更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard(71)
綾が戸籍の上での夫である堺ではなく、使用人の中の1人に過ぎない一哉の子供を生んでからそう時間も経たないうちに関係者に発表された。
国内有数企業の会長である水原の娘である綾が、ゆくゆくは後継者となるべく産まれてきた子供とその子供を産んだ綾に目通りしたいという人物は、吐いて捨てるほどいる。
申し入れのあったものを父親が選別して、あわせる。
綾自身、何度か顔を合わせた者も居たが、次から次へと入れ替わるように現れる人物達に辟易しつつあった。
丁度、疲れがピークに達した頃に父親に連れられるようにして、一度も綾の入院している病院に訪れることのなかった堺が現れた。
はじめ堺の姿を見た瞬間、綾は目を瞠った。
何故こんなところにのこのこ姿を現したのかと言いたい気持ちはあった綾だったが、父親の手前何も言うことができなかった。
ただ、疲れも手伝ってか鋭い睨みだけは消し去ることもできずに強張った表情のまま堺を睨み続けた。
「綾、どうした?そんな怖い顔をして…」
綾のその態度を怪訝に思った父親が声をかけると漸く綾は、堺から目を逸らした。
そして、そのまま父親を睨みつけた。
上機嫌のまま現れた父親は、当然のことながら娘の強張った表情に驚きを隠せなかったようで、面食らったような顔で娘を見た。
「どうかしたのか?」
「…どうかしたのかですって?」
父親の間抜けな問いに食ってかかるように声をあげる。
間違いなくその声音は、不機嫌さを擁していた。
驚きの表情を隠しもせずに、目を見開いて自分を見つめる父親に不満をぶつけた。
「次から次へと人がやってきては、あーだ。こーだ。言いたい放題。これじゃ何のための産後入院かわかんないじゃない。家に帰ってた方がよっぽど楽よ!」
「あ…綾」
綾の癇癪に困惑の表情を浮かべるその時、廊下では規則正しい靴音が響いていた。
部屋の前に立ったその靴音の持ち主は、部屋の中から聞こえてきたヒステリックな声にドアノブにかけた手がぴくりと震えた。
室内にいるであろう部屋の住人が、不満を喚き散らしているのが用意に想像ができた。
その様子から近親者が訪れているのだろうと即座に判断するとドアにかけた手を一度、離してノックをするために軽く握った。
扉に3度、拳を打ち付けてノックしてから室内に入った。
「失礼します」
娘の癇癪にすっかり困惑していた水原は、その声に助けだと言わんばかりに娘から逃げるように部屋の扉付近に顔を向けた。
つられるようにして水原の近くに立っていた堺もそちらへと目を向ける。
綾は、その声の持ち主が即座に誰か分かったので、父親や堺と同様にすぐに顔をそちらへと向けていた。
6つの瞳にほぼ同時に見られたのは一哉だったが、動揺することもなく、自然な様子で部屋にいた者たちに問いかける。
「いかがなさいましたか?」
「あ…いや」
言い淀む水原。
そんな彼を差し置いて、一哉は室内に足を踏み入れると綾の側へと行き、自分が病室から席を離れていた理由でもある綾に頼まれて売店まで行って購入してきたものを差し出した。
「お嬢様。こちらでよろしいでしょうか?」
差し出されたものを受け取った綾は、先ほどまでの癇癪が嘘のように形を潜めていた。
「ええ。ありがとう」
にこやかに笑って受け取る。
水原は、娘の癇癪が収まったことに胸を撫で下ろしたが、面白くないのは堺だった。
但し、それは一哉限定のようだった。
すぐに父親へと向けられた視線は、先ほどよりも穏やかにはなってはいるものの、まだ不機嫌さを表していた。
「それで、お父様達は何の用?疲れてるの早くしてくれないかしら?」
「あ、ああ…」
娘の機嫌の悪さに困惑の色を隠しきれないまま、歯切れの悪い様子で今日、堺を伴ってまで訪れた本題に入ろうとする。
「子供の名前だが…」
最初から自分が決めると言って譲らなかった産まれてから数日経過した子供の名前。
それを聞いたところで、綾の機嫌は何も変わらない。
ツンとした様子で、次を促す。
「やっと決めてくれたの?遅いから忘れているのかと思ったわ」
これでもかというほどのたっぷりと嫌味を籠める。
気色ばんだ水原に対し、綾は涼しい顔だ。
流石に見かねた一哉が綾に釘を刺す。
「お嬢様」
綾は一哉を見て、少しばつが悪い思いをしたのか小さく「わかったわ」と吐き出した。
これで大丈夫かと水原は綾と一哉の様子を見て、次を切り出した。
「それで名前なのだが…、『怜迩』でどうだい?」
どうだといわんばかりに自信満々の表情で、娘の反応を待つ。
―嫌と言ったところで、変える気などないくせに…。
とは、思っていても口には出せない綾。
軽く息を吐き出して2、3度首を縦に振った。
「お父様が考えて、その名前にしたのだから、悪いなんて言える訳ないでしょ」
「そうか」
娘の応えに満足そうに笑う父親。
そんな父親を横目で見つめる綾。2人の間には、明らかな温度差があった。
水原は、満足気な表情のまま姿勢正しく立つ一哉に向き直る。
「これからは、綾だけでなく怜迩も頼む」
「承知致しております」
主でもある男からの言葉に頭を深く下げる。
この病室での用件はもう済んだのか、水原の意識はもう別のところに向いていた。
「それで…怜迩は?」
「怜迩は、今は寝てるわ。残念ね」
「あぁ、まぁ仕方ないか…。お前も疲れているだろうし、怜迩の顔を一目見てから帰るとしようか。正一君、君はどうする?」
「僕も仕事があるのでこのまま帰ります」
「そうか。ほとんどここへ来てないんだろう?偶には…」
「いえ」
水原の気遣いにも首を振って、帰るということを主張する。
強い主張に水原もそれ以上、勧めることもできずに頷くと病室を出て行くために扉へと足を進めた。
「お送り致します」
2人の後を追うように一哉が後を追う。
ガラス張りの新生児室の前まで来ると堺と水原の2人の姿は対照的だった。
嬉しそうに孫の寝顔を満足気に見つめる好々爺たる水原と忌々しいものを見るかのような暗く淀んだ眼光の堺。
一哉は、ガラスの向こうにいる怜迩よりも横に立つ陰惨たる顔付きの堺が気になって仕方なかった。
しばらく見つめた後、満足した水原は病院を去ろうと足を踏み出した。
しかし、水原が動いた後も気づかないのか鋭い眼光で赤子を睨みつける堺。
言い様の知れない不気味さがある。
「正一君…。どうかしたか?」
後ろをついてくると思っていた人物がついてこないことに不審に思った水原が声をかけるとはっとしたように顔をそちらに向けて、小走りで後を追う。
その姿を眇めた目で見ながら、一哉は独り言ちた。
「…気をつけた方がいいな……」
それは、声を発した一哉の耳を掠めただけで他の誰の耳にも入らなかった。
まるで自分に言い聞かせるかのような言葉。
それだけ呟くと2人を見送るためにゆっくりと後を踏み出した。
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2008
Vizard(70)
時は過ぎて綾は、特に大きな問題を迎えることなく臨月を迎えた。これ以上、喜ばしいことはないだろう。
父親である水原が、初孫の誕生をすぐ側まで控え、これでもかというほどの設備の整った病院に娘の綾を入院させ、いつ産まれてきてもいいように手配したのは当然のことだろう。
最大限のできることを金という力を使って減らせる負担は軽減する。
それは、祖父として産まれてくる孫にできる最初の贈り物であり、親として娘にしてやれる労わりの形のひとつであるかもしれないが、かといって綾は父親のその行動を喜ばしく思っているかといえば、そうではないのかもしれない。
綾にとって、今すぐにでも産まれてきそうな10ヶ月もの間、腹の中で育てた―育った愛しい男の子供と、その父親でもある一哉がいれば事足りるのだ。
それだけで、満足なのだ。
もう既に形だけになってしまった夫の姿など見えなくてもいい。見えないほうがいい。
綾の身に宿った新たな命が自分が用意した男の子供だと信じて疑わない父親のいらぬお節介など余計なお世話。
姿を見せることのない堺に水原は、しかめっ面で一体何をしているんだと綾に気遣ってかそう口にする水原だったが、寧ろ父親のその姿が綾にとっては、滑稽だった。
あの日から、もとより姿を見せなくなってはいた堺だったが、更に拍車をかけたように綾と一哉の目の前に姿を表すことはなかった。
2人の目―特に、一哉から逃げるようだった。
だからと言って、綾も一哉も2人とも、矮小な男の存在など、昔から存在しなかったかのように消し去って、日々を消化していた。
落ち着かない気持ちで待っていたのは、水原だけではなかった。
忙しなく動きまわり、落ち着きのなさを見せる水原を横目で見ながら、壁に身を寄せて不動で立っていた一哉もまた、緊張と期待と不安がない交ぜになった状態で時間が過ぎるのをただ、ひたすらに待っていた。
もしかしたら、一番動揺していたのは、初孫の誕生を待つ水原ではなく、一哉だったかもしれない。
願うことは、どうか無事で―。
どちらとは言わない。望むのは、どちらの命も……。
――名乗ることはできない。
――父親として接することも適わない。
――それでも、最大限の祝福をあげよう。
――父親として……。
それが、一哉にできる唯一のことだから――。
新たな産声が聞こえるのをただ、ひたすらに待っていた。
待つのがこれほど苦痛だと感じたのは、初めてだろうか。
腕に嵌められた時計を確認しては、針だけが坦々と時を刻んでいくのを改めて実感する。
まんじりともしない時間を過ごす。
苛々したように組んだ腕を人差し指が何度も叩く水原。
時計ばかりを気にする一哉。
本来ならばいるべきはずの堺の姿は、なかった。
焦燥と苛立ちの中、その瞬間を待つ男2人の耳に慌しい靴音が飛び込んでくる。
2人の視線がその靴音の持ち主に集中する。
しかし、すぐに2人は落胆した。1人は、ありありとわかるほどの落胆の表情を浮かべて、もう1人は顔にこそ出さないものの落胆の色を表す息を吐き出した。
水原と一哉の落胆の色にも気づかない男は、額に汗を浮かべ、息を切らせてどこか焦りを浮かべた表情だった。
何かあったのだろうか。
焦燥していた男は、男達の落胆に気づくことなく足早に水原に近づくと何やら耳打ちをした。
用件を伝え終えると男は、深く頭を下げた。
水原は、目の前の深く頭を垂れる男の姿と娘が入っている分娩室を何度も交互に見やった。その表情には、困惑の色が浮かんでいた。
「会長…。お願いします」
懇願する部下の声に、水原は深く目を閉じると壁に直立不動で立って控えていた一哉の側へ来ると苦悶の表情を浮かべながら、弱弱しい声で懇願した。
「トラブルが起きたから戻る…。綾と産まれてくる子供に何かあったら連絡してくれ」
後ろ髪引かれる思いなのだろう。
一哉に向かって口を開いてはいるが、その視線はずっと別の方向を気にしていた。
主人でもある水原の言葉に従僕としての立場しか持ち得ない一哉は、男の言葉に従うほかない。
もとより、そのつもりだ…。
見ていないとは、分かっていながら軽く頷いて返答する。
「わかりました」
「…頼む」
一哉の応えを聞いてから、もう一度鷹揚に頷くとくるりと一哉に背を向けた。
尊大な口調で「行くぞ」と頭を下げ続けたままだった部下の男に声をかけると病院内から姿を消した。
院内の廊下を大股に歩く2人の男の後ろ姿が徐々に小さくなっていくのを視界の端で捕らえながらも、もう一度、一哉は時計を確認した。
既に4時間が経過していた。
初産では、時間も掛かることもままあることだ。
しかし、待つ身としてはその時間は長く感じられて仕方ない時間だ。
夜間のため、己以外誰もいなくなった廊下は暗く、不気味な雰囲気を醸し出している。
分娩室の固く閉じられた扉に目を向けた一哉の瞳は、誰もいないことも手伝ってかいつになく不安気に揺れていた。
それから、間もなくのこと元気よく泣く赤ん坊の声が聞こえた時、漸く一哉は張っていた肩の力を抜くことができた。
それと同時にこれまで固く閉ざされていた扉が開き、出てきた看護師が廊下にいるはずであろう水原の姿を見つけようとしていることに気づいたので、一哉は彼女に近づいていった。
「旦那様は、急用で帰られました」
「…そうですか」
「それで…」
俄かに驚いたような顔をしつつも、彼女はすぐに頭を切り替えて、一哉の問いに答えるべく事実だけを淡々と述べ始めた。
「元気な男の子でした。お母さんも赤ちゃんも元気ですし、何も問題はありません」
月並みな言葉で告げられる。
産まれた子供の性別が男であると知り、一哉は安堵している自分に気づいた。
そして、どこまでも打算的に考えることしかできない自分に嫌気がさした。
産まれた子供が男であったのなら、綾に課せられていた次の後継を生むという責務を果たしたことになり、例え堺の不義が水原の耳に入ることになっても次に無理強いをさせられる可能性は低いと考えたからだ。
「わかりました。旦那様に連絡してきます」
「それでは。この度はおめでとうございました」
頭を下げる看護師に背を向けて、院内の公衆電話を探すため一時、その場を離れた一哉だった。
看護師から告げられた通りの言葉をそっくりそのまま電話口の向こうにいる水原に告げたときの相手の歓喜の様相は、まるで目に浮かぶようだった。
興奮した水原に対して、早々に通話を終えるとその足で一哉は、綾の病室に向かった。
戻っているかどうか不安に思いつつ、そろりと開けた扉から病室内を確認すると、室内に設置されたベッドの上に綾が横たわっていた。
疲れきったように憔悴してはいたが、どこか満ち足りた表情の彼女。
足音を極力立てないようにして近づいていったが、何か敏感になっていたのかもしれない。綾はすぐに一哉の存在に気づいた。
一哉の顔を見るなり、疲れを色濃く残す顔に笑みを浮かべた。
何か言おうとして口を開こうとした綾だったが、それよりも先に一哉が先に言葉を紡いだ。
「お疲れ様…。綾さん」
「…一哉……」
感極まったのか、綾の目尻に光るものが一哉の視界に映った。
何と声をかけていいのかわからなくなってしまった一哉は、足早に綾の側に寄ると綾のか細い少し震えた声が聴覚を刺激した。
「私…、幸せよ。一哉の子供が産めて…。名前を付けさせてあげたり、父親としてあの子と接する機会を作ってあげることはできないけど…」
一哉は、その綾の言葉に目頭が熱くなってくるのを感じた。
枕を背に体を起こし、傍らに立つ一哉を見上げる綾の頬を指先で辿る。
そして、消え入りそうな声で「ありがとう」とだけ口にした。
誰にも邪魔されない空間で、2人だけの時間を過ごす綾と一哉だった。
2008
すっかり停滞しております。
気づけば2周年迎えていました。
そんなことにも気づかないなんて…。
気づいてないから何も用意してないんですよね…。
何かするべきなのか?
別に忙しいわけじゃないんですよ…。
ただ、話を書く時間が取れないだけであって。。。
それを忙しいというのでしょうか??
りん様
大変遅くなってしまい申し訳ありませんでした。
さきほど返信しました。
ご確認ください。
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りん様
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ご確認ください。
2008
すっかり停滞しちゃってますね…。
こっそりと生きてます。
お話はできてるのですが更新作業ができません(泣)
早くネットを引きます。
以下、メルフォお返事です。
りん様
裏ページのアドレスのご希望ありがとうございます。
お待たせしており大変申し訳ございません。
もうしばらくお待ちください。
近日中にはお返事させて頂きます。
重ね重ね申し訳ありませんが、ご了承ください。
こっそりと生きてます。
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りん様
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近日中にはお返事させて頂きます。
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2008
Vizard (69)
上から見下ろされる鋭い刃物のような視線を感じながら堺は、掠れるような声で尚も言葉を繰り返した。
「まさか…」
震えた声。
一哉を指差す男の指は俄かに震え初めていた。
堺の震えた様子。己の状況。綾の己のシャツを掴む手。今、この場の全ての条件、要素を鑑みて堺の脳内を支配する考えが手に取るようにわかる。
それは、確実に一哉にとっても綾にとっても喜ばしいことではない。
堺の挙動不審な態度にも一哉は、目を眇めるが、だが落ち着いていた。
焦ることも何もしない。
目の前にいるこの男が何を言ってきても一哉が動じることは一つとしてないからだ。
そのために、今までの時間の浪費と苦労がある。
先に道を踏み外したのは一体誰だったのだろうか。
堺か―。
綾か―。
一哉か―。
「まさか…」
「何か?気にかかることでもあるのですか」
殊更、ゆっくりと唇を動かして、堺の不安を煽るように口にした。
「お前かっ!!貴様!おろせ」
掴みかからんばかりの勢いで一哉と彼の背後にいる綾に飛びつこうとする堺を冷静な彼は、簡単に振り払うと無様に床に尻をつく。
上から冷え冷えとした目で何も言わずに見下ろす。
一哉は肯定も否定もしなかった。
「冗談じゃないわ」
口を開いたのは、一哉の背後に隠れていた綾だった。
それは、堺の言葉を否定するものではなく、堺は綾の答えから己の危惧が現実のものであると悟る。
目をかっと見開いて掴みかかる。
それは、いとも簡単に手早く一哉によって跳ね除けられた。
己より優れた体格を有する一哉に堺が力で適わないのは、最早明白。
それは、何より堺自身が身をもって痛感している。
力で適わなければ次に出てくるのは、言葉しかない。
「こんなことが許されると…」
腹の底から捻りだすような、苦しそうな声が零れる。
目はぎらつき、立ちはだかる一哉と一哉の背後から睨みつけてくる綾をぎろりと血走ったような瞳で睨む。
「お前の父親に知れたらこんなボディーガードの1人や2人…」
ぎりぎりっと歯軋りをしながら脅しともとれる言葉を吐く堺にも、一哉は全く顔色を変えることはなかった。
それどころか――。
「ご自由にどうぞ」
涼しい顔でさらりと答えた。
途端に虚を突かれたような表情になったのは、何も堺だけではなかった。
それまでぎゅっと強い力で握っていたはずのシャツが解くように手から離れていった。
一歩、後ずさるようにして距離を置き、一哉から離れる。
目を見開き、自分からは見えない表情を想像した。
口許には、冷酷な笑みが浮かんでいるのだろうか―。
その綾の想像通り、一哉の口許には涼しい笑みが湛えられ、見るものを魅了するであろうそれは、この場における堺にとって憎らしい以外の何物でもない。
喜んでいたのは自分だけで…。
きっと自分と同じように喜んでくれると思っていたのは間違いで…。
迷惑―邪魔でしかなかったのだろうか。
今は、一哉の背後に隠れて見ることの適わない綾が見ていたら、恐らくその笑みは綾に少なからず影を落としたかもしれない。
見えなかったことは幸せかもしれない。
だが、顔を見ずとも空気で分かったのか―今にも目の前に迫ってきそうな暗い、恐ろしい未来から逃れるように距離を取り、何かから守るように手で己の下腹部を覆った。
それは、考えたくない。
考えただけでも恐ろしい。
自然と部屋の出口である扉を探す。
「何?」
うろたえる一哉を想像していた堺は、己の予想もしない応えに実に愚かしいことだが、聞いた本人である自分の方が狼狽していた。
一方の、一哉と言えば憎らしいほどに余裕綽々と言った態度で酷薄な表情を浮かべているだけだった。
「お好きにと言っただけです」
同じ言葉をもう一度繰り返した後に少しの間をおく。
堺の喉の奥で飲み込まれた音がひゅっと音を立てる。
一哉は、目を眇めながら堺を見下ろしては、追い討ちをかけるようにゆっくりと口を開いた。
耳障りの良い、だが、決して穏やかではない言葉を一哉は口にした。
「恥をかくのはあなたです」
ぴくりと堺の眉尻が動き、怪訝な顔つきで一哉の顔を見上げた。
不安気に揺れ動く堺の目は、その動揺を如実に表している。
優位にたってもおかしくないという堺の手に取るように分かる動揺。それは、主導権を既に一哉に握られた証だ。
「何…?」
喉に張り付くような声は、聞くものを不快にさせる響きだ。
掠れてほとんど音をなさない声に一哉は、片眉だけを持ち上げて見せた。
薄ら笑いだけを口許に浮かべた男の姿は、堺の瞳にさぞかし不気味に映ったに違いない。
そして、男の後ろに立つ綾は、不安だけが膨らんでいくのを感じていた。
「わ、私が綾の腹の子がお前の子だと公表すれば…」
「勝手なことしないで!」
堺の言葉にいち早く反応したのは、一番に自分の立場の危うさを感じるべき一哉ではなく、綾だった。
だが、堺は綾の言葉に激昂したように声を張り上げた。
一哉は黙ったまま2人の会話を聞いていた。
「ふざけるなっ!スキャンダルも甚だしい!いいか、腹の子は堕ろせ!」
「嫌よ!!」
咄嗟に腹をかばうようにしながら、綾は甲高いヒステリックな声を張り上げた。
「お前の意志など関係あるかっ!いいか。堕ろせ!そして、お前もこの家から追い出してやるっ!こんな不祥事を起こしてただで済むと思っているのか!?」
綾に対して怒鳴りつけた勢いのまま、一哉に向かっても啖呵をきる。
「…っく」
しかし、一哉の口から零れたのは、謝罪の言葉でも、釈明の言葉でもなく、はっきりと嘲りが含まれた嘲笑と深いため息だった。
毒気を抜かれたように、感情が昂ぶっていた堺と綾は、軽く見開いた瞳で肩を揺らして笑う一哉を見た。
2人の視線を体で受け止めながら、一哉はふと浮かべていた笑みを消失させた。
そして、鋭い眼光で堺を睨みつけながら低い地を這うような声を発した。
「自分の立場、分かってるのですか?」
冷え冷えとした身も凍りそうなその声に背筋を硬直させたのは、堺だけではなかった。
綾は、一哉の身に着けているシャツを後ろから握りしめていたが、それを掴む手から冷えていくようだった。
「ご自分のされてきたことを棚にあげて、なんと身勝手な人か…」
ゆっくりと紡がれる声に堺は、はっとしたような顔になった。
「公表していただいても結構ですよ。ただし―」
さらに一段と低くなった声は、効果覿面だった。
「自分の身の破滅を覚悟しておくことだ」
びくりと綾の一哉のシャツを掴む手が震えた。
一哉もそれに気づいていたが、視線を堺から逸らすことはしなかった。
「先に不貞を働いたのは、貴方でしょうに―。すっかり忘れてお嬢様だけを責めるなど傲慢甚だしい。いいんですよ。私の手にあるあなたの浮気の数々を旦那様にお見せすれば、事は収まります。あなたの実家は没落の一途を辿るでしょうね。当然、あなたも只では済まないはずですよね?水原の当主は、甘くはありませんよ。それに引き換え、あなたは確証もなく喚きたてるだけだ。どちらが優位かは明らかでしょうに…」
理路整然と並べられる事実は、堺に現実を突きつける。
反論したくとも糸口の一つも見つからない時点で敗北は決定したに違いない。
精々できることと言えば、苦し紛れに悪態をつくことが唯一できることだった。
「くっ…。いいか覚えておけ!」
「何をでしょう?」
「いくら腹のガキがお前の子だろうが戸籍は私の子だお前は、本当の父親にはなれない。残念だったな。―この家は俺のモノだ!」
みっともない執着心を見せて声を張り上げた堺。
冷めた視線を送る。一哉と綾。
金に―水原という家に固執する男は、みっともない、矮小な男にしか見えなかったのだった。
堺は、2人の視線に気づいていたのか気づいていなかったのか。
壊れたように乾いた笑いを浮かべては、いつまでも喚き散らしていたのだった。