更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (42)
「俺を勘当してください」
一哉の言葉に誰もが息を呑んだ。
それは、一哉の兄である弥一や御津、果ては一哉に既にこの世から去った女の影を映し、10年以上もの長い間、目の敵にしてきた女ですら驚きを隠せなかった。
複数もの瞳が自分へと向けられているのを感じる。
しかし、異様なほど一哉は落ち着いているのを一哉は感じていた。
あくまで視線は父親から逸らさなかった。
息子からの射すくめられるような視線に父親の方が緊張を覚えていた。
いいとも駄目だとも答えることができずに突拍子もないことを言い出した息子の顔をまじまじと見つめる他なかった。
迷いのない澄んだ瞳に吸い込まれそうになる。
一向に返事をくれない父親に一哉は、焦れ、急かすようにしてもう一度、同じ言葉を口にした。
「俺を草壁の籍から抜いてください」
嫌なものから目を背けるため――。
自分が傷つくのを避けるために――。
体につく傷は、時間が経過すれば癒える。
心の傷は、いつまで経っても燻って消えない。
自分が傷つくのが嫌だから去るのだ…。
己の志、半ばにして――。
誰も知らない。
一哉の決断が彼自身にとってどんな意味を持つのかなど――。
降り立った異国の地は、晴れやかだった。
憎らしいほどに――。
ここに楽しみを見出すものはない。
あるのは、苦痛ばかりのみ。
横にいる男の言葉もただ、右から左へと抜けていく。元から聞く気なんて全くない。
到着と同時に、今回、本来ならば一哉が同行するはずだったのだが、一哉の代わりに同行した宗司は連絡のために一時2人の側を離れた。
勿論、2人だけにするわけにはいかない。
どんな不測の事態が起きるかもわからない。
宗司の他に2名ほど、草壁の家とは無関係だが、護衛として同行している。
綾は、夫となった堺の言葉をどこか上の空の態度で聞き流しながら、席を外し、恐らく日本に連絡を取っているであろう宗司の姿を探した。
新婚夫婦に特有の初々しさだとか、甘い雰囲気やこれからの新生活に希望を見出している姿は全く見られなかった。
それどころか、2人―まだ、綾の機嫌を取ろうと努力している堺の姿はさておき、見ている方が気の毒になり、男に同情を寄せたくなるような素っ気無い綾の態度は結婚して数十年が経過した、倦怠期の夫婦そのもの。
結婚式を終え、漸く自分のものになった筈なのに、妻となった彼女の冷たい態度―まるで自分には興味ないと言わんばかりの態度は、堺にとって屈辱以外の何物でもなかった。
ぐっと不満の一つも言いたくなる気持ちを堪える。
結婚と言う機会を経て、水原という姓を名乗ることができた堺だったが、綾と同じ場に立つことはできても、その力は弱い。
彼女に対して強く出ることは、堺にはできなかった。出来るわけもなかった。
男の胸中など知らない綾は、背を向けて宗司を探していた。
視界の端に宗司の姿を見つけた綾だったが、そこに見る宗司がいつもと違うように見えて目を奪われた。
血相を変えて大きな口を開け、電話の向こうに怒鳴りつけているような宗司の姿が遠目にも確認できる。
綾の眉間が怪訝に歪み、皺が寄る。
食い入るように宗司の姿を見つめた。
自分達に異変は全くない。
とくれば、日本で何かあったのだろうか――。
こんな人通りのあるところで、声を荒げなければならない何かが…。
綾が一点を見つめたまま動かなくなったことに気づいた堺は、綾の視線の先を追いかけた。
そこにあるのは、連絡を取る宗司の姿。
何をそんなに気にする必要があるのかと彼は首を傾げた。
宗司は、耳を疑った。
「は?」
間抜けな聞き返す声に電話の向こうの相手は、宗司の驚く姿を想像していたのであろう、遥か遠く海を隔てた土地にいる彼は、電話口で苦笑を滲ませていた。
笑い事ではないだろう。そう宗司は思い、電話口の相手に怒鳴りつけんばかりの大きな声を浴びせた。
「笑っている場合か!?どういうことだ」
しかし、相手はいつものように飄々とした態度を崩さなかった。
兄らしいと言えば兄らしい態度だったが…、この時ばかりは流石に彼とは、長年の付き合いになる宗司だったが、癇に障るものがあった。
手にした受話器を持つ力が強くなり、みしみしと音を立てた。
どこか蒼白な顔をして戻ってきた宗司にますます綾が怪訝な表情をして幾分か己より背の高い宗司の顔を見つめた。
戻ってきた宗司は、綾を見返した。
「宗司?」
「お嬢様」
不安そうな声で、宗司の名を呼ぶ綾の声と宗司の綾を呼ぶ厳しい声音が重なったのは、ほぼ同時だった。
「な…、何…?」
と聞き返す綾の声は、宗司の雰囲気に充てられてか、少し震えたような声だった。
「少しお耳に入れておきたいことが…」
そう言いながら、ちらりと堺を見た後、綾へと視線を戻す。
その意味は、堺の耳に入れるべきかどうかを悩んでのことだった。
「何かしら…?」
「こちらへ」
と綾を誘導するように促す。
しかし、堺が尊大な口調でもって宗司が綾を彼の元から少し離れた位置に連れて行こうとするのを止めた。
「ここで話せ。僕には話せないことか?」
その台詞にやはりと思うものの顔には出さず、宗司は端的に「分かりました」とだけ答えて綾に向き直る。
その言い草がどれだけ腹立たしいものであっても立場を考えるならば、堺の方が上なのだ。
宗司には、逆らう権利などない。
それに…、堺にも全く関係ないという話ではない。
「お嬢様…。一哉が、草壁の籍から抜けることを望みました。この意味、お分かりになりますね」
心臓が一度、大きく跳ねた。
まるでそれに連動するかのように、手にしていたバッグがごとりと床に落ちた。
皮のバッグが床と接触する音がひどく大きく聞こえた。
落ちた拍子に、バッグの中のものが磨かれた空港の床に盛大にぶちまけられる。
しかし、それに反応している余裕など綾にはなかった。
あまりに、宗司の口から出てきた事実が、現実とかけ離れていて――。
全く予想すらしていなかったことで……。
宗司の言葉にもあったとおり、綾にはその意味―籍を抜けるということがどういうことか分かりすぎるほど分かっていた。
籍を抜ける―草壁の家の人間としての職務を放棄するということ…、即ち、自分のもとを去るということだった。
「う、嘘…」
空気が振れるだけの言葉。
それは、嘘だと信じたいという欲求の現われだった。
自分の側からいなくなるなんて――。
そんなこと……。
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