自室に戻るために廊下を歩いていた一哉は、自分の進行方向から走ってくる己より小さな体を見つけた。
思わず足を止める。
彼女なら自分に気づくはずだと思っていたから――。
しかし、走ってきた彼女―綾は、一哉に気づくことなく彼の横を風のように通り過ぎていった。
それに、驚いたのは一哉の方だった。
彼女が通り過ぎていった方向を振り返る。
「泣いて…?」
と口にしたのは、一瞬そう見えたから――。
しばらく彼女の姿の見えなくなった空間を眉間に皺を寄せて、見つめていた一哉だったが、綾の後を追いかけることにした。
その綾の部屋までにかかる僅かな時間が、自分と彼女の余りにも短く、呆気ない終わりの時間だということに気づきもせずに…。
彼女がいるはずの部屋のドアをノックしても返事はない。
首を傾げてもう一度ノックしたが、同じく返事はなかった。
3度目のノックをしようとしてドアへと拳を近づけたが、木の扉に触れる前にぴたりとその手を止めた。
そして、ゆっくりと手を下ろしてドアノブに手をかけた。
築何十年と経過している屋敷は、少しの動きで大層な音を立てる。
一哉が押しているドアも然りだった。
木の軋む音を聞きながら、室内を確認する。
きょろきょろと顔を動かして、そこにいるであろう人物の姿を探す。
すぐに探していた人物は見つかった。
1人用にしては、広いベッドの上にうつ伏せになり、顔を埋めている姿が一哉の視界に入る。
扉の軋む音に、第三者が部屋に入ってきたことはベッドの上の彼女も分かっているであろうが、足音も立てずに室内に身体をすべりこませると静かに扉を閉めた。
そして、彼女に近づく。
綾は、誰かが部屋に入ってきて、自分に近づいてきているのを感じていた。
きっと父親か、あるいは、父親に頼まれて様子を未に来た誰かと思った。
そんな人間にまともに対応するだけの気力を綾は持っていなかった。
「何?」
顔をあげることなく、口にした言葉は、すぐ傍にあった布に吸い込まれてくぐもった音となった。
声の調子もどこかぶっきらぼうで投げやりな感じのするものだった。
だから、相手は気づかなかっただろう綾の声が震えていたことに――。
顔あげることなく上がった声に一哉の足は止まった。
軽く驚きに目を見開く。
忘れていたわけではない。
本来の彼女がどんな人物だったか――。
周りを自分の我侭で振り回して喜んでいた、どうしようもなく子供じみた彼女を――。
あまりに自分に見せる姿とのギャップの大きさに一瞬とはいえ、怯んだのだった。
食い入るようにベッドに伏せる彼女を見つめているとその肩が震えていることに気づき、さらに目を見開いた。
やはり、気のせいではなかった。
泣いている…。と。
「…綾…」
躊躇いがちに彼女の名を口にした。
いつもより声を落としていたはずなのに、いつもよりそれが大きく聞こえたのは気のせいだろうか。
それとも、この場で他に発せられる音が何も無かっただろうか。
確りと鼓膜に届いた耳障りの良い声に綾ははっとして、顔を上げると身体を起こして声にした方向を見た。
涙でぐしゃぐしゃになった自分の顔を気にしている暇はなかった。
一哉がここにいるという事実に―。
自分の名をもう一度、口にしたという事実に―。
一哉は一哉で驚いた表情で自分を見る綾の顔を見て、少し驚いたような表情をした。
鼻は真っ赤で、目も赤い。
一体、何があったのかと気にならざるを得ない。
綾は、そこに立つ一哉の顔をじっと見つめていたが、やがて浮かんできた涙によってぼやける視界で一哉の姿は遮られる。
ゆっくりと瞬きをするとぼろりと大きな粒が零れる。
ぎゅっとベッドにかけられている布団のシーツを掴むとそこから立ち上がり、ただ呆然と自分を見つめる一哉に飛びついた。
どんっと言う衝撃とともに訪れた自分以外の人の温もりに驚きながらも抱きとめた一哉だったが、綾がこれでもかというほどの強い力で自分を抱き返し、声を震わせて泣く姿に幾度となく彼女の泣く姿を見てきたとは思ったが、そのどれとも何かが違うような気がして、何とも落ち着かない気分に陥る。
だが、そんな姿になった原因が何であるのかということを問うのは気が退けた。
それは、本能的なものだったのかもしれない。
泣く綾をただ、抱きしめるだけしかできなかった。
ここで、人が入ってくれば言い訳もできないという危険性に気づいてはいたが、綾も一哉も動くことはなかった。
ただ、一哉は綾が自分の名を繰り返すのを黙って聞いていた。
それは、聞いているほうが悲痛な気持ちになるような慟哭にも似ていた。
時間の経過とともに、何となく嫌な予感が自分の中で大きくなっていくのを一哉は気づいていた。
あまりに自分の名を呼ぶ綾の声が切なくて――。
ますます一哉の中で不安が大きくなっていくばかりだった。
自然と抱き返す力も強くなる。
すると、その分だけ綾の力も強くなるのだ。
それから、どれくらい時間が経過した頃だろうか――。
一哉が綾の涙の理由を知った―否、知らされたのは…。
すすり泣く声が小さくなっていき、落ち着いたのだろうかと思っていた頃だった。
「そのまま……そのまま、聞いて」
震える声で鼻を啜りながら小さく耳元で囁かれる。
一瞬、一哉の身体が硬直した。
綾は、そのまま続けた。
2人に取って終わりを意味する言葉を――。
「あ、あの男との結婚の時期を早める……って…言われたの」
しゃくり上げながらはっきりと口にした綾の言葉に一哉の瞳は、抱き合った状態で、一哉の肩に顔を埋めている綾には見えないところで見る見るうちに見開かれた。
そして、彼女を抱きしめていたはずの手から力を抜いて、だらりと腕を下ろした。
一度、強く瞼を閉じるとぐっと唇を噛み締めた。
それは、まるで彼自身に言い聞かせているような儀式のようだった。
最後に、急に自分を包む腕がなくなったことに驚いている綾の身体を己の身体から引き剥がした。
人一人、ましてや、女一人を引き剥がすには、あまりに強すぎる力でもって――。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (41)
出来れば、もう二度と来たくは無かった。
そう胸に思いながら、草壁 一哉は十年以上暮らした家の門の前に立った。
本来は、懐かしんでもおかしくないものだ。家というものは――。
しかし、彼にとって“家”という場所は、幼い頃は畏怖の対象。
今では、忌むべき対象であり、懐かしさなど微塵も感じるはずはなかった。
だが、それも今日で終わりを告げる。
ここを、家と呼ぶ間柄が消失するのだから――。
そう思いながら、閉ざされた門に手を伸ばした。
水原家の令嬢と彼女の婚約者である堺 正一。いや、婿養子に入った彼を堺と呼ぶには語弊があるだろう。水原 正一の結婚式、並びにその披露宴が盛大に行われたのは、昨日のことだった。
この結婚により、新たに水原を名乗る人間が一人増えた。
それは、水原の当主である男が考えた通りのシナリオでもあり、また、水原の名を名乗れるようになった男もそうであった。
ただ、当事者となった水原 綾は、決して望んでいなかったことだ。
そして、彼女のボディーガードを任されていた一哉は、これでもかというほど意匠を凝らされた衣装に綺麗に着飾られて晴れの舞台だというのに浮かない顔をして、明らかに身に着けているものに負けている彼女の傍に立ち続けた。
己が仕事を全うするために――。
それは、一重に苦痛の時間だった。
苦痛を感じていたのは、何も一哉だけではなかった。
彼女の表情がそれを物語っていたというのに、さらに彼女に「笑え」と酷なことを言った。
自分がそう口にしたときの彼女の表情は、決して忘れないだろう。
酷く歪んだ笑みを見せた。
彼女にそんな表情をさせているのは、自分だと分かっている。我ながらひどい男だという自覚は一哉とてある。
滞りなく式、披露宴を終え、実に満足そうな水原の当主と次期当主となるべく男に相反して、一番幸せを感じるべき花嫁は沈んだ気持ちから抜け出すことができないようだった。
すぐ側に本当に愛している男が居て、何故それでいて他の男との結婚を喜べようか――。
しかし、それを理解してくれる者は誰一人としていなかった。
己が愛している男でさえも――。
必死に取り繕っていた。
余裕のある表情と見せかけて実のところ余裕など全く無かった。
近く、他人の男のものになる彼女の側にいることは苦痛だった。
近く、彼女の夫になり、果ては己の雇い主となる男の戯言を聞かされるのは――。
彼女に幸せにはなって欲しい――。
しかし、それを見たくはない。
側で指を銜えてみていることしかできない自分にそれは何物にも変え難い苦痛でしかないだろうから――。
だから、離れようと思った。
彼女が気づかない内に――。
彼女と彼女の婚約者が新婚旅行に旅立った。
本来ならば、それに自分も同行するべきだったのだ。
しかし、卑怯にも勉学を理由にして、兄に任せた。
自分が付いて行かないということを知った彼女が驚き、悲しそうなそれで居て、責めるような瞳で自分を見ていたことにも気づいていながら気づかない振りをし続けた。
顔を伏せて、どこか暗い表情で庭の土を踏む学校指定の革靴を睨みつけていた一哉だった。
だが、鋭い視線を感じて顔をあげる。
そこには、すぐ上の兄である草壁 御津の姿があった。
憎悪むき出しの視線に、一哉は既に慣れており、またかと心の中で思うのと同時に、相手が更に不快な思いをするであろう笑みをふわりとその口許に浮かべた。
確かに一哉の思惑は外れてなかったようで、御津はぐっと奥歯を噛み、歯軋りをさせ、忌々しい表情を隠しもしなかった。
「お久振りです」
白々しくも涼しい表情でそう告げると醜い、苦々しい表情を浮かべ、吐き捨てるように相手は言う。
「どの面下げてきた」
「どの面?こんな面ですが、何か不満でも?急いでるので」
と御津の前を通り過ぎようとした。
しかし、肩を腕を掴まれて阻まれた。
ぴくりと一哉の表情筋が引きつり、即座にその手を逆に捻り上げていた。
「いてっ!!」
まさか反撃されるなどとは思ってもいなかったようで、突然走った痛みに悲鳴があがる。
反撃されないと思っていて、隙だらけの体を晒していること自体が馬鹿げていると一哉は思うのだが、それは痛みに顔を顰める彼にはわからないようだった。
ぎりっと更に力をこめてやるとますます野太い悲鳴があがる。
男のそれなど聞いていて愉しいものではない。
「何やってるの!?」
そろそろ離してやるかと力をかけながら考えていた一哉の耳に耳障りな甲高い悲鳴とも言える怒号が飛んでくる。
息子の悲鳴を聞いて飛んできたのだろう。
そして、既にこの世に存在はしていないが、憎らしい女の息子が己の可愛い息子の腕を捻り上げ、息子が痛みに顔を顰めているのを見た瞬間に声を張り上げていた。
一哉は、鬱陶しい奴が出てきたと思いながらパッと掴み上げていた御津の手を解放すると、いつものように厚塗りの化粧を施した女は、息子に駆け寄った。
それを冷めた目で見ていた一哉だったが、何食わぬ顔でわざわざ嫌な思いをしてまでここへ足を運んだ理由である本来の目的を果たすために、彼らの横を通り過ぎようとした。
「お待ちなさいっ」
声を荒げた女だったが、一切無視して家に中へと足を踏み入れる。
ヒステリックな声を上げて、自分の後を追ってくる女の存在に気づいてはいたが、放っておいた。
丁度いい。
迷うことなく、家の中の父の部屋の前に立つとノックもなしに部屋の中に足を踏み入れた。
室内に居たのは、父親だけでなく長兄の姿もあった。
2人で何やら話し込んでいた様子だったが、突如遠慮の欠片もなく開いた扉に驚き、室内にいた2人は部屋の入り口を怪訝な表情で見やった。
そして、2人ともそこに立つ末っ子の姿を見て一様に驚いた表情をした。
一哉は向かいあって話をしていた2人に険しい表情のまま近づいていく。
その一哉の後ろからけたたましい声をあげて追いかけてくる女の姿が確認できた。
それにも彼らは驚き、ぎょっとしたような表情で互いに顔を見合わせた。
一哉は、兄や煩く騒ぎ立てる戸籍上の母の存在を完全に忘れ去ったような様子で、父親の前に立つと顔色一つ変えることなく父に言う。
それは、最早、宣言に近かった。
「俺を勘当してください」
ただ、近くに居て見ていることしかできないことは苦痛だから――。
逃げることにした……。
そのために、草壁の名を捨てるんだ――。
――俺は、卑怯だから…。
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2008
Vizard (40)
言葉はなかった。
ただ、熱に浮かされたような浮遊感と互いの熱さだけがあった。
忘れないために、肌に覚え込ませるために触れ合う。
我武者羅に――。
望んだことなのに――。
何故、こんなにも苦しいのか…。
後悔はしないと決めて、来たのに――。
もう既に後悔し始めている。
こんなことをしても、彼は自分のものにはならないと分かっているのに…。
触れ合ってしまえば、離せなくなる気はしていた。
それでも、彼女の手を振り切ることができなかったのは何より、己自身だというのに――。
彼女は言った。
そんな顔しなくていいと…。
自分は聞いた。
後悔しないか。と。
聞いておきながら、後悔しているのは自分の方だった。
しかし、既に、彼女を振り切ることもできない。
こんな行為に意味を見出したことなどなかった。
ただ、快楽を求めるだけの行為だったはずがこんなにも苦しいものなのだろうかと。
気を抜けば、彼女を見失いそうになるのを必死に繋ぎとめ、触れる。
一度湧き上がった情欲は、若い2人には、毒ともいえる代物だった。
ただ、一心不乱に互いを求める。
これでもかというほど、肌と肌を密着させて――。
求め。
乱れ。
狂う。
この時間だけは、残る。
そう思いながら――。
まるで、所有者の印を残すかのように強く柔肌に歯を立てる。
「ああっ!…」
耳をくすぐる高い悲鳴にさらに気分が高揚する。
どちらのものともつかない体液で、2人の身体はどろどろ。
汗の匂い、互いの体臭、何もかも忘れずに記憶に残すかのように、確認する。
あますことなく触れられ、舌を這わされ、全身が性感帯になったかのように感じる。
「…もっと…」
強請る声は小さく、でも強く。
強請られるままに応じる手。それが、彼自身も望むことだからだ…。
恥じらいなど捨て去り、本能のままに求め合う獣の姿があった。
場馴れしたような少年の戸惑うことのない手に、嫉妬を覚える。
誰にも許していないであろう女の肌に高揚感を覚える。
熱に浮かされた状態に陥っていた綾だったが、今まで自分以外が決して触れることの無かった部位に一哉の指が触れ、入りこもうとしたときには流石に緊張し、身を固くした。
しかし、自分が望んだことなのだ。
あの望まぬ男に触れられる前に、どうか――。
頭で分かっていてもそう簡単に身体の緊張がほぐれるわけもなく。
ただ、身を固くする綾に、一哉は深いキスによって身体の力が抜けるのを待った。
指を挿し入れ、熱く熱を持った内壁を擦りあげる。
最初は、異物感しかなかったはずなのに、次第にむずむずとしたような感覚を脳髄に伝えてくる。
自然と腰が揺らめく。
それを知ってか知らずか、指が追加される。
初めは、そのきつさに眉間に皺を寄せた一哉だったが、次第に綻んでくるそこに満足したように笑む。
不用意に傷つけないためにも必要だ。
自分がしてやれるせめてもの優しさがその程度のことしかなかった。
それでも、指に代わり、一哉自身は流石にきつかったようで、綾は顔を痛みに顰めていた。
しかし、彼女は満足そうに笑うのだ。
それが余計に切なくさせる。
一哉は、それを振り払うかのように腰を動かした。
最初は、苦悶の声が漏れていた筈なのに、それはいつしか変わっていた。
そのことが唯一の救いだろう。
笑って今日のことを話せる日がくるだろうか――。
どちらも、若かったのだと。
彼女が眠るのを待って、一哉は身体を起こした。
そっと起こさないように彼女から離れて、ベッドを降りる。
床に散らばった衣類を集め、手早く身に纏う。眠った彼女を起こさないようになるべく音は立てないように――。
きっちりと服を着た後は、彼女の眠るベッドの脇に立ち、暗闇の中じっと佇み、寝顔を見つめていた。
ぎゅっと拳を握りしめて―。
決して、自分のものにはならない彼女を見つめた。
しばらく、そのままでいた一哉だったが、床に跪くと腰を折り、彼女へと己の顔を近づける。
ゆっくりと近づけ、寝息をたてる薄く開いた口に唇を触れ合わせるだけの口付けを落とした。
だが、すぐに離れると後は、彼女を視界から追い出して、部屋に掛けられているコートを掴むと静かに部屋を出る。
重ね合わせた唇が離れるときに、言葉を一つ残して――。
「好きだ…。愛してる」
この先、誰にも口にしないであろう言葉を唇の動きだけで落とした。
その言葉を何より望んだ彼女は、聞くことはなかった。
目が覚めたときには、そこに彼の姿は無かった。消えていた。
自分がいつも寝ているベッドとは違い、固く簡素なベッドの上。
手を滑らせてもう既に冷たくなったシーツの上を探る。
そこには、あったはずの人の影など微塵も残していなかった。
窓から差し込む朝の光はいつもと変わらなくて――。
変わらないことが凄く憎らしい。
自分たちは、昨日と同じではいられなくなったというのに――。
何故、自分だけが…。
ゆっくりと身体を起こす。
「いたっ…」
その拍子に走る身体の痛みに、顔を顰める。身体もどことなくだるい。
それが、昨夜にここで行われた行為の証だった。
掛けられていたシーツがするりと滑り落ちる。
それまで隠されていた素肌が露になる。
冬の朝は寒い。それは、いくら佇まいが立派な屋敷とて例外でない。
ぶるりと寒さを訴えて身体が震える。
しかし、やがてその震えは、慢性的なものへと変化した。
「……っく…ふ…」
身体に負担を掛けないように緩慢な動作で膝を立て、その間に顔を隠すように埋める。
声が漏れないように食いしばっているはずの歯は、いとも簡単に離れていき、喉の奥からはひっきりなしに嗚咽が零れる。
それは、次第に大きくなっていき――。
「…あああ…ぁぁああああ」
幼い子供が迷子になって、母親を呼ぶように、大きな声をあげてただ、ひたすらに泣いた。
溢れてくる涙を拭うことも忘れて。
肌を突き刺すような寒さも忘れて。
ただ、名を口にすることはなかった。
しかし、心の中ではひたすらにここにはいない人物の名をひっきりなしに呼んだ。
どうしてここにいないの―。と。
何故に、自分は人並みの幸せすら望んではいけないのか。と。
誰も助けてくれないと分かっていながら、助けを求めた。
冬の寒い日の朝のことだった。
誰も知らない秘め事。
「おはようございます。お嬢様」
憎らしいほど平然と涼しい顔で男は、口にするのだ。
2008
Vizard (39)
一哉は、後味の悪いまま夜を迎えていた。
簡素なベッドに横になっていた一哉だったが、寝つきが悪く何時まで立っても睡魔は訪れそうになかった。
知らず知らずのうちに彼の身体は、興奮していたのかもしれない。
それでもじっと睡魔が訪れてくれるのを待っていた一哉が漸く訪れた睡魔とともに、これで眠れると微睡んでいたところへ自分の部屋の扉が開く音を聞き、ぱっと目を見開き身体を起こした。
夜でも灯りが付きっ放しになっている廊下からの光が、僅かに開いた扉の隙間から室内に差し込む。
それと同時に扉に立っている人物のシルエットを写す。
暗闇から光が差し込んでくる時の瞳孔が慣れるまでの眩しさを感じながら、目を細めつつ部屋の入り口であるドアへと目を向ける。
ぼんやりとだが、一哉が捉えたその陰は細かった。
少しずつ目が慣れてきた一哉だったが、はっきりとそれを捉えるまでに、それは部屋の中に身体を滑りこませると後ろ手に空いた扉を閉め、そして一哉に飛びついてきた。
再び暗闇が訪れた室内の中で、一哉は飛びついてきたものから鼻腔を刺激する香りが、よく見知ったものだと悟り、目を見開いた。
甘い、それでいて不快にならない匂い。
思わず力ずくで抱き返しそうになるのを理性で堪えた。
―己のためにも、彼女のためにもならない。
非力な腕の力で自分に抱きつくその細い身体を引き剥がそうとして手に意志を込め、彼女の肩にかけた。
しかし、それは不意に紡がれた言葉にぴたりと止まる。
「分かってる」
何を?と問うような真似はしなかった。
続きを待つ。
彼女の肩に手を乗せたまま――。
それは、ただ一哉が彼女に触れる手を離せなかっただけなのかもしれない。
聞くだけなら、彼女に触れている必要などない。
「分かってるの…。一哉が私を嫌いなことも…」
思わず咄嗟に、違うと口にしそうになった。
しかし、数時間前にその口で彼女を傷つける言葉ばっかり吐いておきながら、今更どの面下げて訂正することなどできようか。否、もとより訂正するつもりもなかったことだ。
ただ、それを彼女に言わせていることに途轍もなく後ろめたさを感じるだけなのだ。
きっと――。
「でも…。でも、お願い」
と口にした彼女の声は震えていた。
綾は、一哉の肩に顔を伏せたまま何度も何度も、ここへくるまでに脳内で繰り返した台詞をもう一度、頭の中で繰り返した。
今まで以上に手酷く一蹴されるという最悪のシナリオも想定しながら…。
「最後、これで最後にするから……」
一度、間を置き、俯けて一哉の顔を見ないようにしていた綾だったが、ゆっくりと顔を上げて暗がりの中、夜目が効き、はっきりと知覚できる一哉の瞳をじっと見つめた。
一哉も黙ったまま自分へと向けられる綾の2つの瞳を同じように見返した。
「――抱いて」
静かな最後の懇願に、一哉は目を見開く。
想像もしていなかった台詞に、絶句し、言葉は出てこなかった。
肌と肌が密着しそうなほど近くで見詰め合っていた2人だっただけに、綾は一哉が驚愕の表情を浮べているのに気づいていた。
もう既に、―否、最初から嫌われているのだ。
今更どのように思われても構わない。
どんなはしたなくて、厭らしい女に思われようとも…。
たとえ、それが、一時のものでも構わない。
全てが欲しい。
この少年の――。
全てが……。
息をも忘れて綾の顔を見つめる一哉。
暗闇の中の彼女の表情は、真剣そのものだった。
――どこまで……。
どこまで、愚かなのか…。
自分という人間に、そこまで捧げるとは――。
そして、それを拒絶できない自分という人間は――。
表情の静けさとは打って変わって、心臓は五月蝿いくらいに早く拍動を繰り返していた。
相手にそれが聞こえているのではないか…と危惧したが、それも今更のことだ。
じっと、一哉が口を開くのを待つ。
それは、ひどく長く、そして、ひどく怖い時間だった。
期待というよりは、恐怖――。
しかし、その時間は唐突に終わりを告げた。
「きゃっ」
軽い悲鳴があがる。
ぐいっと強い力で引き寄せられたかと思ったら、世界は反転していた。
簡素なベッドの上に仰向けに転がされ、上から睨みつけるような一哉の視線が自分へと注がれていることに気づく。
獲物を狙う肉食獣のような男を感じさせる強い眼差しにどきりとして、身体にさらに緊張が走る。
顔は紅潮し、早鐘を打ったように心臓がバクバクと脈打つ。
「後悔するなよ」
と口にしたのは、一哉自身なのに、一哉の方が苦しそうな声で、苦しそうな表情をしていた。
綾は、そっとすぐ近くにあるその彼の頬に手を滑らせる。
冷たいその感触。
忘れないように、指先に覚え込ませるように滑らせた。
「しない…」
はっきりと口にした。
射竦めるような視線に臆することなく、同等の―いや、それ以上の眼光の強さで見据えて――。
そして、告げる。
「しないわ。だから、そんな顔しなくていいの」
一哉は、綾の言葉にはっと顔を硬直させた。
「悪いのは、私。我侭言って困らせて…。だから、一哉がそんな顔しなくていいの」
ぎりっと奥歯を噛み締める一哉だった。
自分がどんな表情をしているかなんて分からなかった。
知らず知らずの内に、余裕を失くしていたに違いない。
優位に立っているようで、実のところ包容力を要していたのは、綾だった。
「…最後の……」
一哉は、まるで気まずさを覆い隠すかのように、綾が皆まで言い終わる前に少し乱暴な動きで綾の唇を塞いだ。
突然の性急な動きに、最初こそ目を瞠って驚き、2、3度身じろぎをした綾だったが、すぐに静かに瞳を閉じて、自分よりも2つほど年下の少年から与えられるものを感受した。
一哉の動きも性急で、乱暴なものだったが、それはすぐに形を潜め、後は泣きたくなるほど甘くて静かでいて柔らかな手だった。
忘れるための行為。
諦めるための行為。
忘れないように、肝に命じるように、2人は触れ合った。
2人だけの暗い空間で…。
忘れるための、諦めるための――忘れられない甘い、切ない口付けを交わす。
誰にも邪魔されないこの場所で…。
2008
VIzard (38)
「か…一哉?」
強い力で引き剥がされて驚きに目を見開いた綾は、力の入らない声で一哉の名を口にして、目の前の先ほどまで自分を抱きしめてくれていたはずの男の顔を食い入るように見つめた。
一哉を呼ぶ声は、掠れていた。
動揺する声を聞き、揺れる瞳を見て、一哉が何も感じない訳がなかった。
あの日―綾が攫われた日に自覚した気持ちは、今ではすんなりと受け入れられている。
しかし、2人を取り巻く環境は、2人にそれを許さないのだ。
綾と一哉の2人に残された道は、別々の道だけ―。
だから、敢えて一哉はその顔から悲痛な表情は一切消失させた。
何も感じさせない―最初から一貫して綾に見せてきた寧ろ、一哉の心など知らない綾からしてみれば馴染みとも言える冷たい氷のような表情をその顔に被った。
仮面のように――。
さぁ、幕を降ろそう――。
不毛で救いようのない時間に――。
自分たち…、否、自分に――。
「長かったな」
綾から顔を逸らし、彼女に背を向けながら大袈裟に息を吐き出し、疲れたような表情をしてみせる。
視線だけで綾を見ると、綾の目は驚愕にみるみるうちに見開かれていく。
誰だろうか。
目の前の彼は―。
とても、ついっさっきまで自分を抱きしめていてくれた人物と同一人物には綾には、見えなかった。
酷薄な笑みを口元に浮かべ、冷めた言葉をその己の名を呼んでくれた口から吐く。
彼に体温など感じられなかった。
眉間に皺を寄せ、驚愕に見開いた表情のまま、固まるしかなかった。
それを可笑しそうに笑うのは、一哉だった。
「これで、お役ご免だろ?」
敢えて同意を求めるように尋ねる。
その表情は、まさに面倒ごとから解放されようとしている清清しいまでの表情。
相手のそんな表情を見せられて、綾の表情は凍りつき苦渋に満ちた表情になっていく。
「何、呆けた顔してるんだ?」
小馬鹿にしたような一哉の物言い。
綾には、この現実を受け入れられそうにはなかった。
ただ、誰かに嘘だと言って欲しかった。
だが、それを否定してくれる人間などこの場に誰もいなかった。
綾に降りかかるのは、酷とも言える現実だけで――。
救いの手を差し伸べてくれる者も、助けとなる者もいなかった。
いつまでも呆けた顔をしている綾に言い聞かせるつもりで、一哉は口にする。
最初の言葉を――。
「最初に言っただろ」
「…な、何を」
身体が心がそれを聞くことを拒否していた。
一度は止まったはずの涙が、後から後から湧いてくる。瞬きも忘れて一哉を見る綾の目に―。
溢れてきた涙は、重力にしたがい頬を滑り落ちる。
零れ落ちたときには生暖かい温度をもっていた涙は、時間の経過とともに外気にさらされ、熱を失い頬を伝い、顎を伝い床に落ちるときには冷え切っていた。
近くにいるのに、一哉の顔は見えなかった。涙によって遮られた視界によって――。
そんな綾に酷い男は言う。
「期限がきたら終わりだ」
ひどく冷めていた声だった。
もとより、感情を一切感じさせない言葉を吐く少年ではあったが、綾の知る中でも一番冷めた声に感じられた。
感情など持たない機械のような―。
「そんな……」
「何をそんな驚いた顔している?最初から言っていただろ」
愕然と信じられないというように口にした綾を鼻で笑う。
「お前のことは好きにならない――」
ぶわっと堰を切ったように綾の瞳に今まで以上の涙が溢れてくる。
じゃあ、最初から―。
あの時…、自分が攫われたときに名前を呼んで一番最初に駆けつけてくれて助けてくれたのは―。
自分の立場も省みずに、そんなことをすれば自分の立場が危うくなると分かっていて、義理の兄である宗司を殴って、一喝してくれたのは―。
全て、嘘だったというのか―。
聞きたいことは沢山あっても、言葉にならなかった。
「期限が来たらとっととあの男と結婚しろって言ったよな?今度は、どんな我侭も認めないともな」
そう言うと一哉は、くるりと背を向けた。
それが、綾にも滲む視界の中で分かった。
咄嗟に一哉の名を口にしていた。
「か、一哉!」
縋るような綾の声に一哉は、舌打ちをした後、深く瞼を瞑った。
自分は、振り切ろうとしているのに…。
何故、大人しく引き下がってくれないのか――。
どう足掻いても、自分たちには明るい未来など一切ないのだから――。
綾の耳にチッと大きな舌打ちが聞こえてきて、彼女は、はっとする。
次の言葉を模索する綾の鼓膜を刺激したのは、壁を叩きつける大きな音だった。
ガンッ――。
その音の大きさに驚き、一歩後ずさる。
「…この際だから言っておく」
低い―腹の底から出すような声音。
自分のことなんか嫌ってくれ―。
嫌いになって忘れてしまえ―。
「昔も今も俺はお前みたいな奴が一番嫌いだ。何でも思い通りになると思ってるその根性に虫唾が走る。勘違いすんな。俺がお前の我侭に付き合ったのは、お前が俺と付き合うことであの男と結婚するって言ったからだ」
はっきりと口にされた拒絶の言葉。
がくりと床に膝をつく。
項垂れる綾を見て、一瞬、ほんの一瞬だけ、一哉の表情が苦渋を刻んだ。
そして、振り切るかのようにして綾の部屋を出た。
大股な足取りで部屋の外に逃げると扉を乱暴に閉める。
閉めた途端に一枚の壁を挟んでも聞こえるような綾の嗚咽を耳にしてしまった。
罪悪感と悲痛な気持ちから逃げるようにしてその場を足早に去る。
決して逃げられることなどないと分かっていながら―。
酷い言葉を口にしたのは一哉自身のはずなのに、彼が自身に割り当てられた部屋に戻る頃には、彼の瞳は紅く染まっていた。
ダンッ。
自室の部屋の扉を閉め、背を扉に預けるとずるずるとその場にしゃがみこむ。
まるで誰も入ってくるなと抗う幼い子供のように。
「…っく…」
歯軋りの音が聞こえそうなほど、歯と歯を食いしばって零れてきそうになる恨み言を堪える。
何、分かっていたことじゃないか…。
最初から自分たちには、別れしか用意されていなかった。
自分もそして彼女も狭間に落ちて抜け出せなくなった愚か者でしかないのだ。
誰か…。
誰でも良い。
助けて――。
教えて欲しい。
感情に蓋をする術を。
愛しいと思える者を嫌いになれる方法を――。
しかし、そうあることを…なれることを望んでおきながら、そんな方法などないことを、綾も一哉も一番に理解していた――。