肉親と呼べるものはただ1人だった。
綺麗な母親。
とても子供なんて産んでいるようには、見えなかった。
子供ながらに、自慢だった。
父親がいないことは、別に何も思わなかった。
どうしてお父さんがいないのと言って困らせるような子供でもなかった。
そういうものだと受け入れていた。
親類と呼べるものはいなかった。
寂しいとは思わなかった。
同じ保育園に通う友達が自慢げに彼らの祖父母の話をしたところで、何も思わなかった。
自分には、綺麗で若い母親がいた。
自分へと向けられる母の愛情が深かったというのも気にならなかった理由のひとつかもしれない。
母さえいれば他に何もいらなかった。
彼女さえいてくれれば―。
それは、彼女も同じだったようで…。
彼女に良く似た自分が笑うだけで、彼女も嬉しそうに目尻に皺を刻む。
若い女が1人で幼児を抱えて生活をするのは、並大抵の苦労では語れない。
少しでも実入りのいい仕事をと探していくうちに、夜の仕事に彼女は身を落とした。
自分が眠った後、家を出て、起きる頃に帰ってくる。
寂しいとはいわなかった。
自分がそう言えば、彼女が困るということは分かっていたから。
大好きな母を困らせることはしたくなかった。
悲しみに歪む瞳は、見たくなかった。
母譲りの愛らしい容姿に年にそぐわない聡明さを兼ね備えた幼児だった。
草壁―否、上田 一哉は……。
それでも、休みの日に自分の傍に居てくれる母親に一哉は、普段甘えられない分、その穴を埋めるように存分に甘えたものだった。
疲れているだろうに、彼女は嫌な顔ひとつ浮べることなく、一哉のしたいようにさせてくれた。
自分にも父親がいると知ったのは、何時だったか―。
それは、彼女が亡くなる少し前のことだった。
まるで、彼女が自分がもう少しでこの世からいなくなると悟ったようだったと後から思ったことは数度のことではない。
最初聞かされたとき、自分にも父と呼べる存在がいるのだと不思議に思ったものだった。
ずっと母と2人だったが故に、妙な違和感しか一哉には与えなかった。
嬉しいとも何とも思わなかった。自分には母さえいればそれで満足だったのだから…。
きょとんとした顔で自分を見る息子に、眉根を寄せ、眉尻を下げて、困ったように笑う母の姿が印象的だったことを覚えている。
そして、小さな声で「ごめんね」と謝られたこと。
そのごめんねが何を意味しているのか一哉にはわからなかった。
そして、彼女はそれから幾許も経たないうちにこの世を去った。
動かなくなった彼女は、まるで別物のようで怖かった。
自分が笑っても笑ってくれない。
青白い冷たいモノがそこにあるだけだった。
自分が状況を理解する前に、大人たちの手によって彼女の姿は悲しくも骨だけになった。
それが、母だといわれても一哉には理解できるはずもなかった。
ただ、理解できたのは、自分に向けられる笑みはこの先、一生見ることが適わないということだけだった。
5歳を迎えるまで後、数日という日だった。
母を呼んでも返事はない。
近所の大人が収入の少ない母が一哉のためにと少しずつ蓄えていた金で小さな位牌と遺影だけがひっそりと置かれていた。
写真の中の彼女は、笑ってはいても一哉を見てくれるわけではない。
寂しさは、感じたものの涙は出なかった。
ぽっかりと穴の開いたような喪失感だけがあった。
育てる者のいなくなった一哉の身を周囲の大人が案じる前に1人の男が表れた。
一哉は、男を見ても顔色ひとつ変えなかった。
「私は、君の父親だ」
と口を開いた男に、一哉は父親って何だっけというくらいにしか思わなかった。
しばらくして、母が生前話してくれた存在だと思い出しても、別に驚きもしなかった。
表れた父と名乗る男の手に引かれるまま、一哉は母と過ごしたぼろいアパートを出た。
母の位牌と遺影だけを持って。
しかし、直ぐにそれらは捨てられた。
新しく出来た家族と呼ばれる者たちの手によって――。
父に連れられて到着したのは、今まで住んでいたところとは全く異なる大きな豪華な佇まいの家。
背を押されて入るように促がされ、小さな幼児は足を踏み入れた。
待っていたのは、母とは全く違う化粧の濃い、醜悪なまでに歪めた顔で見る女の姿と自分よりずっと大きい幼児の一哉からしたら、十分大人に見える兄と呼ばれる存在たちだった。皆一様に、女と同じ瞳で一哉を見ていた。
歓迎されてなどいないことは分かった。
母は、妾だったのだ。
当時は、言葉こそ知らなかったが、母が彼らにとってどんな存在だったのか悟った。
「体裁が悪いったらないわ」
開口一番に彼女は言った。
「…」
女の言葉に、父は何も言わなかった。
「大きくなって金銭目的で強請られても困るから、引き取っただけよ。水原に迷惑をかけるようなことだけはあってはいけませんからね。草壁の名に傷がつくわ」
こんな幼児に大人の何がわかろうというのか。
そんなもの女には関係なかったようだ。
「手元に置いて飼い殺しにする方がずっとかマシだから、引き取ってあげただけよ。感謝しなさい」
と母を失って悲しみにくれている筈の幼児に向かって高々に宣言した。
ぎゅっと手にした母の遺影を抱きしめる。
彼女はあろうことか、一哉の小さな腕からそれを乱暴な手付きで取り上げると床に叩き付けた。
ガラスの割れる音がする。
小さく声をあげてそれを拾おうとする一哉に対して容赦なく一哉の頬を肉厚な手で叩いた。
小さな体が床に叩きつけられる。
叩かれた熱が発生すると同時に、一哉の耳にくすくすと笑う男達の声が聞こえてくる。
「弥一。燃やしなさい」
「はいはい」
あっと思ったときには遅かった。
一哉の目の前で薄く笑う美しい、自慢の母は灰となった。
位牌は、他の少年によってゴミ箱へと捨てられた。
それを見ては高らかに笑うもう1人の少年。
泣きはしなかった。
ただ、目の前の女をにらみつけた。
それが気に入らなかったのか。燃えていく写真を満足げな笑みを浮かべながら見ていた女は一哉の視線に気づいた女は、もう一度手を振り上げた。
「あの泥棒猫に良く似たこと。その恩知らずなところも!誰も引き取り手のいなくなったあんたを引き取ってあげた私に感謝したらどうなのっ!礼のひとつくらい言ってみせなさいっ」
その口で飼い殺しと言った癖にそんなことを言う女の矛盾に幼いながら一哉は気づいていた。
聡明すぎたのだ。
そこに居た誰よりも。
そして、父親は何も言わずにその場にいただけだった。
ここには助けてくれる者は誰もいない。
母のように笑いかけてくれる人はいない。
いるのは、敵だ。
「あんな女、死んで当然よ。いい気味!天罰だわっ」
母をあざ笑う女が憎かった。
その笑いがあまりに癪に障って――。
「クソババア」
小さな可愛らしい声が紡いだのは醜悪な言葉。
ピシャリと手が飛んできても泣かなかった。
堪えた。
「このっ…」
頬がはれ上がるまで叩かれながら、母を罵る言葉を聞きながら一哉は誓った。
報いを――。
この醜悪なる人間達に―。
母を見捨て、愚弄し、ゴミと同然に扱った人間達に―。
更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
嫌いな方・興味のない方・間違っちゃった方はバックバック
Post your Comment