2008
Vizard(13)
あれからずっと考えている自分がいることに綾は気づいていた。
そして、未だに途惑っていた。
何故、こんなにも落ち着かないのか。
そわそわしてしまうのか…。
頭から離れないのか。
最初は、あんなに頼りない、邪魔な、煩わしい存在としか認識していなかった彼を――。
自分のことなのに上手く説明がつけられない。言葉が見つからない。
自分が一番よく分からない。
宗司の運転する車の振動を全身で感じながら、流れていく景色に目を向けた。
気持ちのいいほど晴れた天気。
一学期の授業も残すところ後、少しとなり本格的な夏が訪れようとしていた。
赤信号で丁度止まった車から見上げた空に飛ぶ鳥を見て、何気なく思う。
羨ましい。
何も考えずに、何にも捉われずに自由に飛び回ることができて――。
自分とは、大違い。
それは、恵まれすぎたが故の欲か。
願いか。
それとも、受け入れながらも抗うことを望んでいるという心の表れか。
どちらにせよ。
綾がこの先一生、手に入れることのできないものだった。
それこそ、全てを捨てる覚悟がなければ…。
そんな覚悟は、彼女には無かった。
思わせぶりな溜息が、車のハンドルを握る宗司の耳にも届いたのか、彼はバックミラー越しに後部座席に座る綾を見た。
そして、窓の外を見ている憂いを含んだ彼女の表情を確認する。
「どうかなさいましたか。」
宗司の不審げな声に綾がはっとしたように目を見開き、顔を外から車内に向けた。
バックミラーにきつい宗司の視線が映っていた。
綾は、緩慢な動作で首を振った。
「別に…」
「そうですか…」
深くは問わない。
それは、一哉もこの片方だけ血の繋がった彼の兄も同じだった。
その点だけは……。
「何でもないわ…。もう少しで夏休みだなぁって思っただけ」
「そうですね…」
綾の言葉に耳を傾けながら、相槌を打つ。
それ以降、口を閉ざして顔を俯けた綾に怪訝に思ったのか眉間に皺を寄せる。
また一つ綾が溜息をついた。
夏休みがくれば、会うことはなくなる。
そうすれば、ちょっとは変わるのか――。
以前のように、彼を気にしなくなるのか――。
だが、会えなくなるのは…少し――。
と後少しでその単語を口に浮かべそうになったところで綾は、はっとした。
ぱっちりと目を見開き、瞬きを繰り返す。
私……今、何て思った?
自分に問い返しても、それは自分なのだからどこまで行っても答えは出ない。
出るはずも無い。
「お嬢様?」
「え…あ、な、何かしら?」
「ご気分でも悪くされましたか?」
「そ、そんなことはないわ」
宗司の訝しむ声に適当な返事を返しつつ、手をぎゅっと握り締めた。
おかしいわ…。
何で、何で……休みに入って会わなくなるからって――。
私が、寂しいなんて感じるなんて……。
ぶんぶんと首を振ってその考えを追い出す。
おかしい。おかしいのだ。
あんなあまつさえ、主を脅してくるような人物にそんな風に思うなんてどうかしている。
明らかに様子のおかしい綾を気にしつつも宗司は不審な視線を送るだけで、何も言わなかった。
そして、綾の気を逸らすかのように問いかける。
「夏休みに入ったら、堺様とどちらかへご旅行でも行かれては如何ですか?」
ぴくりと綾の身体が動いた。
「……そ、そうね」
と引きつった声で答える。
綾の様子にまずいことを言ったかもしれないと思った宗司だったが、もう遅い。
「申し訳ありません。差し出がましいことを申しました」
「う、ううん。別に…それもちょっと考えてみる…」
「無理にとは、言いませんので。お嬢様のしたいようになさって下さい」
そう言うのがやっとだった。
だが、綾はそんな宗司の言葉など全く聞いていなかった。
考えていたのは、一哉のこと――。
「ね…ねぇ」
「何でございましょう?」
「休みに入ったら、一哉は?一哉はどうなるの…?」
と聞いてきた綾に宗司の顔が歪む。
綾のどこか必死な表情に尚更、宗司の顔は渋面を刻んだ。だが、綾はそんな宗司の様子も気づかない。
「あいつは、学校内でのお嬢様をお守りするのだけが仕事です。当然休みの間は、お嬢様に近づくことはございません。ご安心ください」
声が俄かに硬質になった。
しかし、綾は男の声音よりも言葉に乗り出した身体から力を抜き背後にある背もたれに身を預けた。
やっぱり……。
分かってはいたのだ。
そのために、一哉は選ばれただけで、本来は堺が無茶な要求をしなければ、その仕事もなかった。
綾は、彼の存在すら知らなかったのだから。
「ねぇ、一哉って…」
と言いかけて口を噤む。
何を聞こうとしたのか…。自分でも分からない。
どんな性格なのか。
彼らの前でも自分に見せるような顔をするのか。
笑いながら人を殴るのを楽しんでいるのか…。
草壁の家ではどんな姿を見せるのか。
「お嬢様?」
言いかけて口を噤んだ綾に、宗司が綾の名を呼ぶ。
綾は、顔を上げて勢いよく首を振った。
「な、何でもないわ…」
「本当にですか?」
疑うような宗司の視線を感じた。
綾は、相手が見ているのかどうかもわからないのに首を振り続けた。
「本当よ…」
「何か失礼なことでもしましたか?」
最初から決め付けるような言葉。
それが、何より彼らの関係を物語る。
「そ、そんなことないわ」
「そうですか。何かお気に障るようなことがございましたら、遠慮なく言ってください」
「…その時は、どうなるの?」
「当然、お嬢様からは遠ざけますので、ご安心ください」
寧ろ、その声はそうなることを望んでいるように綾には聞こえた。
「本当に何もないですね?」
と再度確認するように聞かれ、綾は即座に頷く。
「本当よ。何もないわ…ただ、気になっただけなの……。ごめんなさい。変なこと聞いたりして」
「いえ。それならいいんです。お嬢様に何かあったときは、私だけでなく、堺様も旦那様もご心配されますから…」
という声をどこか上の空で聞いていた。
もう一度外に視線を向ける。
空はどこまでも青かった。
綾のいろんな迷いでぐちゃぐちゃになった心とは対照的にどこまでも青かった。
夏は、そこまで来ていた。
綾の心に変化をもたらす夏が……。
そして、彼女を取り巻く環境に大きな変化を与える夏が……。