形容し難い腹立たしさを抱えて男は、長く続く廊下をいつもより大股で歩いていた。
間違いなく誰かが通りかかろうものなら男の憂さ晴らしの餌食になっていたに間違いないであろう。
何故、自分があんな使用人より軽んじられなければならないのか――。
男―堺の怒りの原点はそこである。
何故、たかが小娘に叱責されなければならないのだ――。
女は、黙って男の言うことを聞いていればいい。
堺は、懐古的志向で封建主義的な考えの持ち主だった。
何故、男の自分が力も女の綾に命令されなければならないのか――。
水原の次期当主は、他の誰でもない自分なのだ。
したがって、誰であろうと自分に従うべきなのだ。
それが、どうだろうか――。
実質、強いのは綾であり、自分は軽んじられているではないか。
堺にとって、業腹以外の何物でもない。
何もかもが目障りだった。
結婚して数日も経たないというのに、不満は今にも爆発しそうなほど膨らみつつあった。
そんな彼を抑えているのは、将来、現当主の死後、全ての財産が手元に転がり込んでくるという希望だった。
部屋の扉が閉まる音が聞こえたが、一哉は振り返ることはしなかった。
着ていたコートを脱ぎ、ハンガーにかける。
綾は、一哉の一つ一つの動作をじっと見つめていた。
熱に浮かされたように――。
いつまで経っても話をする気配のない綾に、一哉は彼女に背を向けたまま問う。
「新婚旅行中断してまで、戻ってくるほど言いたいことがあるんだろ。さっさと言え」
その苛立ったような声音に綾の顔が俯けられる。
こんな声を聞くだけで泣きそうになるのだから、重症だろうと綾は自分で思った。
自分より大きな、服の上からではわからないが、鍛えられた背中に飛びつくことができたら――。
しかし、そんなことできやしない。
どうして、こんなに近くにいるのにそんなに遠くに感じられるのか。
しかも、一哉は自分から離れようとしたのだ。
どうして――。
どうして――。
どうして――。
いくつもの疑問符が綾の中で形にならないまま、消えていく。
「わ…私のこと、…そんなに嫌い?」
言いたいこと聞きたいことは、他にも沢山あったはずなのに――。
綾の口から出てきたのは、今にも消えそうな小さな問い。
彼女の不安を表しているようだった。
背中を向けたまま、一哉は奥歯をぎりっと噛み締めた。
――違うと言えたら…。
どんなに楽か……。
言えないからこそ、言おう。
「嫌いだ」
これ以上ない嘘を――。
彼女のための嘘を――。
自分を楽にするための嘘を――。
嫌いになることは難しい。
だから、嫌ってくれ――。とただ、願ってその言葉を口にした。
綾は目を見開いて、一哉の背中を見た。
次第に、涙で霞んでいく。
「だから…、籍を抜けたいの?…私の傍から…」
「言えば、抜けさせてくれるのか?」
ひどい男は、くるりと背を向けるとシニカルな笑みを浮べて言う。
涙が浮かぶ瞳で一哉の顔を睨みつける。
そんな綾の視線など意に介さず、笑みを浮かべ続ける。
こんなことで罪悪感を感じていては、駄目だ。自分には、そんな感情を感じる資格などないと言い聞かせて――。
苦しい表情をさせているのは自分なのだ。
泣かせているのは、自分なのだ。
だから、そんな資格などない――。罪悪感も感じてはいけない。
「そんなこと許さない」
喉の奥から絞りだされたようなくぐもった声。
一哉は、綾の答えに笑みを作るために持ち上げていた筋肉をふっと元に戻し、一瞬にして無表情になった。
「あ、そ。言いたいことはそれだけか?満足したら出てけ」
「お願い!もう我侭も言わない!だから、傍に居て…。いなくならないで」
背を向けようとした一哉の腕を咄嗟に掴んで懇願する。
綾は、一哉が大きく息を吐き出すのを聞いた。そして、きっと呆れているのだと思った。
一哉は、自分の腕を掴む綾の手をやんわりと握って、離させた。
「お前は、水原の人間で、俺は、草壁の人間だ。その時点で、俺はお前に従うしかないんだ。逆らうことなんてできない。例え、どんなに嫌な奴であろうと逆らうことはできないんだよ。馬鹿なことばかり言ってないでとっとと旦那のご機嫌伺いでもしてろ。今頃、お冠だぞ」
そう言うと綾の身体を反転させ、とんっと軽く背中を押した。
それほど強い力ではないはずなのに、足が自然と前へ出る。
一歩前に出た足につられるようにして、さらに反対の足も前に出た。
狭い部屋では、すぐドアまで辿りついてしまう。
ドアノブに手を触れながら、一哉を振り返る。
だが、綾の視界に入ってくるのは、背中だけだった。何も言わない背中だけでは、一哉が何を考えているかも分からないし、表情も見えないため、どんな顔をしているのかすら分からない。
「どこにもいかないで…」
最後に弱弱しい声で懇願する。
「それが、命令なら従ってやる」
早く出て行け―。と思いながら極力冷徹な声で答える。
自分のことなど見ずに、振り返らずに前だけを見ていろと思っても言葉にしなければ永遠に伝わらないままだ。
しかし、どの面下げてそんな偽善者めいた言葉を吐けようか――。
ガチャリと扉が閉まる音と同時に、力が抜けたように近くにあったベッドに倒れ込むようにして身体を横たえる。
綾の細い手が触れたところが熱を持ったように熱かった。
触れた指の温度は冷たかったはずなのに――。
部屋の外に出た綾は、零れてきそうになる涙を拭った。
未練がましく涙に濡れた赤い瞳で部屋の扉を見つめ、中にいる人物のことを思った。
他の何を置いても傍にいて欲しいのは、彼なのに―。
自分の言葉は、伝わらない。
家のチカラでしか、引き止めることができない――。
どうして、本当に欲しいものは手に入らないのか――。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
嫌いな方・興味のない方・間違っちゃった方はバックバック
2008
Vizard (45)
己の言い分が認められず、苛立ったまま一晩を迎えた。
結局は、自分はここから抜け出すことはできなかった。
気づけば、夢の中で、目が覚めると朝になっていた。
陰鬱な日々が始まりを告げると思い、鬱々とした気分を抱えたまま一人で学校へと向かった。
屋敷の主である水原からは、綾がいない間は、自宅に帰っていいとも言われていたが、到底そんな気になれるわけなどなく、己の守るべきものもいない当主の屋敷で寝食をすることにしていた。
その他、同級生と同じように一般の高校生らしく学校での無駄とも思える時間を過ごした後、屋敷へと帰る。
以前のように、――綾とままごととも言える恋人ごっこをする前のように寄り道をする気にもなれない。
大人しく、帰路についた。
一哉にとって綾が帰ってくるまでの約2週間の生活における普通の生活というのは、ここまでだった。
屋敷の門をくぐり、使用人専用の屋敷内に入るための勝手口のような扉を開けた瞬間に固まってしまった。
そこに立っていた人物を見て――。
――何故、ここにいる。
そうだ。
今頃は…。
「一哉!」
一瞬は、珍しくも幻覚かと非現実なことすら考えた。
ただ、呆然と目の前に立つ姿に目を瞠るばかりだった。
自分を呼ぶ高い声にはっと我を取り戻した。
「な…何故」
驚きのあまり、うろたえたようなふがいない声が滑り落ちた。
対峙する彼女が一歩、また一歩と近づいてくる。
そして、彼女の背後から自分を睨みつける2人の男の存在に気づいた。
二人とも彼女と一緒に今頃ならば、異国の地にいるはずの人間。
一人は、兄。もう一人は、彼女の夫。
自分が従うべき相手――。
「何故ここにいるんですか?」
「それをお前が言うのか?」
一哉の問いの答えではないが、そう口にしたのは、兄だった。
目の前の綾から兄の宗司に視線をずらす。
「宗司は黙ってて」
「申し訳ありません」
帰国の途につく際にひと悶着あった時から、綾の宗司に対する態度はきついまま一向に和らぐことはない。
今も、綾からの睨みと強い口調で言われ、宗司は慌てて頭を下げて下がった。歯軋りをしながら――。
どうも綾の宗司に対する態度に違和感を覚えながら、綾へと視線を戻そうとすると今度は、堺の不機嫌な声が、一哉の鼓膜を刺激する。
「きちんと納得のいく説明をしろ。お前は、私達の新婚旅行を見事にぶち壊したんだからな」
尊大な物言い。
それよりも堺の新婚旅行を自分がぶち壊したという言葉の方が一哉には、引っかかった。
しかし、彼もまた宗司と同じように綾によって引き下がらざるを得なかった。
「あなたも黙ってて。大体、一哉は私のボディーガードであって、あなたが一哉にそうやって偉そうに言う権利はないわ」
「…っく」
一番不機嫌なのは、この場において綾だったのかもしれない。
「あなた達は邪魔。下がって」
強く言われると男達に食らいつく術はなかった。
すごすごと引き下がるしかない。
その姿は、哀愁を誘う。
一哉は、一瞬気の毒に思ったが、恐らく自分も例外ではないのだろうと綾を見て思った。
恐らく彼女の怒りの矛先は己へと向けられたものに違いないであろうから――。
男達が去っていくのを見送った後、綾は一哉へと視線を向けた。
彼女を急遽帰国させることになった原因である男を――。
鋭い双眸に見つめられて、居心地の悪い思いをしながらも彼女の名を呼ぶ。
「お嬢様?」
二度と“綾”と呼ぶことはないであろう一哉。
その声を聞いているだけで、苦しくなっていたのに、今はどうだろうか。
決してそのようなことはないのだが、綾がそう捉えても仕方ない振る舞いを続けただけに綾自身は一哉に嫌われていると思っている。
どれだけ彼に嫌われていると分かっていてもこの愛しい存在が、自分の側から離れていくことを想像しただけでも恐ろしくなる。
触れ合えなくてもせめて側に…と望むのは間違いなのだろうか――。
その存在が離れていこうとした不安とその不安を勝る、綾の不在時を狙って姿を消そうとした彼に対する怒りが綾の中ではぐちゃぐちゃになりとぐろを巻いていた。
自然と語気は強くなる。
「お嬢様じゃないわ。草壁の籍を抜けたいだなんて何を考えているの?」
責めるような瞳と言葉に一哉は、綾を直視することはできずに、苦笑を浮かべながら視線を逸らした。
なるほど、それで急遽帰国したという訳かと…。
しかし、たかが使用人1人のために帰ってくるなんて――。
その彼女の行動を愚の骨頂だと思う彼がいるのと同時に、それをどこかで喜んでいる彼がいるのだ。
時として、心はあまりに自分に対して正直すぎる。
悲しくなるほどに――。
その喜びは束の間のものでしかないというのに……。
一人になったときに虚しさは倍増するということを知っているというのに…。
一時的な喜びがそれを上回るのだ。
綾は、笑われたことに腹を立てたのか、自分を見ていない彼に腹を立てたのか。
一哉の顔に手を伸ばして両頬を強く叩きつけるように挟むと自分の方へと向ける。
パチンという小気味いい音とともに、痛みが走る。
衝撃に、閉じた目を開けるとすぐ目の前には触れ合いそうなほど近くに綾の顔があり驚く。
しかし、すぐにその手を乱暴な手つきで振り払って綾とは距離を置いた。
「軽率な行動は慎め」
小さくそう言いながら――。
一哉の頬に触れていた手が離される時に一哉の指が掠めたところが熱を持つように熱かった。
「何で戻ってきた」
「あ、一哉が…籍を抜けるって聞いて。勿論、草壁が許さなかったということも聞いたわ…」
「なら、何故戻ってきた。うまくいくものもいかなくなるぞ」
聞いているのなら、戻ってくる必要などない。
そう責められているようだった。
それは綾の気のせいではなく、一哉の考えそのものだった。
くるりと背を向けて綾の前から去ろうとする一哉に向かって綾は声を張り上げた。
「どこにもいかないでよ!」
ぴたりと一哉の足が止まる。
振り返った先では、綾が瞳に涙を溜めて一哉を見ていた。
こんないつ他の誰かが聞いているかもしれないところで、言う言葉じゃない。
誤解―誤解という言葉すら語弊があるが、聞き手によっては、どんな風に取られるか分かったものじゃない。
「静かにしろ。話があるなら部屋で聞く」
まるで自分を押し殺すような低い声で言うとそのまま先へと進んだ。
ぺたぺたと自分の後ろをついてくるスリッパの音を聞きながら…。
2008
Vizard (44)
「帰る」
力ない声で呟かれた言葉に男達はぎょっとした。
何を馬鹿げたことを――。と、誰もが思っただろう。
彼女にそのことを知らせた宗司ですら驚いているのであるから、主役となるべきであろう男の堺は尚の事驚いているに違いない。
愕然とした表情を浮かべて立ち尽くしている堺を宗司はちらりと盗み見た。
憐れという言葉がこれほど似合いものがいただろうか。
ぽかんと口を開け、背を向けている綾の後ろ姿を堺は、食い入るように見つめる他ない。
気が触れたかと思える言動。
何をしに異国へ来たというのか――。
自分達は、ここに新婚旅行に来たのではないのか。
それがどうだ。
たかが護衛の一人が何を言い出したのか知らないが、興味もないが、その一人のために夫である自分をおいて、着いたばかりだというのに帰ると言い出す始末。
自分の立つ瀬がないではないか。
一体、何を考えているのか…。
神経を疑いたくなるというものだ。
これでは、まるで夫である自分よりも日本で何やら騒動を起こしている護衛の方が大事と言っているようなものではないか。
惨め以外の何物でもない。
男としてのプライド以前に人としての尊厳を傷つけられたも同然。
堺は憤然とした。
何にと問われれば、全てに――。
もたらされた情報に困惑し、自分のことなど忘れ去り、一緒にいるのはこの自分なのに、全く振り返りもせずに帰ると喚く綾に。自分になど全く興味がないと言わんばかりの態度。
長年近くにいたのならば、彼女が動揺するだろうことは、分かっていたであろうに、わざわざこの場で余計なことを彼女に吹き込んだ宗司に。自分が軽んじられているように感じられて当然だ。
そして、離れているのに綾の意識を占有する若い少年に――。何故、たかが従僕に己が負けなければならない…。
一方の綾は、驚く周囲を余所に目の前にいる宗司の腕を掴んで、欲求する。
「帰る!日本に帰るわ。飛行機のチケット取ってきて」
当然、この場において止めるのが定石だろう。
そして、綾を落ち着かせることが必要だ。
徒に動揺させ、このまま日本に帰ったとなれば堺が気の毒でならない。自分のような配下のものにそう思われても迷惑かもしれないが、堺の立場を思うと不憫でならない気持ちになる。
周囲のものは、皆、宗司と同様にあからさまに堺のことを気にしているというのに、一番気にするべき綾は、背後の堺を気にした様子もみせない。
とはいえ、宗司がするべきことは堺を気の毒に思うことでなく、綾を落ち着かせ、この場に留まらせることだった。
綾にとって一哉がどんな存在か把握していなかった―仕切れていなかった、宗司はすぐに宥めることができるだろうという不安定な確信と妙な自信だけはあった。
次の一言で抑えられるだろうと甘い予測すら持っていた。
「お嬢様、落ち着いてください。大丈夫ですから、父が許しませんでした。今までどおり、お嬢様のお側にいます」
その言葉にふわりと宗司のスーツごと腕を掴む力が弱くなる。
それにほっと安心した様子の宗司。
これで大丈夫だろうと束の間の安堵に浸った。
「ほんと…うに?」
「ええ。当然です。お嬢様や旦那様をお守りするお仕事は、草壁の人間にとってこれ以上ない名誉です。いくら一哉とて、それを放棄することなどしないでしょう。どうせ、気まぐれです。至らない弟で申し訳ありません」
ここにはいない義弟に代わりに頭を下げる。
ここまでしておけば大丈夫だろうと思った。
そして、心の中で弟を罵倒した。
一体、何様のつもりだ。と。
自分は、みっともなく縋りついてでもこの場を守るのに必死だと言うのにいともたやすく自分から放棄しようとした弟の気が知れない。
「…良かった…」
と心底安心したような声を漏らす綾に、ぎりっと奥歯を噛み締めた。
この姿を、一哉に見せてやりたいくらいの気持ちだった。
そうすれば、自分のしでかしたのことの大きさに気づいたはずだ。
この貸しは高くつくぞと思った。
「ですから、お嬢様は安心して、新婚旅行をお楽しみください」
という宗司の言葉に、はっと息を飲み、体を硬直させ、驚いたような顔をしてみせる。
それは、今の今まで自分がここへ来ていた目的を見失っていたということの証だ。
いよいよ、堺が浮かばれない。
唯一の救いは、綾が堺に背を向けていたことだ。
何とかなりそうだと肩の力を抜いた宗司に綾の意外な言葉が返ってきた。
それは、宗司には、予想すらしていなかった。できなかった。
「そ…そうよね」
綾の口から出た言葉に誰もが安堵した。
一番安堵していたのは、宗司だったかもしれない。
しかし――。
「そうです」
「でも、帰るわ」
綾の言葉に合図地を打つように口にした宗司の言葉を遮って、今度は動揺した様子も全くなく、はっきりと迷いのない声で口にした。
「え…」
それは、誰の口から漏れた言葉だろうか――。
一瞬にして、和みかけていた空気が緊張を纏う。
踵のヒール音を鳴らして綾は、硬直する宗司の横をすり抜けた。
慌てて後を追う宗司。
「お嬢様!!」
その宗司の大きな声には、空港の他の客も驚いたようで、ちらちらと綾たちの方向を見てはこそこそと怪訝な表情で彼女達を見ては話している。
意に介した様子を見せないのは、綾一人だけだった。
堺にいたっては、愕然とした様子で離れていく綾とその綾を追いかける宗司の背中を追いかけることしかできなかった。
「お嬢様!お待ちください」
「帰る」
「これは新婚旅行ですよ。お嬢様と堺…いや、正一様の」
「何よ。旅行なんて暇なときにでも行けばいいじゃない。今は、帰るの。一哉の方が気になるわ」
「お嬢様!」
行く手を阻むように立ちふさがる宗司。
それを煩わしそうに見上げる綾。
「いいわ。そんなに言うならあなたが私の代わりにあの男と愉しんできたらいいじゃない。私は、日本に一人でも帰るわよ。邪魔をするなら放っておいてくれないかしら」
ぎろりと睨みつけられ、宗司はひるんだ。
長年、彼女についているが、これほど敵意を向けられたことなどない。
宗司にはどうしたらいいかわからなかった。
ただ、これ以上彼女を怒らしてはいけないとだけ思った。
それこそ、この旅行が終わり、日本に帰ったとき、自分はじきじきに引導を渡されてしまうかもしれないとここでも己の身を危ぶんだ。
折れたのは、結局のところ宗司の方だった。
「わ…わかりました。お嬢様を一人で日本に帰すことなどできません。手配してきます」
「ふん。最初から素直にそう言っていればいいのよ」
今更、機嫌を取ろうとも遅いというような態度で鼻息荒く綾が言うのを聞き、自分の選択と見誤りを後悔した。
何を置いても優先すべきは、綾だったのだと認識を新たにした。
「少々お待ちを―」
「早くして頂戴」
異国に降り立って数分も経たないうちに、新婚旅行に来たはずの2人の新しい夫婦の帰国が決まった。
2008
Vizard (43)
答えを待つ時間は、凄く長く感じられた。
それは、一哉だけではなかった――。
固唾を飲んで見守る。―そんな言葉がぴったりと当てはまるような空間の雰囲気だった。
その場に居合わせた誰もが、男の口から出てくる答えを待っていた。
――なんと答えを出すのか。
睨みあいに近い、眼光の鋭さで互いの視線を交わす。
過去にこれほど顔を付き合わせたことはあっただろうか――。
無かったとすれば、皮肉なものだ。
親子関係を断ち切れと息子から迫られたときに、初めて長く顔を付き合わせる親子などどこに存在しようか。
「何故だ?」
誰もが疑問に思うことだった。
疑問に思うこと自体が不思議といえば、不思議なのだが――。
これまで、この家に引き取られてからというものの、どれだけ罵倒されようとも謂れのない暴力に大きな傷を作っても顔色一つ変えなかった。
だからこそ、年々その勢いは増していくばかりだったのだが、そんなもの意に介した様子もなく日々を消化していた一哉だ。
否、時期を待っていたというべきだろうか――。
その理由として、庇護が無くなることを避けたという考えもあるだろうが…。
並大抵の忍耐力では、その環境に耐えうるのは至難の技とも言えよう。
それが、何故この微妙なタイミングでこの家から出て行くというのか…。
誰もが分からないのだ。
当然と言えば、当然。
その答えは一哉の中にしか存在しない。一哉の心にのみ、その理由がある――。
彼らには、いくら逆立ちをしてみたところで、それを探り当てることも、理解することもできないだろう。
「何故?…もう嫌なんですよ。何もかも……。それが理由です」
卑屈な笑みを浮かべて答える。
「あなた、何勝手なこと言って」
背後から聞こえてきた耳障りな高い声に一哉は顔だけをその声のした方に向けた。
ひどく暗い視線をその身に受けた女は、すぐに口を噤んだ。
「勝手はどっちですか?親を亡くして、右も左もわからない子供にあんたは一体何をした。俺に死んだ母親を重ねてうさを晴らしてただけだろ。まだ足りないっていうのか?」
一哉の言い草に女の顔が気色ばむ。
顔を真っ赤にさせて、一哉に掴みよるが、いとも簡単にそれを振り払うと女はみっともなくも床に尻を強かに打ちつけた。
ますます憤慨し、顔を紅潮させ、自分を下から睨みつける女を一哉は、上から見下ろす。
「一哉。止めなさい」
静止するような父親の言葉に再び、父親に視線を戻す。
「答えは?」
取り繕う必要もないと感じたのか、一哉はぞんざいな態度で父に問う。
彼は、再び口を噤んで一哉の顔を難しい顔で見つめた。
緊迫した雰囲気の中でどれくらいそうしていただろうか。
父と子の睨み合いが続く中、父親はふっと一哉から視線を逸らして大きく息を吐き出した後、重く言葉をその唇に乗せた。
「駄目だ」
一哉の目が一瞬、見開かれた後、鋭い目つきになった。
ぎりっと奥歯を噛み、握っていた拳が震えだすほど強く握った。
「ならん。それだけは、ならん」
一哉を見ないのは、相変わらずだが、首を何度も横に振り、同じ言葉を繰り返す。
「何故!?」
今度は、一哉が声を荒げた。
流石にそれには、驚いたようで、父親は下を向けていた顔をぱっと上げて息子の顔を見た。
「お前には、旦那様やお嬢様が絶大な信頼を寄せている…。今、ここで出て行かれるのは困る」
―そんなもの知るか…。
そう怒鳴りつけられたらどれだけ気分がすっとしただろうか。
ただ、思ってはみても行動にできない自分が恨めしかった。
ここで自分がいくらごねても結果は変わらない。
また、こんな父の言葉など無視して家を飛び出すということも考えない一哉ではなかったが、冷静に考えてみれば、その後が危うくなる事は明白だった。
自分がいなくなったことで、草壁がどうなろうと関係ない。寧ろ、めちゃくちゃに崩壊してしまえばいいとさえ思っている。主家である水原の不興を買って…。
しかし、水原の大きさは一哉にとっても脅威だった。
恐らく、信頼を置かれている分だけ裏切ったときの対応はさまざまな筈だ。
そのためにも名目が必要だと考えたのだ。
勘当されたとあれば、誉められたものではないが、一応の理由にはなる。
だが、目の前の男にそうすることへの度胸はない。
主からの信頼を失うことを恐れて――。
何代も前から続く、長年の水原の関係のことを考えるとここで、一哉を手放すことが得策ではないのは、誰が見ても明白だった。
「……そうですか…」
力なく返事して、一哉はそれ以上の返答を聞くのを拒否するかのように背を向けた。
聞くまでもない。
分かっているから…。
「弥一」
背を向けた一哉に対して、父親は一番上の息子の名を呼んだ。
名を呼ばれた彼は、まるで最初から心得ていたかのように今、まさに部屋を出て行こうとする一哉の後を追った。
一哉は、自分の後を追ってくる気配に気づき、ぴたりと足を止めて振り返る。
父親の危惧していることが手にとるように分かったからだ。
振り向いた一哉と同じく足を止めた弥一は、弟の顔を見て戦慄に近いものを覚える。
得体の知れない何かを感じて――。
「ついてこなくていいですよ」
薄っすらと笑みを浮かべる姿は、先ほどの苛立ちに任せて父親に迫っていた姿とは到底、同一人物とは結びつかない。
これは、誰だと問いたくなった。
笑っているのに、笑っていない。作り笑いは、誰だってするものだ。少なくとも自分にだって覚えがある。
しかし、こんなに威圧感を覚えるものをかつて自分は目にしただろうか。
「馬鹿な真似はしませんよ。心得ていますから」
とだけ言うと、背を向けて部屋を姿を消した。
何となく、そう何となくだが、弥一は後を追うべきではないと思ったのだ。
「何をのんびりしてるんだよ」ともう一人のこの場に運悪く居合わせた弟に詰られたが、彼にはわからないのかと思った。
ある意味で、だからいつまでたっても愚鈍なままなのだと妙に納得している自分もいたが、煩く喚きたてる外野は無視して、父親を見返すと構わないというように彼は、一度大きく頷いた。
だから、弥一もそれ以上、一哉の後を追いかけるようなことはしなかった。
内心で、後を追えと言われたらどうしようかとも思っていたので、ほっと肩の力を抜いた。
そして、気づく知らず知らずのうちに手のひらに汗を掻いていた。
己の手をただ呆然と見て、思った。
もしかして…、まだあどけなさを残す少年に過ぎない彼が、途轍もない化け物を腹に飼っているのではないかと――。
自分達は、見誤っていないかと――。
それは、ただの予感でしかなかったけれど……。
2008
Vizard (42)
「俺を勘当してください」
一哉の言葉に誰もが息を呑んだ。
それは、一哉の兄である弥一や御津、果ては一哉に既にこの世から去った女の影を映し、10年以上もの長い間、目の敵にしてきた女ですら驚きを隠せなかった。
複数もの瞳が自分へと向けられているのを感じる。
しかし、異様なほど一哉は落ち着いているのを一哉は感じていた。
あくまで視線は父親から逸らさなかった。
息子からの射すくめられるような視線に父親の方が緊張を覚えていた。
いいとも駄目だとも答えることができずに突拍子もないことを言い出した息子の顔をまじまじと見つめる他なかった。
迷いのない澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。
一向に返事をくれない父親に一哉は、焦れ、急かすようにしてもう一度、同じ言葉を口にした。
「俺を草壁の籍から抜いてください」
嫌なものから目を背けるため――。
自分が傷つくのを避けるために――。
体につく傷は、時間が経過すれば癒える。
心の傷は、いつまで経っても燻って消えない。
自分が傷つくのが嫌だから去るのだ…。
己の志、半ばにして――。
誰も知らない。
一哉の決断が彼自身にとってどんな意味を持つのかなど――。
降り立った異国の地は、晴れやかだった。
憎らしいほどに――。
ここに楽しみを見出すものはない。
あるのは、苦痛ばかりのみ。
横にいる男の言葉もただ、右から左へと抜けていく。元から聞く気なんて全くない。
到着と同時に、今回、本来ならば一哉が同行するはずだったのだが、一哉の代わりに同行した宗司は連絡のために一時2人の側を離れた。
勿論、2人だけにするわけにはいかない。
どんな不測の事態が起きるかもわからない。
宗司の他に2名ほど、草壁の家とは無関係だが、護衛として同行している。
綾は、夫となった堺の言葉をどこか上の空の態度で聞き流しながら、席を外し、恐らく日本に連絡を取っているであろう宗司の姿を探した。
新婚夫婦に特有の初々しさだとか、甘い雰囲気やこれからの新生活に希望を見出している姿は全く見られなかった。
それどころか、2人―まだ、綾の機嫌を取ろうと努力している堺の姿はさておき、見ている方が気の毒になり、男に同情を寄せたくなるような素っ気無い綾の態度は結婚して数十年が経過した、倦怠期の夫婦そのもの。
結婚式を終え、漸く自分のものになった筈なのに、妻となった彼女の冷たい態度―まるで自分には興味ないと言わんばかりの態度は、堺にとって屈辱以外の何物でもなかった。
ぐっと不満の一つも言いたくなる気持ちを堪える。
結婚と言う機会を経て、水原という姓を名乗ることができた堺だったが、綾と同じ場に立つことはできても、その力は弱い。
彼女に対して強く出ることは、堺にはできなかった。出来るわけもなかった。
男の胸中など知らない綾は、背を向けて宗司を探していた。
視界の端に宗司の姿を見つけた綾だったが、そこに見る宗司がいつもと違うように見えて目を奪われた。
血相を変えて大きな口を開け、電話の向こうに怒鳴りつけているような宗司の姿が遠目にも確認できる。
綾の眉間が怪訝に歪み、皺が寄る。
食い入るように宗司の姿を見つめた。
自分達に異変は全くない。
とくれば、日本で何かあったのだろうか――。
こんな人通りのあるところで、声を荒げなければならない何かが…。
綾が一点を見つめたまま動かなくなったことに気づいた堺は、綾の視線の先を追いかけた。
そこにあるのは、連絡を取る宗司の姿。
何をそんなに気にする必要があるのかと彼は首を傾げた。
宗司は、耳を疑った。
「は?」
間抜けな聞き返す声に電話の向こうの相手は、宗司の驚く姿を想像していたのであろう、遥か遠く海を隔てた土地にいる彼は、電話口で苦笑を滲ませていた。
笑い事ではないだろう。そう宗司は思い、電話口の相手に怒鳴りつけんばかりの大きな声を浴びせた。
「笑っている場合か!?どういうことだ」
しかし、相手はいつものように飄々とした態度を崩さなかった。
兄らしいと言えば兄らしい態度だったが…、この時ばかりは流石に彼とは、長年の付き合いになる宗司だったが、癇に障るものがあった。
手にした受話器を持つ力が強くなり、みしみしと音を立てた。
どこか蒼白な顔をして戻ってきた宗司にますます綾が怪訝な表情をして幾分か己より背の高い宗司の顔を見つめた。
戻ってきた宗司は、綾を見返した。
「宗司?」
「お嬢様」
不安そうな声で、宗司の名を呼ぶ綾の声と宗司の綾を呼ぶ厳しい声音が重なったのは、ほぼ同時だった。
「な…、何…?」
と聞き返す綾の声は、宗司の雰囲気に充てられてか、少し震えたような声だった。
「少しお耳に入れておきたいことが…」
そう言いながら、ちらりと堺を見た後、綾へと視線を戻す。
その意味は、堺の耳に入れるべきかどうかを悩んでのことだった。
「何かしら…?」
「こちらへ」
と綾を誘導するように促す。
しかし、堺が尊大な口調でもって宗司が綾を彼の元から少し離れた位置に連れて行こうとするのを止めた。
「ここで話せ。僕には話せないことか?」
その台詞にやはりと思うものの顔には出さず、宗司は端的に「分かりました」とだけ答えて綾に向き直る。
その言い草がどれだけ腹立たしいものであっても立場を考えるならば、堺の方が上なのだ。
宗司には、逆らう権利などない。
それに…、堺にも全く関係ないという話ではない。
「お嬢様…。一哉が、草壁の籍から抜けることを望みました。この意味、お分かりになりますね」
心臓が一度、大きく跳ねた。
まるでそれに連動するかのように、手にしていたバッグがごとりと床に落ちた。
皮のバッグが床と接触する音がひどく大きく聞こえた。
落ちた拍子に、バッグの中のものが磨かれた空港の床に盛大にぶちまけられる。
しかし、それに反応している余裕など綾にはなかった。
あまりに、宗司の口から出てきた事実が、現実とかけ離れていて――。
全く予想すらしていなかったことで……。
宗司の言葉にもあったとおり、綾にはその意味―籍を抜けるということがどういうことか分かりすぎるほど分かっていた。
籍を抜ける―草壁の家の人間としての職務を放棄するということ…、即ち、自分のもとを去るということだった。
「う、嘘…」
空気が振れるだけの言葉。
それは、嘘だと信じたいという欲求の現われだった。
自分の側からいなくなるなんて――。
そんなこと……。