更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (55)
外に出ると、陽が落ちてきたことで少し暗くなってきていた。
早く戻らないと小言の一つでも言われそうだと思いながら足早に帰路につく。
駅に向かう途中で、信号によって足止めされた一哉は何気なく道路の向こう側に目を向けていた。
何気なく行きかう人の流れを見ていた。
時刻は、丁度仕事が終わり、家へと帰宅するサラリーマンなどで人通りが多い時刻らしく、行きかう人の数は多い。
信号が赤から青へと変わるのを待ちながら、それをただ呆然と眺めていた一哉だったが、ある一角を見つめて体に緊張が走る。
目を何度も瞬かせてそれを注視した。
見間違いではないかと我が目を疑ったが、そんな都合のいいものではなかった。
やがて、信号が青に変わったことで一哉と同じく信号待ちをしていた人間が歩き始めるが、一哉は動くことができなかった。
通り過ぎていく人の肩がぶつかっていき、2、3歩足がまごつくことがあったが、それでも視線は逸らすことはできなかった。
行きかう人という障害によって、視界が塞がれる。
次に、見た時にはそこにあった姿は消えていたが、見間違いなどではないだろう。
それは、堺の姿だった。
堺だけなら、問題なかっただろう――。
肩を組んで歩く女の姿さえなければ、一哉とて堺の姿など捨て置いたに違いない――。
堺の姿が見えなくなった後も、つい先ほどまで姿があった空間をいつまでも立ち尽くして見つめていた。
信号は、再び青から赤へと変化していた。
手にしていた封書を強く握り締めた所為か、不自然な深い皺を刻んでいた。
「ご苦労様です」
屋敷へと帰りついた一哉が差し出したものを受け取りながら、東がねぎらいの言葉を口にする。
彼女は、深く刻まれた皺に気づいたようで、咎めるような視線を一哉に送る。
その視線の意味を悟った一哉は、気まずげに視線を逸らしながら小さく言い訳を口にした。
「すいません。電車の中が混雑していたもので…」
言い訳を口にしながら、自分へと向けられる鋭い視線にどうも落ち着かない気分を味わいながら、早くこの時間が過ぎてくれることを願った。
どうにも無言のうちに責められているような気がしてならない。
できることなら、この場から早く解放されたい。
「…まぁ、いいでしょう。もう結構です」
そう告げると彼女は受け取るもの受け取ってさっさと一哉の目の前から老婆は去っていった。
彼女の視線が外れた瞬間、ほっと安堵の息を漏らす自分に、思わず苦笑してしまった一哉だった。
そして、いつまでもその場で呆けたように立っているのも間抜けだとその場を立ち去った。
自室へと戻るために歩いていると向かい側から綾が歩いてくるのに気づいた。
綾の顔を認識すると同時に、一哉の脳裏に自分が帰り際に見た堺の姿がフラッシュバックする。
まだ、事実関係ははっきりしたわけではないが…。
あの様子では、一哉の予想は全く外れていないだろう。
堺は、不倫をしている。
それを、目の前の彼女は知っているのだろうか――。
恐らく、知らないだろう…。
「今まで、どこかに出かけていたの?」
一哉の姿に気づいた綾が、近寄ってきては彼に問うた。
恐らく、外に出かけていたような格好の一哉を見て聞いてきたに違いないだろうが、彼女は一哉が自分から顔を背けたことに気づいて目を瞠った。
「ああ…まぁ」
「一哉…?」
おざなりな返事をして背を向けようとした一哉の耳に、兄の声が聞こえてくる。
それは、決して自分に向けられたものではないが、自然と足が止まった。
「お嬢様」
「あら、宗司。まだ居たの?」
一哉に見せる態度とは、本当に異なるものだ。
宗司は、特に気に留めた様子もなく、綾と一哉の近くまで来ると、一礼した。
「これにて、失礼します」
「そう」
主である綾の返事を聞くと宗司は、2人の側を離れた。
一哉の横を通りすぎる際に睨みつけるのは、相変わらずでいつもなら笑い返してやるところだが、一哉はただ宗司の顔を見返すだけだった。
いつもとどこか違う弟の様子に気がついたのか、虚を突かれたような顔をした宗司だったが、足の動きを止めることはなかった。
下手に一哉を突っつくと綾を不快にさせ、ひいては自分の身が危うくなるということを理解しているからだ。
綾がこんな弟の何を気に入っているのかは宗司には理解できなかったが、主は絶対なのだ。
どうせ、窮地に立たされたときに助けにきたのが一哉だっただけに違いないと自分を納得させるように言い聞かせた。
それが、もし自分であったのならば、今の一哉の地位は自分のものだったに違いないと綾の胸中を知らない自分本位な考えしかできない男は、思った。
そして、過去の自分の振る舞いを後悔した。しかし、過ぎ去ったことだ、ぜんまいのように時間は戻すことはできない。
今、彼にできることは、余計な波風は立てないでおくことだけ――。
一哉は、背を向けた兄の背中を追いかけていた。
じっと兄を見つめたまま動かない一哉を怪訝に思った綾は、一哉の顔を不安気な瞳で見つめていた。
「一哉?」
弱弱しい声で綾が一哉の名を口にしたことがまるで引き金になったかのように、一哉は綾の声に反応することなく、兄の影を追うようにして宗司の後を追った。
当然、驚いたのは、綾の方で一哉の後を追いかけた。
しかし、すぐに廊下ですれ違った使用人の一人に寄って東が呼んでいると言われてしまい綾は足を止めざるを得なかった。
綾のことなど全く気にもかけずに一哉は、兄の後を追いかけ続けた。
去っていってしまう一哉を気にしつつも、綾は使用人の言葉に頷いた。
「兄上!」
どこか切羽詰った声で呼びかけられ、宗司は自宅に帰るために乗り込もうとしていた車のドアにかけていた手を止め、振り返った。
自分をこう呼ぶ人物など、この屋敷に一人しかいない。
ゆっくりと振り返ると厳しい顔つきをした一哉がそこにいる。
「何だ?」
「お願いがあります」
緊張した面持ちでそう口にした弟の姿に兄は多少なりとも驚きを隠せない様子だった。
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2008
Vizard (54)
一哉が部屋で本を読んでいるとドアがノックされる音が聞こえてくる。
顔をあげて、机の上に読みかけの本をおくとドアに向かう。
部屋の主が出てくるまで、ドアをノックした人物は大人しく待っていたようだった。
一哉がドアを開け、外を確認するとドアの前で待っていたのは、東だった。
年月の経過とともに、深く皺の刻まれた顔に能面のように無表情な顔は、どこか人あらざる者のように感じられてならない。
東の姿を見て、内心ではぎょっとしたがなんとか平静を保って応対した。
いつまで経っても決して慣れることはないだろうと思う。
「何か御用でしょうか」
「あなたに頼みたいことがあります」
抑揚のないしわがれた声。
頭ひとつ下げることなく、能面のような表情は相変わらず。
とても物を頼むような態度には、見えない。
「何でしょう」
「これを…」
彼女が差し出したのは、一枚の紙切れだった。
ぴくりと一度、一哉の眉尻が動いた。
紙切れを受け取ると、小さく畳まれたそれを開く。
そこには、地図と恐らく目的地であろう場所の名前が、達筆な字で書かれていた。
「調査…事務所?」
小さな声で、紙面に踊る文字を読み上げた後、怪訝な顔つきで目の前の東を見た。
「左様。そこへ行って、受け取ってきて欲しいものがあります」
「何を、…ですか?」
「あなたは知る必要ありません。そこへ行って、受け取ったものをこちらへ持ってくるだけのことです。小学生でもできることでございましょ。今、手の空いている者はあなたしかいないのです。私も、生憎と用がございまして…。私の名前を出せば、相手方はお分かりになるはずです。頼みましたよ」
言いたいことだけ告げると東は、機敏な動作でくるりと背を向けた。
一哉は、まだうんともいやだとも言っていない。
最初から聞く気などないのか彼女は、それ以上は何も言わず、振り返ることもせずに姿を消した。
手に残った小さな紙の紙片をじっと困惑した瞳で見つめていたが、ふぅと息を吐き出すと出かける準備をするために室内に戻った。
紙片に書かれた地図を頼りに言われた場所に向かう。
街中の一角にそれは、あった。
小奇麗なビルの中に足を踏み入れる。
目線を泳がせて内装や、ビルの作りを確認しながら、なるほどなと軽く頷く。
何を調べさせているのかはわからないが、―知る必要もないと一哉は東から言われたのだが―、水原の人間がが利用するには妥当なところだろうと評価した。
自分が利用していたような路地に立つぼろいビルに入っているほとんど潜りに近いところとは天と地の差だ。
「一体、何を調べさせてるんだか…」
目を眇め、その瞳に鋭い眼光を宿すと扉を開けた。
遠慮の欠片もない足取りで中まで進み、受付と思しき女の前に進むといわれた通りに東の名を口にした。
すると東の言っていた通り、彼女の名を口にすると受付に座っていた女は、すぐに立ち上がり奥へと姿を消した。
すぐに奥から一人の男が出てくる。
血相を変えた男の登場にそちらへとゆっくりと顔を向けた一哉の顔を見て、想像していた老婆が未成年に姿を変えていたことに男は、拍子抜けしたように肩の力を抜いた。
その僅かな変化に一哉は気づいていた。
内心では、眉を潜めつつ男と向き合う。
「東の使いの者です。所用のものを受け取りに参りました」
落ち着いた態度で、おおよそ子供らしからぬ台詞を口にする一哉に、男は戸惑っていた様子だったが、すぐにふっと相好を崩して一哉に一歩近づく。
その薄笑いが気に食わなかった。
いけすかない奴だ。と思ってもモノを受け取るまでは帰ることはできない。
「わざわざご苦労様、君は確か…草壁家の四男坊だね」
「それが何か?」
意味深な視線を寄越してくる男に一哉の眉間に皺が刻まれる。
一種のアピールのつもりかと心の中で罵ってやる。
「その年で、それだけ落ち着いていたら大したものだ…苦労してるみたいだしね。母君が亡くなったのは、君が4歳のときだから、それから14年になるのかな?」
――べらべらと喋る奴だ…。
やはり、いけ好かない。
今すぐ、喉元を手で締め上げたい。
それとも、その横っ面を握った拳で殴りつけるてやるか。
ぎっと握った拳が音を立てる。
「私のことは、今は関係ないでしょう。東から依頼されているものを受け取りに来ただけです。私のことについて能書き垂れてくれなんて一言も言っていないはずですが?」
睨みつけながら、一哉が言うとことのほかその眼光が鋭かったのか男は一瞬、背筋に寒気を感じ、背中を震わせた。
すぐに取り繕うように引きつった笑みを浮かべる。
「失礼。私としたことが…、ついつい口が滑りました」
一哉の鋭い眼光から逃げるように背を向けて、奥へと再び入っていく男の背中を睨み続けた。
すぐに戻ってきた男は、封書を差し出す。
それを無言で一哉が受け取るとため息とともに男は意味深な言葉を呟いた。
「東のおばあさんも一体、こんなものを調べてどうするつもりなのかね」
封書を握る一哉の手がぴくりと震えた。
封書から男の顔を伺うと先ほどまでべらべらといらぬ口を利いて一哉の気分を害したことなど忘れ去ったように、にやりと下卑た笑いを見せて、口を開く。
「こんなもの調べさせてあの家を崩壊させたいのかねぇ」
「それは…」
どういう意味かと問おうとした一哉だったが、男は肩を竦めて背を向けるとそのまま奥に戻っていってしまった。
恐らく戻ってくることはないだろうと一哉は、男の背中から封書に視線を戻した。
一体、この中に何が入っているのか――。
気になっても知る必要のないことと釘を刺されているだけに、開けて中身を確認することはできない。
諦めて、無言のまま踵を返した。
2008
Vizard (53)
じゃりっと砂を踏む靴の音が規則正しく聞こえる。
背後では、同級生や下級生の嬉しそうにはしゃぐ声が聞こえる。
何がそんなに愉しいのか分からない。
ここへ来る事の意味すら見出せない。
後、数ヶ月で卒業を迎える。
否応がなく、ここに転入してきてから既に5年が経過しようとしている。
時の経過は早いと富に思うようになったのは、最近のことだ。
なのに、この一年、あの屋敷は何も進展しなかった。
自分も含めて――。
何もかも――。
進展どころか、後退している…。
ぴたりと足を止めて、地面を食い入るように見つめた。
切れ長の瞳には、そこに見えるはずの地面も砂利もアスファルトを突き破って咲こうとしている花も人の足も…、何も写していないように見えた。
ため息を零して空を見上げた後、己の心と同じく淀んだ空の色を見て、さらに深く沈んでいくような気分に陥りながら、今にも雨が降り出しそうな天気に早く帰るべきだと足を踏み出した。
綾は、避妊薬を服用し続け、そのことは彼女自身と一哉とそして、薬の手配をした使用人の東しか知らない。
彼女の夫である堺も、父親も与り知らないことだ。
したがって、堺との肉体関係は存続していても妊娠などしない。
結婚から1年以上経っても妊娠の兆候すら見せない娘に父親は、不安を隠せない様子だった。
父親の不安げな瞳が自分へと向けられているのに気づきながら綾は知らない振りを続けた。
これは、報いだ――。
自分を道具にしたことへの――。
そんな親子を目の当たりにしては、一哉は綾の暴挙とも言える行動を止められなかったことに罪悪感を感じるのだ。
どこかで自分が言えばやめてくれるという甘い考えがあった。
あれほどまでに自分を渇望し、求めたのは彼女だ。
だから、自分が言えば分かってくれると思っていた。
言いくるめられると思っていた。
それは、奢りでしかなかった――。
思いあがりも甚だしい奢りでしかなかったのだ。
どれだけ、忠告をしようとも、止めろと声を荒げても、嘆願さえも彼女には届かなかった。
堺も堺で、もともと綾にそうする意志がないということも手伝ってか、綾と堺の関係は希薄以外の何物でもなく、日常生活において口を利くこともなければ、目を合わせることもなかった。
それは、入り婿である堺にとって屋敷を、息苦しく肩が詰まる場所とさせた。
次第に屋敷にいる時間が減っていき、今では夜を過ごすために帰ってくるだけ――。
あるいは、水原の仕事を本格的に手伝うようになってからというもののその激務に家に帰る時間もないのか、帰ってこない日もままあった。
水原は、そんな娘夫婦をどうにかうまくやってくれればと近くで見ながら思うのだが、口は挟まないでいた。
挟んでしまえばそれは、2人にとって命令であり、重荷になる。
そんな関係、すぐにでも崩壊するに決まっていると思ったからだ――。
しかし、水原のその考え自体が大きな思い違いであると指摘するものはいなかった。
既に、堺と綾の2人は崩壊しているのだから――。
1年前に――。
そんなこと知らない水原は、極力2人の間には口を挟まないで置こうと考えていたのだ。
2人のことは、2人で決めるべき。
自分がそうであったように、娘にもそうであって欲しいという親の願いだった。
――しかし、娘はそんな父親の意志を汲むどころか、父親に対して恨みに近い感情すら抱いている。
暗く。
淀んでいる。
周りも。
自分も――。
何もかも――。
2008
Vizard (52)
それから数ヵ月後――。
季節は、何かの始まりを告げる春。
綾は、大学へと進学し、一哉も2年生へと進級した。
綾の進学時には、また堺と綾の間でひと悶着があったが、それでも綾が我を通した形となった。
ぽかぽかとした心地いい日差しの中、学校の屋上で昼寝をしようとごろりと横になった一哉は、暖かな日差しと眩しい光を発する太陽を手を翳しながら見つめた。
あの屋敷は、こんな光が嘘のように暗く淀んでいるように感じられる…。
自分も含めて――。
「くそっ…」
悪態をつくとごろりと体を横に向け、眠るために瞼をゆっくりと下ろした。
無力感だけが、体を支配していた。
それを見てしまったのは、偶然だった。
本当に偶然。
見なければ、気づかなかったままだったに違いない――。
気づかなかった自分も腹立たしかったし、誰も止めなかったのかと周囲にも苛立ちを覚えた。
何より、許せなかったのは自分で自分の体を傷つけている彼女に対してだった。
この世に都合のいいもので代償を必要としないものなんて存在しない。
物事には、必ず表の側面と裏の側面が存在するのだ。
他の者から頼まれて、彼女の部屋を訪れた時だった。
ドアをノックすると中から返事が聞こえてくる。このとき、一哉はドアの前で一言も口を開かなかった。
了承がもらえたのならば、本来の目的を果たすだけだった。
ドアを開けて室内に入った一哉は、室内にいた人物を見て、怪訝な顔つきをした。
「お嬢様。どこか具合でも…」
テーブルに置かれた錠剤と手にした水の入ったコップ。
今、まさに何かの薬を飲もうとしている綾だった。
どこも調子は悪そうに見えなかった筈だと思いながら一哉は、綾に近づいた。
綾は、心臓が大きく脈打つの感じた。
これは、一人を除いて誰も知らないことだった。知られれば当然、妨害が入るということが容易に想像できたから――。
ノックされたときに疑いもしなかった。
それが唯一このことを知る自分が呼びつけていた東という女の使用人であると―。
病院で処方された錠剤ゆえに、それが何であるかは見たところで医者でもない一哉が理解することはないだろうと高をくくっていた綾だったが、その判断は間違いだった。
一哉は椅子に座る綾に近づく。
そして、テーブルに無造作に置かれた錠剤を見て目を見開いた。
「何の用かしら?」
動揺を悟られないようにするのが必死だった。
下手に突っ込まれないうちに部屋から追い出そうと綾は必死だったのだ。
しかし、一哉はテーブルに置かれていた錠剤を手に取るとじっと見つめたまま動かなかった。口も開かなかった。
――一哉は、見覚えのあるそれに愕然として目を見開いたのだ。
過去に関係を持った女が同じものを持っていたのを見たことがある。
それが何なのか分からずに、どこか体が悪いのかと問うた一哉に彼女は笑いながら教えてくれたのだ。
それは、避妊薬だった。
「…何を考えてるんだ」
手にしたものを見つめたまま口にした言葉は掠れ、綾にはきちんと聞き取ることができなかった。
「何…?」
高い位置にある一哉の顔を見上げながら、聞き返す綾だったが、鬼のような形相をして自分を見つめる一哉にびくりと体は、恐怖に竦んだ。
「お前っ!自分のしていることが分かってるのかっ!?」
恫喝する声の大きさに背筋が震える。
こんなに怒った―感情を露にした姿など…今まで見たことも無い。知らない。
軽蔑された目で見られたことはあっても…、こんな激昂した様子の一哉は見たことがない。
迫力に綾は、言葉を失い、ただ呆然と一哉の顔を見返すことしかできない。
「避妊薬なんか飲んで…、副作用でも」
「文句あるの?私の体よ!」
尚のこと続けられた言葉を遮るようにして綾が甲高い声を発した。
口を噤んだ一哉に綾は、がたりと音をたてて椅子からたちあがり、乱暴にテーブルの上にコップを叩きつけるようにしておいた。
コップの中の水が跳ねる。
一哉の手から奪い取るようにして錠剤のシートを取り上げるとそれも机に叩き付けた。
「私の体だもの、私の自由よっ!誰の指図も受けないわ」
「…いつから。父親は…?」
「3ヶ月前からよ。一哉が夜中にこの部屋に入ってきたあの日から…。お父様が知っているわけないでしょ?こんなことお許しになるはずがないわ!…あいつの子供なんか誰が産んでやるものですかっ!こんな家、無くなってしまえばいい!私の代で終わりよ」
一気に巻くしたてるようにして言い終わると一哉を上目遣いに睨みつけながら、肩で息をする。
口の端を持ち上げて卑屈な笑みを浮かべる姿は、不快感よりも痛々しさを感じた。
一哉が、無意識のうちに触れようとして彼女に向かって伸ばした手は、気が立っていた彼女によってばしっと叩きつけられた。
信じられないものを見るように綾を見つめる一哉の背後から、しわがれた声が聞こえてくる。
「お嬢様。遅くなってしまい申し訳ありません。お薬を…」
と頭を下げながら入ってきたのは、東という名の女だった。
一哉と綾の視線が彼女へと向けられる。
彼女は、綾以外の存在をそこに認め、気色ばむ。
薬という言葉を口にした老婆に、一哉はこの女が綾の協力者であると悟った。
「東…」
「いかがなさいましたか」
安堵の声音で彼女を呼ぶ綾の声音と一方で、ロボットのように無機質な印象すら受ける抑揚のない老婆の声。
「何でもないわ。一哉、出て行ってくれるかしら」
と言われれば、一哉は引き下がることしかできなかった。
それからというのものの、再三の一哉の訴えも虚しく、綾を止めることはできなかった。
水原の家がどうなろうと一哉には関係ない。
それは、その家の人間の自由だ。
だが、彼女の体の犠牲を払うことに関しては、ままならなかった。
体の負担にならないわけがないのだ。
医者ではない彼に実際のところどうなのかなど分からないが、外から体に変調を来たすような物質を入れることで体が犠牲を支払わないはずがないのだ。
無力だった――。
2008
Vizard (51)
ゆっくりと階段を踏みしめ、昇る。
1階の廊下を自分に与えられた部屋に向かって歩いている途中に一哉が聞いた2階からの物音。
廊下にいたから大きく聞こえた物音だが、恐らく自室に篭っていたら気づかなかったのではないかと考えながら、一体何だと首を傾げつつ音の発生したであろう方向に自分の勘のみを頼りにして向かう。
大企業の社長の屋敷ということもあり、警備は厳重だ。
防犯対策も確りとなされている。
万が一にも不法侵入者だとか、そういった類のものは、どうしても考えにくかった。
一体、なんだ?と疑問に思うのだが、それも確認すれば全てわかることだろう。
2階の廊下を歩いているとだいたいどの部屋もぴったりと部屋の扉は閉められているのだが、その中で一つだけ少し部屋のドアが開いている部屋があった。
一哉は、眉間に深い皺を刻み、怪訝な表情で足を止めてその部屋を見た。
そして、その部屋が誰のための部屋かということに気づき、一哉の表情はさらに険しくなった。
それが、彼女――綾の部屋だと気づいたからだ。
綾の部屋だと気づいた一哉は、そこから一歩が中々踏み出せないでいた。
綾の部屋は、堺と彼女が結婚した現在、堺がいる可能性が存分にある。
ましてや、新婚と呼べる時期。
体が動かなかった――。
夜中の2時すぎという時刻も時刻。
もしかしたら、物凄く無粋な真似をしでかすことになるやもしれない。
一哉が躊躇うのも無理はない。
恐らく、以前の一年以上前の一哉自身ならば躊躇いもなく入っていくこともできたかもしれないが、今の一哉にそれはできなかった。
ただ、見たくないのだ。
それだけだった。
いつまでも動くことができずにまるで、石のように固まったまま、一哉は薄く開いた部屋の扉を睨み続けた。
見たくない。
しかし、見たくないからと言っていつまでも廊下の外で立ち尽くしていたのでは、ただの変質者でしかない。
気づかなかった振りをして、このまま踵を返すべきか。
それとも、何か大変なことが起きているのならば、放って背を向けるわけにもいくまい。迷った末に、一哉は前へ足を踏み出すことを決断した。
もうすでに開いた状態にあった扉は、軽く押すだけでぎぃっと小さく木の音を立てながら、ゆっくりと開いていった。
部屋の中を確認して、その中に堺の姿はないようだった。
一哉は、自分がほっと変な形容のし難い安堵感を感じていることに気づいていた。
否、わかっていた。形容のし難い安堵感ではなく、形容したくない安堵感であることに――。
安堵したのも束の間、同時に部屋の主である綾の姿もすぐには見つからず、体が硬直し、身構えた。
しかし、部屋の中に足を踏み入れるとすぐに彼女は見つかった。
一哉が立っていたドアの位置からは見えなかっただけだった。
ベッドの影に隠れるようにして彼女は床に座っていた。
肩には、ガウンがかけられていたが、下は素肌で、それまで何をしていたかということを容易に想像することができる。
一哉は、身の振り方に少々困った。
しかし、そんな不安ごともすぐに消失してしまった。
綾は、部屋への侵入者にも気づかずに下を向いたまま、手で頬を押さえていた。
赤く腫れ、熱をもち、じんじんとした痺れを訴える頬を――。
近づいてくる気配にも気づかなかった。
だから、声がかけられたとき、酷く驚いてしまった。
「お嬢様。いかがなさいましたか?」
一哉が声を抑えて、問いかけると綾の体はびくりと大きく震え、がばっと顔を上げた。そして、目の前に立つ一哉の姿に目を瞠った。
「か…一哉……」
震える声で目の前で、自分を怪訝な顔つきで見つめる男の名を呼ぶ。
「物音が1階まで聞こえたので、失礼かとは思いましたがお部屋の中を確認させていただきました」
「…そ、そう」
綾の声を聞きながら、もう一人の人物の姿を探す。
こんな状態の綾を置いて何をしているのだと非難の意味を込めて――。
一緒にいるところなど見たくないと部屋に入るまでは、躊躇っていたのはどこの誰だろうか。
そんなことよりも明らかに尋常でない綾を置いて姿を消している男として―、夫としてあるまじき態度を示すここにはいない男に対して、腹立たしさにも似た感情を一哉は抱いていた。
きょろきょろと室内を見回しても、それらしき人物の影も形もなかった。
一通り部屋を確認した後で一哉は、綾に視線を戻す。
彼女はまだ驚いているのだろうか。零れんばかりに瞳を見開いて、一哉を見つめていた。
一哉は、もう一度よく綾を見ると、それに気づいてぴくりと眉間に皺を刻んだ。
綾の広げた指の隙間から見える白い肌が不自然なほどに赤く染まり腫れあがったようなそれに――。
衝動的に一哉は、手を伸ばし、驚き力が抜けていた綾の腕を掴んで、その手が隠していたものを確認した。
呆気にとられた綾が気づいたときには遅かった。
みるみるうちに一哉は、険しい表情になっていった。
「か…一哉?」
「何があった?」
ここには、自分と綾以外がいないことを分かっていて砕けた口調で問う一哉だったが、果たして堺がいたとしても冷静に彼が対処できたかどうかは甚だ疑問だ。
喉の奥から絞りだすような声には、綾は聞き覚えがあった。
特に、不機嫌であったり、苛立っているときの声。
「何があった?」
もう一度、ぎらりと光る瞳で見つめられ、訊かれる。
それは、一度目よりも低い声だった。
綾は、掴まれた手を強引に動かして、拘束から解放されるともう確りと見られていて今更隠しても遅いというのに、再び赤く腫れた頬を広げた手のひらで隠した。
「…あ、あなたに関係ないわ」
責めるような一哉の視線から逃げる。
ギリっと奥歯を強く噛み締めると一哉は、立ち上がり大股な足取りで部屋を出て行く。
遠ざかる人の気配にはっとした顔で綾は、一度は目をそらしたはずの一哉の背中を追いかけた。
しかし、背を向けた彼は一度も振り返ることはしなかった。
自分と堺の問題だと思い、拒絶の言葉を吐いたのは、自分自身。人に頼るのは簡単で、それでも縋るのは、間違っていると思った。
拒絶の言葉を吐いておきながら、それでも近くにいて欲しい。
言動と心が一致していなかった。
待ってと言えたら…。
でも、言えなかった。
項垂れたように自分が座り込む床に敷かれた絨毯を食い入るように見つめる。
瞼を深く閉じた。
口の動きだけで、一哉の名を呼ぶ。
「手、離せ」
素っ気ない声が聞こえてきて、綾は再度驚きに目を見開いた。
ゆっくりと顔を上げて、確認すると一哉が立っている。
顔は強張っていて、何を考えているのか綾には分からない。一哉は、綾と目があうと体を屈め、綾と目線を合わせる。
ゆっくりと綾の頬に置かれた手を取ると代わりに手にしていたものを押し当てた。
「…つめたっ……」
小さく零れた声。
水で濡らされたタオルだった。
一哉は、それを手にして戻ってきたのだ。
てっきり自分のことなど捨ておいて戻っていってしまったのだと思っていた綾は、驚きに言葉も出なかった。
「気休め程度にしかならないが冷やしておけ。人を呼ぶなら誰か呼んでくるが、どうする?」
声に険しさはなかった。どこか気遣うような声。
綾は、目頭が熱くなるのを感じた。
しかし、軽く首を振って自分を落ち着けると自分の言葉を待っている男に命じた。
「東を呼んで頂戴」
東というのは、使用人の中でも一番の古株の女だった。
綾の母親の死後、綾の面倒を見てきたのは、彼女と言っても過言ではない。
一哉は、そう口にした綾の迷いのない瞳を見て、寒気のようなものを感じた。
しかし、一哉に綾の胸中を推し量ることなどできなかった。
たとえ、できたとしても止められたかどうかは定かではない――。