更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
嫌いな方・興味のない方・間違っちゃった方はバックバック
2008
Vizard(70)
時は過ぎて綾は、特に大きな問題を迎えることなく臨月を迎えた。これ以上、喜ばしいことはないだろう。
父親である水原が、初孫の誕生をすぐ側まで控え、これでもかというほどの設備の整った病院に娘の綾を入院させ、いつ産まれてきてもいいように手配したのは当然のことだろう。
最大限のできることを金という力を使って減らせる負担は軽減する。
それは、祖父として産まれてくる孫にできる最初の贈り物であり、親として娘にしてやれる労わりの形のひとつであるかもしれないが、かといって綾は父親のその行動を喜ばしく思っているかといえば、そうではないのかもしれない。
綾にとって、今すぐにでも産まれてきそうな10ヶ月もの間、腹の中で育てた―育った愛しい男の子供と、その父親でもある一哉がいれば事足りるのだ。
それだけで、満足なのだ。
もう既に形だけになってしまった夫の姿など見えなくてもいい。見えないほうがいい。
綾の身に宿った新たな命が自分が用意した男の子供だと信じて疑わない父親のいらぬお節介など余計なお世話。
姿を見せることのない堺に水原は、しかめっ面で一体何をしているんだと綾に気遣ってかそう口にする水原だったが、寧ろ父親のその姿が綾にとっては、滑稽だった。
あの日から、もとより姿を見せなくなってはいた堺だったが、更に拍車をかけたように綾と一哉の目の前に姿を表すことはなかった。
2人の目―特に、一哉から逃げるようだった。
だからと言って、綾も一哉も2人とも、矮小な男の存在など、昔から存在しなかったかのように消し去って、日々を消化していた。
落ち着かない気持ちで待っていたのは、水原だけではなかった。
忙しなく動きまわり、落ち着きのなさを見せる水原を横目で見ながら、壁に身を寄せて不動で立っていた一哉もまた、緊張と期待と不安がない交ぜになった状態で時間が過ぎるのをただ、ひたすらに待っていた。
もしかしたら、一番動揺していたのは、初孫の誕生を待つ水原ではなく、一哉だったかもしれない。
願うことは、どうか無事で―。
どちらとは言わない。望むのは、どちらの命も……。
――名乗ることはできない。
――父親として接することも適わない。
――それでも、最大限の祝福をあげよう。
――父親として……。
それが、一哉にできる唯一のことだから――。
新たな産声が聞こえるのをただ、ひたすらに待っていた。
待つのがこれほど苦痛だと感じたのは、初めてだろうか。
腕に嵌められた時計を確認しては、針だけが坦々と時を刻んでいくのを改めて実感する。
まんじりともしない時間を過ごす。
苛々したように組んだ腕を人差し指が何度も叩く水原。
時計ばかりを気にする一哉。
本来ならばいるべきはずの堺の姿は、なかった。
焦燥と苛立ちの中、その瞬間を待つ男2人の耳に慌しい靴音が飛び込んでくる。
2人の視線がその靴音の持ち主に集中する。
しかし、すぐに2人は落胆した。1人は、ありありとわかるほどの落胆の表情を浮かべて、もう1人は顔にこそ出さないものの落胆の色を表す息を吐き出した。
水原と一哉の落胆の色にも気づかない男は、額に汗を浮かべ、息を切らせてどこか焦りを浮かべた表情だった。
何かあったのだろうか。
焦燥していた男は、男達の落胆に気づくことなく足早に水原に近づくと何やら耳打ちをした。
用件を伝え終えると男は、深く頭を下げた。
水原は、目の前の深く頭を垂れる男の姿と娘が入っている分娩室を何度も交互に見やった。その表情には、困惑の色が浮かんでいた。
「会長…。お願いします」
懇願する部下の声に、水原は深く目を閉じると壁に直立不動で立って控えていた一哉の側へ来ると苦悶の表情を浮かべながら、弱弱しい声で懇願した。
「トラブルが起きたから戻る…。綾と産まれてくる子供に何かあったら連絡してくれ」
後ろ髪引かれる思いなのだろう。
一哉に向かって口を開いてはいるが、その視線はずっと別の方向を気にしていた。
主人でもある水原の言葉に従僕としての立場しか持ち得ない一哉は、男の言葉に従うほかない。
もとより、そのつもりだ…。
見ていないとは、分かっていながら軽く頷いて返答する。
「わかりました」
「…頼む」
一哉の応えを聞いてから、もう一度鷹揚に頷くとくるりと一哉に背を向けた。
尊大な口調で「行くぞ」と頭を下げ続けたままだった部下の男に声をかけると病院内から姿を消した。
院内の廊下を大股に歩く2人の男の後ろ姿が徐々に小さくなっていくのを視界の端で捕らえながらも、もう一度、一哉は時計を確認した。
既に4時間が経過していた。
初産では、時間も掛かることもままあることだ。
しかし、待つ身としてはその時間は長く感じられて仕方ない時間だ。
夜間のため、己以外誰もいなくなった廊下は暗く、不気味な雰囲気を醸し出している。
分娩室の固く閉じられた扉に目を向けた一哉の瞳は、誰もいないことも手伝ってかいつになく不安気に揺れていた。
それから、間もなくのこと元気よく泣く赤ん坊の声が聞こえた時、漸く一哉は張っていた肩の力を抜くことができた。
それと同時にこれまで固く閉ざされていた扉が開き、出てきた看護師が廊下にいるはずであろう水原の姿を見つけようとしていることに気づいたので、一哉は彼女に近づいていった。
「旦那様は、急用で帰られました」
「…そうですか」
「それで…」
俄かに驚いたような顔をしつつも、彼女はすぐに頭を切り替えて、一哉の問いに答えるべく事実だけを淡々と述べ始めた。
「元気な男の子でした。お母さんも赤ちゃんも元気ですし、何も問題はありません」
月並みな言葉で告げられる。
産まれた子供の性別が男であると知り、一哉は安堵している自分に気づいた。
そして、どこまでも打算的に考えることしかできない自分に嫌気がさした。
産まれた子供が男であったのなら、綾に課せられていた次の後継を生むという責務を果たしたことになり、例え堺の不義が水原の耳に入ることになっても次に無理強いをさせられる可能性は低いと考えたからだ。
「わかりました。旦那様に連絡してきます」
「それでは。この度はおめでとうございました」
頭を下げる看護師に背を向けて、院内の公衆電話を探すため一時、その場を離れた一哉だった。
看護師から告げられた通りの言葉をそっくりそのまま電話口の向こうにいる水原に告げたときの相手の歓喜の様相は、まるで目に浮かぶようだった。
興奮した水原に対して、早々に通話を終えるとその足で一哉は、綾の病室に向かった。
戻っているかどうか不安に思いつつ、そろりと開けた扉から病室内を確認すると、室内に設置されたベッドの上に綾が横たわっていた。
疲れきったように憔悴してはいたが、どこか満ち足りた表情の彼女。
足音を極力立てないようにして近づいていったが、何か敏感になっていたのかもしれない。綾はすぐに一哉の存在に気づいた。
一哉の顔を見るなり、疲れを色濃く残す顔に笑みを浮かべた。
何か言おうとして口を開こうとした綾だったが、それよりも先に一哉が先に言葉を紡いだ。
「お疲れ様…。綾さん」
「…一哉……」
感極まったのか、綾の目尻に光るものが一哉の視界に映った。
何と声をかけていいのかわからなくなってしまった一哉は、足早に綾の側に寄ると綾のか細い少し震えた声が聴覚を刺激した。
「私…、幸せよ。一哉の子供が産めて…。名前を付けさせてあげたり、父親としてあの子と接する機会を作ってあげることはできないけど…」
一哉は、その綾の言葉に目頭が熱くなってくるのを感じた。
枕を背に体を起こし、傍らに立つ一哉を見上げる綾の頬を指先で辿る。
そして、消え入りそうな声で「ありがとう」とだけ口にした。
誰にも邪魔されない空間で、2人だけの時間を過ごす綾と一哉だった。
PR
Post your Comment