更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2009
vizard(87)
ぽかんと口を開け、突拍子もないことを言い出した娘の顔をまじまじと見つめた。
父親の視線に娘は、本気だということを表すように逃げることなく、真正面から父親を見返した。
「…ほ、本気で言っているのか?」
どうか嘘だと言ってくれとばかりに問う水原の声は、俄かに震えていた。
世迷いごとを言い出すにも程がある。
醜聞もいいところだ。
一介の使用人の中の1人に過ぎない男となど――。
だが、本気の綾には冗談だと笑って言うつもりは毛頭なかった。
堺のときのようにどれだけ綾が嫌がっても再婚させられたらたまらない。
このまま父親の意志をごり押しされて再婚しなければならないのなら、いっそのことと―という綾なりの賭けだった。
愕然としている父親に向かって、彼の縋るような視線をも突っ張るように言い捨てた。
「本気よ。こんなことで冗談言っても仕方ないでしょ」
「…なっ」
「一哉がいいの。一哉じゃなきゃイヤ。認めてくれないなら、怜迩を連れて家を出てやるから」
「ちょ…ちょっと待て」
一度、言ってしまったものは、引き返すことはできない。
どうせなら、このまま認めさせてやると綾は強く出た。
条件のように怜迩の存在を引き合いに出してやる。
そうすれば、水原も強く出られまいと踏んで、彼女はそれを口にした。
綾の狙い通り、水原は慌てた。
体を前のめりに倒しながら、娘に詰め寄る。
挑むように自分を見つめてくる娘を見て、彼の脳裏に嫌な予想が過ぎっていく。
これまで、想像だにしなかった―。
「まさか…」
瞬きも忘れて綾に見入り、恐る恐る言いかけたまま、一度己を落ち着かせるためだろうか。ごくりと喉を上下させた。
「綾。お前、一哉と…」
「ちょっと変な想像しないでくれないかしら?」
父親が皆まで言うのを待っていられなかったのか、それとも別の意図があるのか。
綾は、水原の言葉を遮り、眉間に皺を寄せた険しい表情、険の篭った声で即座に否定とも取れる言葉を口にした。
とりあえずの否定に水原は、急速に自分が落ち着いていくのを感じた。
しかし、どうも腑に落ちない。
―では、何故急に一哉の名が綾から出てきたのか。
確かに、綾の側には常に一哉が控えている。
接する時間は確かに多いことは事実だ。
とはいえ、それは彼女が再婚者として一哉を挙げる理由にはならないだろう。
綾と水原。
彼らの関係は、一般から見たら主人と使用人の関係に過ぎない。
従って、その関係以上の間柄になっていないと綾が再婚者として一哉の名前を挙げる理由にはならないと思ったのだ。
彼の考えは、間違ってなどいない。
2人は、既に夫婦以上の親密な関係を築いていることに間違いはないのだが、それを正直に打ち明けるほど綾も命知らずではなかった。
昔の彼女なら素直に口にしていたかもしれないが、直情的に進んでも事は上手くくものといかないものの判断はできるようになっていた。
ポーカフェイスで、水原からの視線をやり過ごす彼女と水原の腹の探りあいは続く。
「じゃあ、何で…一哉なんだ?」
「まだ、何もないわ。碌に知らない男と再婚させられる位なら一哉が良いってだけよ」
「…しかし、」
綾の言い分には、納得できなかったようで、眉間に深い皺を刻んだままだった。
「何よ。お父様が選んだ人だって、お父様の部下なんだから一緒じゃない」
と綾は主張してみるが、部下と言っても与えられた役目も社会的地位も全く異なる。
「いくら真面目だからって、いざという時に頼りにならないかもしれない男なんて嫌よ。私が誘拐されたときも、怜迩が事故に巻き込まれたときも助けてくれたのは、一哉じゃない」
怜迩の時には、実際にすぐ側まで迫っていた命の危険から怜迩を守ったのは、伊達であるが、強調するためにもう過去の出来事になりつつあった怜迩の話や数年前の自分の身にあったことを切り出した。
それに対して、丁度良い言い返す言葉も見つからなかったのか、水原は口をへの字にしたまま、押し黙ってしまった。
そんな父親に対し、追い討ちをかけるかのように綾は、再度同じ言葉を繰り返した。
「一哉以外の人間と再婚しろって言うなら、怜迩連れて出て行くわ。冗談でもなんでもないわよ。本気だから、覚えておいて頂戴」
とだけ言い置くと、後は話すことはないという意志表示のつもりもあってか、そのまま部屋を後にした綾だった。
水原の慌てて呼び止めようとする声にも振り返らなかった。
水原と綾との間だけの話だったはずのそれは、どこからか漏れ、驚くほどの早さで水原の家で働く使用人達の間を駆け巡った。
一哉は、自分へと向けられる何らかの意志を持った視線に違和感を覚えただけだった。
遠巻きに自分を指差して何かを話している同僚。
そわそわした使用人たちの動きに、綾は気づいていたが、彼らが口にすることは事実なので放っておいた。
むしろ、逆手にとって利用してやろうとすら思っていたのだ。
周りから固めてやれば、自分の意見をごり押ししてくる父親を納得させることができると思ったのだ。
同僚達の様子と己へと向けられる視線に不審感を抱いていた一哉だったが、彼らの様相の理由は、伊達の口から聞かされることとなった。
「綾様と再婚されるって本当ですか?」
「は?」
いつも飄々と、時に厳しい表情を見せる男の珍しく、呆けたような顔を伊達はこの先忘れることはできないだろう。
一見の勝ちはある顔だった。
しかし、同時に他の人間達が噂することは間違いなのだろうか―。
とも思った。
綾自身が否定しているのを聞いたことがない伊達は、てっきり事実であり、そう遠くない未来のはずだと思っていたのだ。
ただ、いつも伊達の近くにいるはずの男だけが何も言わない―。
もし、他の者たちが口々に噂しているのが事実なら、男の口から己へと語られてもいいはずだと思っていたのだ。
我慢できなくなった伊達が、意を決して一哉本人に聞いてみたものの、この有様だ。
違うのかと身構える伊達に、一哉は不快そうに眉間に皺を寄せ、目を細めた。
「何だそれは…。最近のほかの人間の変な様子はそれか…」
「違うんですか?綾様が旦那様に―」
と伊達が自分が聞いた話をそっくりそのまま伝えようとしたところ、皆まで言い終わる前に、一哉が背中を向けて、どこかへと姿を消していってしまった。
呼び止めることも後を追いかけることもできずに伊達は、ただ一哉の背中を見送っただけだった。
見送る男の背中がそれを拒絶していた―。
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