2008
Vizard(12)
その後、ふらふらとした足取りで教室に戻った綾だった。
しかし、綾は自分がどうやって戻ってきたのか記憶があやふやだった。
それ位には、ショックを受けていたのだと自分で認識するまでに、多少の時間を要した。
午前中にもまして、上の空の状態で午後の授業を消化し、放課後となった。
いつもなら一哉が迎えにくるのだ。
そして、一哉の兄である宗司に引き渡される。
そこで一哉は、お役ご免となる。
流石に、今日は来ないだろうと思っていた綾だった。
しかし……。
「綾、今日も来てるわよ」
と横に座る友人の嬉しそうな常より1トーンは高い彼女の声に綾ははじかれたように顔を上げていつもの定位置に視線を向けた。
そこには、柔らかな表情を浮べて立つ一哉の姿がある。
ぞくぞくと綾の背中に寒気が走る。
なんてことない普通の表情なのに…。
恐ろしさを感じられた。
薄笑みを浮かべながら、頭を軽く下げる一哉。綾は、慌ててカバンを掴むと教室を出た。
「行きましょうか。兄が待っていますから」
と言う彼の言葉もいつもと何ら変わっていなくて……。
「お帰りなさいませ。お嬢様」
そう言って綾のためにドアを開けて待つ宗司のもとに向かう綾だった。
彼の待つ正門に到着するまでの間、綾はずっと一哉を後ろから視線で追いかけていることしかできなかった。
西日が差し込んでくる校舎の下駄箱の近くで一哉は、背筋をぴんと正して美しい佇まいでそこに立っていた。
すれ違う高等部に在籍する生徒達が己の前を通りすぎるたびに、自分の顔をじろじろ見ていくのに煩わしさを感じつつも少しもそんなことを感じさせない涼しい顔でそこに立ち続けた。
いつの頃か。
綾が急に言い出したことだった。
いつものように迎えに行った綾に言われた。
彼女の横には、何かと自分に秋波を送ってくる人物だった。
そちらには、全く気にも留めずにどこか緊張した面持ちの綾が口を開くのを待った。
そう待たずとも綾が口を開いた。
「次からは、下駄箱のところで待ってて」
「…何故ですか?」
一哉の怪訝な視線から逃げるように綾は俯いて、一哉を見ないようにして視線を横に滑らせる。
「べ…別にここまで来てもらわなくても…いいというか…」
「あのね、綾には私からも言ったのよ?」
と割り込むようにして入ってきたのは、綾の横に立っていた彼女の友人だった。
ちらりと一哉は、彼女に視線を向けると嬉しそうに笑う。
その姿の滑稽なこと……。
心の中で嘲笑を浮べた一哉だった。
彼女には、何も言い返すことなく綾だけを見据える。
ぐっと息をのむ音が聞こえたが、そんなのお構いなしだ。
「お嬢様?」
「と…とにかく、ここまで来ないで!いい?」
まくし立てるように言うと綾は一哉もそして友人も置いてつかつかと逃げるように廊下を歩いていった。
一哉も勿論、後を追う。
だが、ぱしっと腕をつかまれる。
犯人は、言わずもがな綾の友人である彼女。
邪魔をしてくるような彼女の行動に思わず舌打ちをしたくなるのを堪える。
「何でしょう?」
「待って。今度はいつなら」
必死の表情で自分に食い下がってくる彼女に一哉は、涼しい顔で笑みを浮べた。
「さぁ。こちらもいろいろとあるものですから…。すいません。離してもらえますか?」
と言っても彼女は両目をこれでもかというほどに見開くだけで離してくれそうにない彼女の手をやんわりと外すと背を向けた。
もう、用済みだ…。
と心の中で呟きながら。
彼女は、一哉に利用されただけに過ぎなかった。
一哉の持つ毒に気づかなかったのだ。
逐一、彼女から綾のことを聞きだしていた一哉。決して綾が知られていないと思っていた英語教師のことですら彼女から聞きだしたのだ。
自分の身体と引き換えに…。
彼女を抱く代わりに、全てのことを洗いざらい吐かせた。
もう彼女から引き出せるものはないだろうといつ、切り捨てるかを考えていた一哉だった。
まんまと騙されたのは、惨めな女だった。
そんなやり取りが交わされた日から一哉は、下駄箱で綾が来るのを待つ。
無理してまで彼女の教室に出向く必要もない。
綾の要求は、一哉にとっても願ってもない要求だった。
自分の面倒がひとつ減る。
ふぅと息を吐き出し腕時計で時間を確認する。
そろそろかと思っていた丁度、そのとき、自分の時計を見る視界が急に曇った。
人の気配を感じ、顔をあげるとにこりと笑う一人の女子生徒の顔がある。
「何か?」
「あら、冷たい」
一哉が、同じように笑みを浮かべながら返すと彼女は、ふふっと笑いながら言う。
その言葉に苦笑を浮べて、ちょっとは傷ついたような表情をみせつつも、その女子生徒を確認する。
制服からは、高等部の学生だと…。リボンの色からは、3年生だと判断する。
そこで、ああ…と思い至る。
最近、しきりに声をかけてくる上級生だと認識した。
自分に自信があるのだろう。悠然と一哉を見ながら、流し目を送る。
別に何とも思わないが、そのままごとに付き合う一哉もなかなかに人が悪い。
なんだかんだで楽しんでいるのだから…。
この女が崩れていくのは、どんな瞬間かと――。
それを見るのが、楽しみなのだ。自分によって翻弄されて見事に人が潰れていく様は面白い。
人間という生き物の醜さを露呈する瞬間だ。
「そんな…ひどいこと言わないでください。僕、傷つきます」
と伏せ目がちに言うと、彼女はくすりと笑って一哉の顎に細く長い指をかけると持ち上げた。
そのまま口付けが落とされるのを、一哉は抗いもせず待った。
女の満足そうな顔は、優位に立っていることを楽しんでいると表していた。
一哉に知らず知らずのうちに手の内で転がされていることなど知らずに、自分が彼を翻弄している気になっている。
一哉からしてみれば無様以外の何者でもない。
女王様気取りか…。
恥知らずめ。
罵る言葉は、当然彼女には届かない。
柔らかな自分のものとは異なる女の唇の感触を楽しんでいるとどさっと何かが床に落ちる音をすぐ近くで聞いた。
女と唇を触れ合わせたまま、一哉が視線だけを音のした方向に向けると綾がいた。
目を見開いて信じられないものを見るように一哉と上級生の女のキスシーンを見ている。
何をそんなに驚いた顔をしているのか…。
お前だって、やっているだろう?
と綾の驚きようにくっと笑って一哉は、女の身体を押し返す。
そして、女を見ながら、甘く笑いかける。
「もう時間です」
「ん、もう?仕方ないわね…。じゃ、また」
ともう一度女は、一哉に軽く唇を触れ合わせると微笑みながら一哉に手を振ってその場を去る。
綾とすれ違うときに、くすりと笑む声を零したのを一哉は横目で確認した。
そして、女がいなくなったのを確認すると唇を手の甲で乱雑に拭いながら、綾に近づくと彼女の床に落ちているカバンを拾い上げて彼女に差し出す。
「行きましょうか。お嬢様」
しれっとした表情でカバンを渡してくる一哉の顔を見開かれた目のまま、ぎこちない視線で追う。
ゆっくりとした手で一哉からカバンを受け取る。
顔が少し赤い。
一哉は、綾が荷物を受け取ったことを確認すると綾の横を通りすぎる。
その際、顔を紅潮させている綾に向けて、嘲笑交じりに――。
「ガキ」
と綾にだけ聞こえる声で言う。
さっさと自分など置いて行ってしまう一哉の背中を慌てて振り返る綾。
信じられない……。
こんな、いつ誰が見てるともわからないところで…。
と思うのと同時に、綾は、何故自分が今こんなに落ちつかないのかわからずに戸惑っていた。
「早く行きますよ」
急かす声に突き動かされるように自分の靴が置いてある下駄箱に向かうのだが、一足先に靴を履き替えて待つ一哉を盗み見ながらも、先ほどの光景が瞼の裏に焼きついてはなれない。
いつものように一哉とは別れて、宗司の迎えの車に乗っても…さっきの光景が離れない。
何でこんなに気になるのかわからずに綾は、1人困惑していた。
何故なのか…。