面しておきながら、いざという時に役に立たない上に、言い訳だけはご立派ときたもんだ。これを無能と言わずしてなんと言う?」
辛らつな少年の言葉に、女は喉の奥でくつくつと笑うだけだった。
その笑いを少なからず不快に思った少年が横目でじろりと女を睨みつけるが、女は悪びれた様子もなくにこりと秀麗な笑みを浮かべてみせるだけだった。
「焦ってるわね。可愛い」
「うるさい」
揶揄うような女の言葉に、むっとしたように眉間に皺を寄せて睨みつけるが先ほどと同様効果は全くなかった。
余計におかしそうにくすくすと笑うのだから、埒が明かないとうもの。
「妬けちゃうわね。あんたをそんな風にしてしまえるお嬢ちゃんに」
「何言ってるんだか…さっきの男は何だよ」
「あら、気にしてくれるの?」
先ほど、女に手ひどい扱いを受け、いまだに部屋から出てこないところを見るとまだそこに男がいるのであろう部屋を一瞥しながら少年が問うが、女は面白そうに笑うだけだった。
「まさか」
「そうよね。あんたってそういう子だわ。ひどいわよね。あんたにとって初めての女である私をこうもすげなく扱うなんて」
「よく言う。あんたの方こそ、いたいけな少年に襲い掛かって上にのっただけじゃないか」
「そうとも言うわね。だって、可愛かったんだもの」
くすりと笑いながら相槌をうつ女だったが、少年はそれ以上何も言わずに食い入るように見つめていた。
「これは、結構有名だったのか?」
紙と写真を女にちらつかせながら問う。
「ああ。それ?まぁね、情報収集は簡単だったわよ」
「こいつも間抜けだな」
「まぁね。でも、お嬢ちゃんが無事だったならの話だけどね…。追い詰められた人間は何をするか分からないところがあるから気をつけなさい」
自分の方には、一目もくれずひたすら食い入るように渡したものに目を通し続ける少年に対し、少し恨み言の一つでもくれてやりたくなるというもの。
女の台詞にちっと舌打ちをする。
「場所が変わっているということは?」
「ないわよ。実際に念のために人をつけさせたけど、動いてないようだし、お嬢ちゃんが運ばれるのを見たって言ってたわ」
「見てるなら、助けろよ」
「あら、そこまでする義理はないわ。大体ね私にここまでさせた時点で、高くつくわよ。一哉。あんた以外なら絶対にこんなことしてないんだからね」
という声に顔をあげた一哉は、にっこりと笑ってみせる。
女も同じように笑ってみせる。
それは、いつしか2人の中でできた約束。
欲しいものを与える代わりに、一夜を共にする。
それは、今日だとて変わらないはずだと思っていた。
少なくとも女に限っては――。しかし…。
「ありがと。ごめん。金は払うよ」
「は?」
予想もしてなかった一哉の言葉に、女は呆けたような顔をした。
「いくら?」
「いくらじゃなくて……どういうこと?」
「秘密」
意味深な笑みを浮かべて笑うと「また来る」とだけ言って一哉は、用済みとなったその場を後にした。
引きとめようとする女の声を背に感じながら――。
2008
Vizard (29)
繰り返される己を非難する言葉。視線。
己の非を他人に転嫁するその腐った性根に―。
頭が焼ききれそうだった。
作られた拳に力が篭る。
眦がつりあがる。
一哉の表情の変化にも責任をなすりつけようとする彼らは気づかない。
自分の非を人になすりつける前に、やることがあるだろうに。
綾はどうなるのだ。
今、危険に身を晒されている彼女はどうなるというのだ。
今にも襟首掴み挙げて殴り飛ばしたい気持ちを一哉は、必死に抑えていた。
しかし、その一哉の忍耐も長くは続かなかった。
彼らは、一哉のことを身内とは思ってもいないかもしれないが、父親を除いて身内が身内を口汚く罵る光景は見て見苦しいとでも思ったのだろう。
「やめなさい」
主である水原が苦々しい表情をしながら口を開いたことでそれは一時収まった。
その苦言に主の不興を買ったのではないかと一様に青ざめさせた彼らは、またもや縋りつくような勢いで主に詰め寄る。
中心となって口を開いていたのは、一番責任を負うべき宗司の言い訳だったが…。
一哉は、その言い訳を聞きながら、視界が赤く染まっていくのを感じた。
怒りで自然と体が震えてくる。
きりきりと眦はつりあがる。
一哉はとてもじゃないが頭を下げる気になどなれず、吊り上った目で頭を下げる宗司を睨みつけていた。
今にも人を殺しそうな視線で―。
しかし、すぐに後頭部をガッと強い力で押さえつけられ、強制的に頭を下げさせられた。
横目で確認するとスーツの色から長兄だと判断できた。
押さえつける力に逆らって頭をあげようとするとさらに強い力で押さえつけられる。
強い力に、ぎりっと唇を噛み、拳に力を入れる。
それに抗う一哉の耳に宗司の言い訳が聞こえてくる。
「私は、既に暴漢に襲われていましたので…。ですから、私にはお嬢様をお守りしたくてもできなかったんです。分かっていれば、対処はできました。誰も信号で停止している車を襲うなんて考えもできませんよ。そこを襲われたのですから…いくら、私でも」
みっともないとは思わないのだろうか。
どこまでも自分は悪くないという主張を続ける宗司の言葉を聞かされた一哉は、とうとう我慢ができなくなった。
自分の頭を押さえていた長兄である弥一の腕を掴むと自分の頭からその手を退けた。
義弟の行動に弥一は、驚いたような表情で、一哉に掴まれた腕を見つめた。
常日ごろから殴られる時は、殴られ、反抗することもなかった義弟の初めての反抗ともいえる行動。
驚かないわけがない。
一哉は、驚いている弥一など全く気にすることなく、その掴んだ手を軸にして、まだ成長過程の自分の体よりも完全に成長した弥一の自分よりも大きな体をいとも簡単に床に払い落として沈めた。
体が床に叩きつけられる衝撃に、弥一の口からは野太い悲鳴があがる。
その声に驚き、他の者が顔をそちらに向ける前に一哉は、宗司に詰め寄る。
いつもは、大人しくやられているだけの義弟の行動に驚きを隠せずただ自分の前にきた一哉を見開いた目で見返すだけの宗司。
背後で、驚きの声をあげている他の人間の声が聞こえてきたが、そんなもの一切気にもとめなかった。
驚いている宗司に、一哉の手を防げるわけもなかった。
一哉は、そんな宗司に構うことなく、怒りのまま乱暴に襟首を掴み上げ、強く握った拳を力のまま顔面に叩き付けた。
衝撃とともに訪れる熱。
宗司だけでなく人を殴るという行為は、己にも痛みが返って来る。
宗司の顔を殴りつけた一哉の拳にも熱が反射する。
ふわりと体が浮いたかと思うと次の瞬間には、壁に強かに体を打ちつけ、背中に痛烈な痛みが走る。
口からは、苦悶の声が漏れる。
甲高い悲鳴が耳をつんざく。
「ガキみたいにみっともない言い訳してんじゃねぇよ」
冷え冷えとした声音だった。
自分へと視線が集まっているのは、分かっていた。
じんじんとした痛みを訴えてくる手を軽く振り払いながら、呻き声をあげる兄を上から怒りの表情を露にして声を張り上げた。
「っざけんなよ。自分の仕事もろくに全うせずにでかい面すんじゃねぇ!この役立たず。てめぇは死んでも守れよ。何が自分は悪くないだ。ふざけんのも大概にしろっ!」
捨て台詞を宗司に向かって吐き捨てると背を向けて部屋を出た。
自分を呼び止める煩い声にも振り返らなかった。
ただ、一哉が部屋を出るために部屋のドアを開けるとそこには、血相を変えた堺が立っていた。
急に開いたドアに驚いているようだったが、すぐに一哉を押しのけるようにして部屋に入る。
「お義父さん!ですからあれほど気をつけてくださいと申し上げていたじゃないですか!石原がいつ行動に出るかわからないと事前に…」
堺の口から出てきた人物の名を一哉の耳が確りと拾いあげた。
その後の水原の濁った声も―。
なるほどと思いながら一歩足を踏み出す。
「一哉!貴様どこへ行く」
聞こえてきたのは、3人いる兄の中で、唯一、この場で一哉に何も危害を加えられていない御津だった。
ちっと舌打しながらも顔だけで振り返ると物凄い形相で自分を見てくる御津の目とぶつかる。
「うるせぇよ。デブ。文句があるなら、いっぱしに仕事ができるようになってから言えよ。口だけマザコン野郎」
辛らつな言葉に返す言葉も見つからない御津。
そんな兄を鼻で笑うと一哉は今度こそ足を踏み出した。
一哉の“草壁”という家の中で彼の置かれた環境というものを考えるのならば、今の発言・行動は決して良いものではない。寧ろ最悪だ。
しかし、そんなもの考えられなくなるくらい理性が働いていなかった。
最早、消失していたといっても良かった。
冷静さというものは、既にその報せを聞いていたときから消えていたのかもしれない。
自分が傍にいないときに起こったことだから余計に悔やまれてならないのだ。
自分が傍にいたのなら、決してこんな目にはあわせなかった。
2008
Vizard (28)
余りに突然の報せだった。
半分だけ、兄とも思っていない自分をひたすら目の敵にする兄にまだ帰りたくない―離れたくないと主張する彼女を突き放すようにして、兄に引き渡したあと、寄り道することもなく自宅へと戻ったときだった。
2度目を問うてる時間の猶予もなかった。
聞き間違いなどではないだろう。
聞いた瞬間に戦慄が身体を突き抜ける。
それは、紛れもない恐怖だった。
いつもは余裕綽綽の笑みと態度を見せる長兄も今日ばかりは、笑う余裕がないようだ。
急かすように、自分と一緒に来るように言う。
焦りから来るのだろう。乱暴な運転で主の屋敷へと向かう車の中でまんじりともしない時間を過ごした。
一体、何があった―。
別れたときに見た彼女の顔を思いだす。
一体、何が―。
自分の手を見つめる。
数時間前までには、この手は確かに彼女に触れていたといのに―。
人の―自分以外の―彼女の温もりがあったはずなのに―。
その彼女が今、窮地に立たされているなんて誰が信じられようか。
敷地内に車が乗り入れる
重い車体が敷き詰められた砂利を踏む音が体まで響く。
車の動きが停止すると同時に、飛び出すようにして兄と一哉は車から出た。
どれだけ気が急いていても主の家の玄関を勝手に開けて足を踏み入れるなどということは仕えるものとしてしてはいけないことだ。
呼び鈴を鳴らして人が顔を出すのを待つ。
僅かな時間がもどかしい。
程なくして顔を出した家政婦は、一哉と弥一の顔を認めて中へと促した。
その彼女の顔もどこか憔悴したような顔だった。
無理もないだろう。
しかし、弥一も一哉もそんな彼女に目もくれずに室内へとあがり込むと真っ直ぐにある部屋へと向かう。
己らの主である男の書斎に――。
足を踏み入れると部屋の主であり、一哉―否、草壁という家にとって仕えるべき相手が部屋を右へ行ったり左へ行ったり落ち着かない様子で忙しなく動き回っている。
顔を蒼白させた当主の姿。
髪はかきむしったのだろう乱れ、顔は焦燥し、ぶつぶつと呟きながら行ったりきたり。
その彼の傍では、一哉の父である男がひたすら床に頭を擦りつけていた。
そんな部下の姿も目に入っていない様子。
彼の動揺は推して測るべきだ。
無理もない。
妻亡き後、残された唯一の最愛の娘が拉致・誘拐されたというのだ。落ち着けという方が無理だというもの。
安否が気になって仕方ない。
綾と一緒にいたはずの宗司は、病院で手当を受けている。
何があったのか全くわからない。要領を得ない。
憔悴しきった屋敷の主は、部屋に新しく入ってきた侵入者2人を見て「あぁ」と小さく喉の奥で声を漏らした後、また顔を逸らして、部屋の中を縦横無尽に落ち着かない様子で歩き始める。
一哉は、視線で疲れきった男の行動を目で追いかけた。
視界の端に、頭を下げ続ける父の姿を捕らえながら。
綾の父親の動揺は分かる。
綾の身を守ることを任されておきながら、職務を全うできずにこのような事態を招いたことに対する草壁を統括する人間としての自分の父の失態を詫びる態度も分からないでもない。
ただ、この時間は無駄だ。
冷めた視線で、一哉は遥かに自分より経験も年の功も積んでいる2人の大人を見て思った。
横目で一緒に現れた兄を確認するが、兄もいつもの飄々とした姿は想像もつかないほど深刻な表情を浮かべて、俄かに色を失った表情をしたままじっと佇んでいる。緊張が彼を取り巻いていた。
「犯人からの連絡は?」
そう口にした一哉の声は、その空間において通常より響くようだった。
自分へと注がれる視線にも臆することはなかった。
父や兄からは非難の視線を感じた。
彼らには、目もくれず一哉は、水原その人だけを見続けた。
一哉の視線に、言葉に、はっとしたようにまだ年若い少年を見たが、鋭い一哉の視線とぶつかり、すぐに顔を逸らして言葉を濁した。
「あ…ああ…」
その男の様子に、一哉の目が光る。
「ご存知のようですね」
落ち着いた物腰の少年に、妙な違和感を覚える大人たち。
しかし、この異質な状況において彼らの妙なひっかかりはすぐに消失した。
彼らが疑問を抱く前に、主が戸惑いの表情を見せている間に一哉は続けて口を開いた。
「誰です?」
「……それは…」
明らかに言い難そうな表情をしてみせる主の姿に一哉の眉間には皺がよっていく。
何を言いよどむ必要がある。
分かっているのならこんなところで何をしているのだというのが、一哉の思うところ。
もどかしいことこの上ない。
ぐっと拳を握る。
「分かっているのなら、何故ここでこんな…」
「一哉!」
食ってかかろうとする息子の暴挙にたまらず父親が声を張り上げた。
だが、一喝された一哉は、退きさがらなかった。
あろうことか怒鳴りつけた父親を眦を吊り上げて睨みつける。
一哉の方こそ、父に向かって「頭を下げるなら猿でもできる」と言い返そうとして口を開こうとしたときだった。
一哉たちが入ってきたきり閉じられていた扉がゆっくりと音をたてて開く。
同時に室内にいた者たちの視線がそちらへと向けられる。
一哉も例外ではなく、唯一の入り口となっている扉へと目を向ける。
現れたのは、ここにはいない綾と一緒にいたはずの次兄だった。
厳しい顔つきをして、部屋に入ってきた兄の後ろから、こんなときでも厚く化粧を施した義母が現れる。
その後ろからすぐ上の兄にあたる3番目の兄の御津も入ってくる。
草壁の家のものが全て顔を揃えていた。ある意味壮観であり、ある意味異質な空間だった。
母親に付き添われ現れた次兄は、頭に傷でも負ったのだろう、これ見よがしに包帯が巻かれていた。
負傷した兄・宗司の姿を見て、一哉の眉間に皺が寄った。
だが、すぐに無表情になり、冷めた視線で兄を見た。
どのような弁解の口上が男の口から出てくるのか待った。
「申し訳ございませんでした」
開口一番にそう言うと父と同じく、床に額を擦り付けた。
その光景を見た瞬間に、こいつもかと思い、自分の横でひたすら頭を下げ続ける兄の姿を蔑ずむような視線で睨みつけた。
こんなところに居ても時間の無駄だと考え、踵を返そうとした一哉だったが、自分を睨みつける視線に気づき顔をあげた。
「お前、何、自分は関係ないとか白々しい面してる?何が起こっているのか分かってるのか?」
上の兄2人とは違い、筋肉ではなく脂肪によって肉付きのいい体をした兄の御津だった。
自分より先に取り立てられるようにして主家の令嬢を守るという仕事を与えられた義弟が常々気に入らなかっただけに、ここぞとばかりに食ってかかる。
その御津の言葉にぴくりと一哉の筋肉が反応した。
反応したのは、それだけではなかった。
義母、そして頭を下げていたはずの宗司が顔をあげてこちらを見ている。
「そうよ。御津の言うとおりだわ。おまけとは言え、あなただってお嬢様のボディーガードを仰せつかっているんですけからね」
義母が御津の言葉に呼応するかのように口を開く。
「そうだ。元はと言えば、お前がお嬢様をもっと早く連れてくればこんなことにはならなかった筈だ」
母親の言葉に同調するようにして、自分の無力を他人の所為にするような言葉を吐く次兄・宗司に一哉はぐっと拳を握りしめた。
睨みつける一哉の視線が気に入らなかったのか、それともただ責任転嫁をしたかっただけなのか。宗司の口先は止まらなかった。