綾は、ある部屋の前に立ち、辺りをきょろきょろと確認した。
躊躇いがちに部屋の扉をノックする。
木で作られた扉が快音を響かせる。
コンコン。
それは、ノックした人物の迷いを示すかのように控えめな音だった。
部屋の主が外に顔を出してくるまでの間も辺りを警戒するようにきょろきょろと首を動かしては確認する。
綾が顔を外に向けているときに扉から、廊下へと顔を向けている時にがちゃりとドアノブが回さされる音が耳に届き慌てて顔を戻して出てくるであろう人物に向き合うべく笑みを象った。
「あ…、あのね、きゃっ!」
きっと驚いているに違いないと少し緊張して口を開いた綾だったが、急に腕を強い力で引っ張られて小さく悲鳴があがるがそれもすぐに口を大きな手で塞がれて掻き消えた。
驚いて目をぱちぱちと瞬いていた綾に眉根をよせ、難しい顔をした一哉の顔のドアップが視界いっぱいに広がる。
何故、そんなに難しそうな顔をしているのかわからずに綾は口を手で塞がれたまま目を見開くばかりだった。
「何しにきた?」
と問う声は、厳しい声音だった。
綾は、ただ会いたかっただけなのだ。
すぐ近くにいるのに、ちっとも一哉は会いにきてくれない。それどころか、故意にしているのかどうかは定かではないが、碌に顔すら合わせない。
綾は、会いたくて会いたくて仕方がなかったというのに…。
自分だけがこんな気持ちを抱えているのだろうかと不安になる。
あの日、名前を呼んで抱きしめてくれたのは、目の前の人物ではなかったのだろうか。
まるで別人のように感じる。
ドライ過ぎて―。
自分の口を押さえている手を少し乱暴な手つきで振りほどくと綾は、対峙する人物と同じように眉間に皺を寄せて小難しい顔をして、下から頭一つ分高い位置にある顔を上目遣いに軽く睨みつけた。
そして、唇を尖らせるようにして言う。
「だって…一哉ったらこんなに近くにいるのに一度も会いにきてくれないんだもの」
綾の恨み節に一哉はじっと眉間に皺を寄せたまま彼女を見つめていたが、大きく嘆息を漏らすと呆れたような表情をして顔を背けた。
一哉の表情の変化に綾は、ただ呆然として目を見開いた。
綾に背を向けた一哉は、大袈裟なまでの嘆息を漏らすとともに綾の言葉を一蹴した。
「馬鹿か」
その冷え冷えとした声に目を見開く。
「な、何よ。何でそんなこと言うのよ」
自分へと向けられた背中をじっと見据える。
冷たい扱いを受けるなんて思ってもみなかったものだから、目頭が熱くなってくる。
声が震えそうになり、自然と小さくなってしまう。
じっと耐えるように唇を噛む。
背中へと向けられていた視線は自然と下に下がっていき、地面を穴が開きそうなほど見つめる。
だから、綾は気づかなかった。
背を向けていたはずの一哉が彼女を見ていたことなど…。
自分の言葉に傷ついていることは一哉とて分かっていた。
しかし、だからと言って言葉を撤回する気は毛頭ない。
発覚してからでは遅いのだ。
気づいたときには手遅れでしたでは、話にならない。
近くにいるからこその自覚と自制が今後の一哉のみならず、綾の一生も左右する。
それを綾は分かっていない。
顔をうつむける綾の姿を見て、一瞬だけ切ない表情を浮かべた。
自分達を取り巻く環境は、最初から分かっていたのだ―。
初めから――。
万が一にも――。
続くことはない。
夢物語だ。
自分の気持ちに気づいたところで、結末は決まっている関係なのだ――。
いずれ、別々の時間を歩まなければならない。
こんなことなら、彼女の我侭に付き合わなければ良かった。
こんな苦しい思いをするならば―。
一瞬だけ顔に本心を表した一哉だったが、それに綾が気づくことはなかった。
すぐに無表情のどこか冷たさだけを感じさせる表情に戻して、綾を見つめていた。
下を向いていた綾だったが、視線を感じたのか恐る恐る顔を上げるとすぐ近くに一哉の顔があって驚いたように目を瞬かせた。
「一哉?」
「考えろ」
不審な綾の声を遮るようにして一哉の静かな声が鼓膜を刺激する。
何を言われているのかわからない綾は、きょとんとした表情を浮かべるが、一哉は表情を崩すことはしなかった。
「使用人のしかも男の部屋に易々と入ってくるな」
「…、で、でも…」
「でもも何もない。自分がやってることの危うさを考えろよ」
「そんな…」
どちらが大人であるかは、発言から明らかだった。
綾とて分からないでもなかった。
現に、彼女はここに来る途中にも誰にも見つからないように注意していた。
廊下を必要に振り返り、誰もいないことを確認して――。
ノックをした後も人が通らないかどうか、細心の注意を払って。
危険を冒してまで自分が一哉に会いたいということを一哉は分かっているのかと綾は詰りたくなった。
だが、ぐっと息を飲んで堪えた。
何も言わなくなった綾に一哉は背を向けて、壁にある棚の中から本を取り出す。
分厚い本を手に取りながら、決して綾の方は見ることなく何気なく口にする。
「俺がここにこれるようにしたのは、お前か?」
その問いに綾の瞳は見開かれる。
そう思われていたのか――。
と。
「違うわ」
「へー、違うの」
くすりと笑ったが、その笑みは人の悪い笑みだった。どこか小馬鹿にしたような笑い。
綾からしてみれば心外そのもの。
「違うわよ。お父様が宗司だけでは頼りないからって…」
「ふーん」
「お父様から聞いたわ。宗司を一哉が殴って一喝したって―」
「ああ。あんまりにも見苦しかったから」
平然とした口調でこともなげに言う一哉。
声はとても家族のことを言っているようには見えなかった。
「私だって急に聞かされて吃驚したのよ。宗司の代わりに一哉を…って」
「そ」
もう興味ないというような声。
綾は、自分だけが熱くなっている姿をまざまざと見せ付けられたようだ。
綾の表情をそっと盗み見た一哉は、手にしていた本を持つ手にぐっと力を入れた。
視界に入る文字は滑り、頭には入ってこない。
もとより、そんな読もうとして開いた本ではなかった。
気を紛らわすことができればと思って開いた本だった。
綾と対峙していると自分を見失いそうになる。
今だって興味ないと見せておきながら、内心は真逆だった。
手を伸ばせば届く距離にいる。
この空間なら、誰も見ていない。
しかし、理性がそれを制止する。
一度、味わうと後に退けなくなる。分かっているからこその選択だった。
冷たい態度は、まるで綾に自分のことなど嫌ってくれと言っているようなものだった。
それが、彼女に伝わるか否かはさておいて――。
本当は、悲しませるようなことは言いたくないのだけれど……。
本当は、ありのままの自分で彼女を愛せたらいいのだけど……。
―それでも、彼女のために嘘を吐く。
否、彼女のためだからこそ……。
自分のことなど嫌いになればいい――。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
嫌いな方・興味のない方・間違っちゃった方はバックバック
2008
Vizard (36)
近づいたと思ったのは、自分の気のせいか――。
2人を結ぶ距離は近づいた筈なのに、遠く離れたように感じるのは気のせいか――。
国内有数の企業である水原グループ。
それを束ねるのが、水原家当主である男であり、綾の父親である。
娘の婚約も決まり、事業もこれからますます大きくなるだろうと期待に満ち溢れているところと言うべきか。
しかし、彼は知らない――。
後に、彼の思いもよらない人物が水原の持つ権力を絶大なものに押し上げることになろうとは――。
夢にも思わなかったに違いない。
彼の期待には反することになるが…。それは、決して今、彼の目の前で必死の形相で食らい付かんばかりの勢いで嘆願してくる青年ではないのだ。
水原は、青年―堺の言葉に耳を傾けながら確かに彼の言うことも、彼の心配も尤もだと鷹揚に頷いていた。
彼の言うとおり、自分も安心できる。
一刻でも早く、彼と娘の間に新たな命でも授かれば――。
それが、娘が決して望んでいないことであろうが何だろうが、関係なかった。
肩に何千、何万という人間の生活に影響を与えるであろう自分が持つ責任という程度にしか捉えていなかった。
そのためには、娘の犠牲も致し方ないと――。
「分かった。綾にはそのように言っておこう」
重い口調ではあったが、望みの返事を聞くことができた堺は、顔を輝かせた。
「ありがとうございますっ」
態度、声、表情の端々から嬉しさのようなものが感じられる。
後少しで、娘婿となる堺の態度に水原が悪い気などするはずもなくもう一度、鷹揚に頷き返した。
「え…?」
綾は、父親から聞かされた言葉を思わず聞き返した。
体が、脳が、心がそれを拒否していた。
聞き間違いだと思いたかった。
ひどく驚いた表情をして聞き返す娘に、娘の気持ちなど知る由もない―あるいは興味がないのかもしれない父は、何て事ない世間話を聞かせるような軽い感じで同じ言葉を繰り返した。
「正一君と話して式の日取りを早めることが決まったと言ったんだよ」
夕食の傍ら娘に決定事項だけを伝える父親は、娘の表情の変化に気づいてなどいなかった。
手にした箸を持つ手が俄かに震える。
それまで血色豊かだった表情は、一気に色を失くした。
あらぬ一点のみを瞬きも忘れて凝視する。
もとより少なかった時間を何故、減らされなければならない――。
ごくりと喉を嚥下する。
「どうして?」
小さな声は、一応父親の耳に届いたようだった。
父は疑問を投げかけてきた娘に顔を向けた。
そして、いつもと変わらぬ様子で諭すようにして、答えを望む娘に答える。
「彼も不安なんだろう」
「何が…」
「この前も危険な目にあったばっかじゃないか」
「今は、宗司だけじゃなくて一哉もついてるから大丈夫よ。それに、たかが後、1月や2月のことでしょ。なんで我慢できないわけ!?」
手にしていた箸をテーブルの上に叩き付けた。
そして、父親を睨みすえて大きな感情的な声を張り上げた。
娘の変貌振りに目を瞠って驚いていた父親だったが、すぐに眉間に皺を寄せてきつい眼差しを娘に送る。
「綾。はしたないじゃないか。きちんと座りなさい」
「嫌よ!」
「綾!」
父の言葉を拒絶した娘に、今度はきつい声音で咎めるような強い声をあげた。
しかし、それでも綾は首を横に振り、父の言葉に従わなかった。
親子のにらみ合いがしばしの間続く。
どれ位そうしていたであろうか。
座ったまま立ち上がった娘を厳しい目つきで睨み据える父親とそんな父親にどこか縋るような視線を送る娘。
その均衡を崩したのは、父親の方だった。
ふぅと大きく息を吐き出し、肩を大袈裟に竦めて見せた後、綾から視線を逸らして自身が手にしていた箸をゆっくりとテーブルの上に置く。
いつもの父なら自分が強く言えば聞いてくれると分かっていた綾は、父親が折れてくれたかと期待したが、それは見るも無残に消え去った期待だった。
綾から視線を逸らしたまま、彼は立ち上がる。
その動向を期待に満ちた瞳で追いかける綾。
彼は、椅子から立ち上がり、綾に近づくと自分を見つめる娘の瞳と己の瞳を合わせて言った。
「これは、もう決まったことだ。綾の我侭は通用しない。聞き分けなさい。婚約者にこれ以上心配させるのは、酷というものだよ。子供じゃないんだ。水原の人間として恥ずかしくない言動をしなさい」
ぽんぽんとすれ違い様に綾の肩を軽く叩き、その部屋を後にした。
「普段…子供扱いする癖に…、都合のいい時ばかり大人扱いしないでっ!」
「そうか?じゃあ、以後気をつけることにするよ。だから、綾も節度ある態度を示しなさい。正一君の前でそんな態度を取ることは、私が水原の当主として許さないよ」
振り返ることもなく、それだけ言い捨てると父親はその場を後にした。
したがって、彼は娘の目尻に浮かんだ涙など見ていない。気づいてもいなかった。
扉の閉まる音がゆっくりと耳に届く。
ただ呆然と父親が出て行くのを見送るだけだった綾は、その扉の閉まる音にはっと目を見開くが、それと同時に滂沱のように涙が零れてくる。
「やだ…」
小さく拒絶の言葉が漏れるが、それを拾うものなど誰もいなかった。
がたりと綾の体からは力が抜け、一度は立ち上がったはずの椅子にもう一度、腰を下ろす。
その拍子に綾の手が掴んだテーブルクロスが歪な皺をつくり、がちゃりと並べられた皿が不快な音を立てる。
「嫌だ」
「嫌…」
「嫌よ!!」
という声は父親の耳に届くことはなかった。
ただ、他には誰もいない空間に虚しく甲高いヒステリックな己の声が響くだけだった。
時間は綾に己の幸せに浸る時間をくれなかった―。
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2008
Vizard (34)
その日以降、一哉が草壁の家に帰ることはなかった―。
翌日は、とてもじゃないが綾とて学校にいける様子などではなかった。一方、一哉は普通に学校に通学してはいた。
大方予想はできてはいたものの、綾が到着する時刻に正門近くで待っていると兄の運転する車が乗り込んできて最初は驚いた。
そして、兄だけが中から出てきたことにもっと驚いた。
警察署の前で捨て台詞を吐くだけ吐いて別れただけに気まずさのようなものはあったが、それを感じさせずにいつもの笑みを浮かべて一哉はそれを迎え入れた。
兄は苦々しい顔をしながら、一哉を一瞥した後、顔を背けたまま命じた。
「放課後、水原の屋敷へ来るように」
と。
ある程度、予想はしていた。
彼の失態は、それに値する失態だった。
父からそれを聞かされたとき、みっともなく食い下がってみたが、にべもなく「決定事項」だと切り捨てられた。
「くそっ…」
ハンドルを握りながら悪態をついてみても、何も変わりはしない。
そう変わらないのだ。
兄の言葉に従い、放課後真っ直ぐに水原の屋敷へと向かった。
その後、綾は大丈夫だろうかと気にしながら――。
一哉が屋敷に仕える女中に案内されて室内に到着したときには、兄も父も既に揃って居た。
主人である水原とそして、綾の姿もある。それだけではない。堺の姿もそこにはあった。
「…遅くなり、申し訳ありませんでした」
別に寄り道もしたわけではない。
学校が終わるのもいつもと変わらなかった。
一哉自身に非はなかったが、この場では、そう言わざるを得ない雰囲気が漂っていた。
部屋の入り口で綺麗な所作で頭を一礼した後、室内に入る。
自分へと注がれている綾の視線に気づいていた。
しかし、無視をした。
そして、兄の焼け付きそうな視線にも気づいた。
それには、一瞥を送った。
彼の顔は、醜いまでに歪んでいた。
いっそのこと滑稽なほどに――。
軽く口の端を持ち上げるとその意味が分かったのか、兄はひどく一哉を睨みつけた。
その手に作られた拳はぶるぶると震え、聞こえてきそうなほど強く歯軋りを繰り返していた。
―みっともない。
恥晒しめ―。
そんな兄の姿を見てもその程度にしか思わなかった。
「いや、構わないよ」
穏やかな話口の水原は、娘が無事に戻ってきたことですっかり落ち着きを取り戻している様子だった。
昨日の焦りが嘘のように―。
「綾から聞かせて貰ったが…、最初に綾を助けてくれたのは君のようだね」
「…いえ、私は…」
水原の口から零れたのは、事実なのだが、ここは謙虚にしているべきだと踏んだ一哉は、軽く首を振りながら答えた。
しかし、水原は上機嫌な声で笑い、一哉の言葉を遮った。
「それでだが…、学内だけじゃなく普段も綾の護衛を頼みたいんだが、構わないだろうか?」
一哉は目を見開いた。
兄の苛立ちの理由を悟った。
横目で兄を確認すると必死に自分の感情を抑えているのだろう。
座るソファの上で膝の上に作られた拳が震えていた。
不自然さを感じさせずに自然に視線を滑らせて今度は兄から真向かいに座る綾に目を向ける。
綾は、一哉の視線を受けてにっこりと笑うだけだった。
その目は腫れていて、泣いていたことを表している。
別れたときの泣いていた彼女の姿が思い出されてならない。
逃げるように一哉は、横に座る彼女の婚約者である男の顔を確認する。しかし、彼の顔は不服そうな顔をしていた。
どうも、彼は納得していない様子だと一哉は悟る。
本能で感じ取っているのかもしれない。彼女の気持ちを――。
その後、水原に視線を戻す。
「ですが、お嬢様にはすでに兄が…」
「宗司くんには、今まで通りついてもらうが、今回のようなことまたがあったときに2人ならまだ、対処の仕方があるかもしれないだろう?1人より2人の方が私も安心だし、君の今回の行動を評価しているんだ」
「それは、ありがとうございます。兄の補佐ということですか?」
「いや、君の補佐を彼にしてもらう形にしてくれ」
尚のこと、兄にとっては面白くないことだろう。
しかし、一哉からしてみればこれ以上面白いことはない。
己を見下げてきた男の上に立つことができるのだ。
笑いがこみ上げてくるのを堪えつつ、向かい側に座る青年の顔を確認した。
「どうも堺様は、納得してないようですよ」
指摘してやれば、水原の視線が綾を挟んで向こうに座る堺へと移る。
咎めるような視線を向けられ、堺は緊張に身を固くした。
ピシッと背筋を伸ばして、婚約者の父親の視線に耐える。
「そうなのかい?正一君」
「まさか。綾さんの身の安全を考えれば…」
「だそうだ。どうだろう?」
娘の婚約者の100点満点の答えに満足して相好を崩しながら一哉に向き直る。
笑いを噛み殺しながら頷いた。
「こちらです」
「ありがとうございます」
案内された部屋を確認して、案内してくれた屋敷で働く顔なじみの女中に礼を言う。
決して広いとは言えない空間。
ベッドと木の机。
本棚と造りつけのクローゼット。
草壁の自分の部屋に比べても十分に広い空間。
あの家のように自分に苛立ちをぶつけて暴力という形で訴えてくる人間などいない。
己の体をサンドバッグのように扱う者たちなどいない。
恨みの篭った視線で見てくる女もいない。
居ないもの同然に扱い、自分の過ちから目を逸らし続ける何よりも憎い男もいない。
これで、女の住むところを転々としなくて済む。
自分の居場所のないあの家に帰る必要もない。
―彼女と同じ空間にいることができる。
2008
Vizard (33)
警察によって事情聴取を受けた後、解放され、家に帰ろうと警察署を出た一哉を待っていたのは、父と兄2人だった。
神妙な顔をした彼らを見た時、ふっと自嘲気味た笑いが一哉の口から零れる。
役立たず共が雁首そろえて何しているのか―と。
そんな彼らの前を素通りしようとした一哉は、引き止められた。
「一哉」
父の低い声に、ぎろりと鋭い視線を送る。
息子のそんな睨みは、初めてだった。
否、忘れていただけで、最初に亡き愛人が産んだ自分の子供を妻のいる家へと上げたその日に送られた小さな子供からの視線と同じだった。
10年以上前のことを忘れていただけだ。
そうだ。
最初から何一つ変わっていないのだ。
「何かご用ですか?」
冷え冷えとした声音。
「ふん。英雄気取りか?」
本日の失態の原因である兄の宗司の声にぴくりと一哉の表情が引きつった。
一体、誰の所為だと―。
しかし、ここで苛立った様子を見せては、程度の低さを露見しているだけに過ぎない。
くすりと笑ってみせた。
「いいえ」
綺麗な顔に象られた笑みは、その目が笑っていなければ不気味さと腹立たしさを一層煽るだけだ。
それが、憎い相手であれば尚更のこと。
父はさておき、兄2人の癇には障ったようだった。
それすらも内心では笑っていた。
馬鹿で低俗な男達だと。
「今日のことは、僕の責任のようですからね。責任に対する義務を果たしただけですよ。どこかの誰かさんとは違ってね。謝るだけなら猿でもできる。…違いますか?」
たっぷりと棘をこめた一哉の言葉に、宗司の顔が怒りに赤く染まる。
そして、父親は眉間にぐっと皺を寄せた。
「まぁ、猿真似しか出来ない時点で猿以下でしょうがね」
「一哉。貴様…」
「くだらない言い訳をつらつらと並べている暇があるなら、探しにいった方が時間の無駄がなかったと思っただけですよ。誰かを見ていてね…」
にっこりと笑う一哉。
宗司が怒りに任せたまま一哉の制服の襟首を掴み上げた。
大きく揺さぶられるが、既に殴られることに慣れている一哉は全く動じない。
自分の台詞は、彼のプライドを傷つけるような言葉をわざと選んでいる。
その後の兄の行動も至極簡単に読めていた。
「どうぞ。気のすむまで殴ればいい。まぁ、今回あなたには、いいところが一つもなかったようですしね」
くすくすと更に怒りを煽るような台詞を選んでは吐く。
一哉の手のひらの上で転がされるようにして、激情を覚える兄の顔を見て喉の奥で笑いを噛み殺していた一哉だったが、それは横から飛んできた拳によって中断させられた。
何も己だけでなく、自分の襟首を掴みあげていた宗司までもが殴られたようで、掴まれていたはずの襟首が解放されたが、突然のことにバランスを崩し、一哉はよろめきながら足を2、3歩踏み、その後なんとか地面に尻をつくことを避けることができた。
一方の宗司はと言えば、突然の予想もしない衝撃に地面に伏していた。
この殴られた後の2人の姿が、如実に力の差を表していたのかもしれないし、もしくは、2人によって力を使い分けていたということも考えられなくもない。
しかし、その真意を問うことはできなかった。
「いい加減にしろ」
苦々しい兄の一喝によって―。
「宗司。今日の非は、全部お前の責任だ。一哉に感謝しろ」
殴られたところを抑えながら、苦悶の表情を浮かべた。
「一哉。貴様は、宗司を煽るようなこと言うんじゃない。お前も勝手な行動は今後…」
「あんたも一緒だろうが」
宗司にびしっと苦言を呈した後、一哉に向かって同じように小言を言おうとした弥一だったが、全てを言い切る前に、一哉自身によって遮られた。
弥一の目が見開かれる。
己を睨みつける義弟の視線に思わず息を呑んだ。
「何様のつもりか知りませんが、偉そうな口利くのは、勝手ですけどね。何もせずにのうのうとあの場でただ頭を下げる男を見てるようじゃ程度が知れてるというものですよ。現当主、次期当主が雁首揃えて何やってるんだか。その癖、一番の役立たずに先を越されてちゃ世話も面目もないですね。失礼します」
あろうことか父までも馬鹿にした言葉に弥一の怒りのボルテージは上昇していくばかり。
どこまで、恩知らずなヤツだろうかと―。
背を向けて今度こそ彼らの前から姿を消そうとした一哉だったが、そう簡単にはいかなかった。
今度は、弥一が怒りの表情を滲ませて一哉の肩を掴んだ。
それを煩わしげに見た後、一哉はその手を掴み上げ、主家である水原の家で見せたときと同じように兄の体を地面にねじ伏せようとした。
いい加減煩いと―。
コンクリートは木の床とは異なり、さぞかし体に響くだろうに―と口許をにやりと歪めた。
しかし、それは父親によって制止された。
「一哉!やめろっ!!」
チッと舌打して兄の腕を掴んでいた手を離した。
そして、父親の顔を睨みつける。
「お前、何故お嬢様の居場所がわかった」
「…」
何を言い出すかと思えばそんなことかと思い、息を吐き出しながら軽く首を横に振る。
「何故、それをあなたに言わなくてはならないんです?」
「今後のために…、草壁の家としてだな」
「馬鹿げたこと言わないでください。名前はやっても草壁の人間だとは認めてないくせに―調子いいことばかり言わないでくれませんか。これは、僕が僕自身で培ってきたものです。何であなた方に無償でそれを提供しなければならないんですか?冗談も休み休み言ってください」
「一哉!貴様…。この恩知らずめ」
一哉の言葉に異常に興奮した宗司が声を張り上げる。
しかし、一哉の一睨みで押し黙った。
それほどの迫力があった。
既に、一哉の理性は我慢の限界が来ていた。
今日のこと。
目まぐるしく変化した一日に疲れているのに、ここへきて鬱陶しい以外の何物でもない家族とは名ばかりの者たちの干渉。
「誰が恩を売れなんて頼みましたか?大体、何故、今まで僕が何も言わずに黙って殴られてサンドバッグになってあげていたと思うんでしょうね。せめてもの宿代だと思っていたんですけどね…。あなた方には伝わっていなかったようですね。それでも余りあるくらいだと思っていたんですけど、足りませんでしたか?」
兄達は無視して、父親を睨み吸える。
父は、一哉が他の家族によってどのような扱いを受けているのか知りながらも見てみぬ振りをして何もしなかったという心苦しさがあるのか一哉の視線から逃げるように顔を逸らした。
そんな父に侮蔑の視線を送りながら、一哉は続けた。
「少なくとも僕には十分すぎると思っていたんですけど…。あなた方が何かしてくれましたか?してくれたことと言えば、まだ幼かった―しかも、母を亡くしたばかりの幼児の手から母の遺影を奪い、焼き捨て、愚弄したことくらいだと思うのですが、間違いでしょうか」
押し黙った彼らを一哉は鼻で笑うとじゃりっと靴音をたてて、その場から姿を消した。
「どこへ行く」という問いには答えを返さなかった。
ひっそりと暗闇に姿を消した。
神妙な顔をした彼らを見た時、ふっと自嘲気味た笑いが一哉の口から零れる。
役立たず共が雁首そろえて何しているのか―と。
そんな彼らの前を素通りしようとした一哉は、引き止められた。
「一哉」
父の低い声に、ぎろりと鋭い視線を送る。
息子のそんな睨みは、初めてだった。
否、忘れていただけで、最初に亡き愛人が産んだ自分の子供を妻のいる家へと上げたその日に送られた小さな子供からの視線と同じだった。
10年以上前のことを忘れていただけだ。
そうだ。
最初から何一つ変わっていないのだ。
「何かご用ですか?」
冷え冷えとした声音。
「ふん。英雄気取りか?」
本日の失態の原因である兄の宗司の声にぴくりと一哉の表情が引きつった。
一体、誰の所為だと―。
しかし、ここで苛立った様子を見せては、程度の低さを露見しているだけに過ぎない。
くすりと笑ってみせた。
「いいえ」
綺麗な顔に象られた笑みは、その目が笑っていなければ不気味さと腹立たしさを一層煽るだけだ。
それが、憎い相手であれば尚更のこと。
父はさておき、兄2人の癇には障ったようだった。
それすらも内心では笑っていた。
馬鹿で低俗な男達だと。
「今日のことは、僕の責任のようですからね。責任に対する義務を果たしただけですよ。どこかの誰かさんとは違ってね。謝るだけなら猿でもできる。…違いますか?」
たっぷりと棘をこめた一哉の言葉に、宗司の顔が怒りに赤く染まる。
そして、父親は眉間にぐっと皺を寄せた。
「まぁ、猿真似しか出来ない時点で猿以下でしょうがね」
「一哉。貴様…」
「くだらない言い訳をつらつらと並べている暇があるなら、探しにいった方が時間の無駄がなかったと思っただけですよ。誰かを見ていてね…」
にっこりと笑う一哉。
宗司が怒りに任せたまま一哉の制服の襟首を掴み上げた。
大きく揺さぶられるが、既に殴られることに慣れている一哉は全く動じない。
自分の台詞は、彼のプライドを傷つけるような言葉をわざと選んでいる。
その後の兄の行動も至極簡単に読めていた。
「どうぞ。気のすむまで殴ればいい。まぁ、今回あなたには、いいところが一つもなかったようですしね」
くすくすと更に怒りを煽るような台詞を選んでは吐く。
一哉の手のひらの上で転がされるようにして、激情を覚える兄の顔を見て喉の奥で笑いを噛み殺していた一哉だったが、それは横から飛んできた拳によって中断させられた。
何も己だけでなく、自分の襟首を掴みあげていた宗司までもが殴られたようで、掴まれていたはずの襟首が解放されたが、突然のことにバランスを崩し、一哉はよろめきながら足を2、3歩踏み、その後なんとか地面に尻をつくことを避けることができた。
一方の宗司はと言えば、突然の予想もしない衝撃に地面に伏していた。
この殴られた後の2人の姿が、如実に力の差を表していたのかもしれないし、もしくは、2人によって力を使い分けていたということも考えられなくもない。
しかし、その真意を問うことはできなかった。
「いい加減にしろ」
苦々しい兄の一喝によって―。
「宗司。今日の非は、全部お前の責任だ。一哉に感謝しろ」
殴られたところを抑えながら、苦悶の表情を浮かべた。
「一哉。貴様は、宗司を煽るようなこと言うんじゃない。お前も勝手な行動は今後…」
「あんたも一緒だろうが」
宗司にびしっと苦言を呈した後、一哉に向かって同じように小言を言おうとした弥一だったが、全てを言い切る前に、一哉自身によって遮られた。
弥一の目が見開かれる。
己を睨みつける義弟の視線に思わず息を呑んだ。
「何様のつもりか知りませんが、偉そうな口利くのは、勝手ですけどね。何もせずにのうのうとあの場でただ頭を下げる男を見てるようじゃ程度が知れてるというものですよ。現当主、次期当主が雁首揃えて何やってるんだか。その癖、一番の役立たずに先を越されてちゃ世話も面目もないですね。失礼します」
あろうことか父までも馬鹿にした言葉に弥一の怒りのボルテージは上昇していくばかり。
どこまで、恩知らずなヤツだろうかと―。
背を向けて今度こそ彼らの前から姿を消そうとした一哉だったが、そう簡単にはいかなかった。
今度は、弥一が怒りの表情を滲ませて一哉の肩を掴んだ。
それを煩わしげに見た後、一哉はその手を掴み上げ、主家である水原の家で見せたときと同じように兄の体を地面にねじ伏せようとした。
いい加減煩いと―。
コンクリートは木の床とは異なり、さぞかし体に響くだろうに―と口許をにやりと歪めた。
しかし、それは父親によって制止された。
「一哉!やめろっ!!」
チッと舌打して兄の腕を掴んでいた手を離した。
そして、父親の顔を睨みつける。
「お前、何故お嬢様の居場所がわかった」
「…」
何を言い出すかと思えばそんなことかと思い、息を吐き出しながら軽く首を横に振る。
「何故、それをあなたに言わなくてはならないんです?」
「今後のために…、草壁の家としてだな」
「馬鹿げたこと言わないでください。名前はやっても草壁の人間だとは認めてないくせに―調子いいことばかり言わないでくれませんか。これは、僕が僕自身で培ってきたものです。何であなた方に無償でそれを提供しなければならないんですか?冗談も休み休み言ってください」
「一哉!貴様…。この恩知らずめ」
一哉の言葉に異常に興奮した宗司が声を張り上げる。
しかし、一哉の一睨みで押し黙った。
それほどの迫力があった。
既に、一哉の理性は我慢の限界が来ていた。
今日のこと。
目まぐるしく変化した一日に疲れているのに、ここへきて鬱陶しい以外の何物でもない家族とは名ばかりの者たちの干渉。
「誰が恩を売れなんて頼みましたか?大体、何故、今まで僕が何も言わずに黙って殴られてサンドバッグになってあげていたと思うんでしょうね。せめてもの宿代だと思っていたんですけどね…。あなた方には伝わっていなかったようですね。それでも余りあるくらいだと思っていたんですけど、足りませんでしたか?」
兄達は無視して、父親を睨み吸える。
父は、一哉が他の家族によってどのような扱いを受けているのか知りながらも見てみぬ振りをして何もしなかったという心苦しさがあるのか一哉の視線から逃げるように顔を逸らした。
そんな父に侮蔑の視線を送りながら、一哉は続けた。
「少なくとも僕には十分すぎると思っていたんですけど…。あなた方が何かしてくれましたか?してくれたことと言えば、まだ幼かった―しかも、母を亡くしたばかりの幼児の手から母の遺影を奪い、焼き捨て、愚弄したことくらいだと思うのですが、間違いでしょうか」
押し黙った彼らを一哉は鼻で笑うとじゃりっと靴音をたてて、その場から姿を消した。
「どこへ行く」という問いには答えを返さなかった。
ひっそりと暗闇に姿を消した。
2008
お久しぶりです。
全く話が書けないほど飲んだくれてる管理人です。
ストックがやべぇ!
今日は帰省中の電車の中で講座の続きを携帯でひたすら打ってました。
…めんどい。
とりあえず携帯サイトの方で以前からちょろちょろ書いていた25話UPしておきました。
よろしければ見てやって下さい。
後でまとめて読みたいと言う人は気長にお待ちくだされ。
でわでわ。
ネト落ちは続くよどこまでも~
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