2008
Vizard (6)
「お帰りなさいませ。お嬢様」
「ええ。ありがとう」
がちゃりと開けられたドアから、吸い込まれるようにして綾が車の中に乗り込む。
いつもと同じように綾を兄に引き渡して、自分の仕事は終わりだった。
車に乗り込む綾を見届けていると兄の冷たい視線が己へとむくのを一哉は感じた。
兄と同じ土俵で戦ってはいけない。
一哉は、兄の視線を身体で受け止めながら、兄とは対照的に誰に対しても同じように向けるような柔らかな表情で兄を見返した。
彼は、綾が車内に乗り込んだのを確認するとドアを閉めながら吐き捨てるように言う。
「何をしている。この鈍間。さっさと乗れ」
理不尽にもほどがある。
いつもならば、綾は兄が車で家まで連れ帰る。
一哉は、彼らを見送った後、ここから家まで公共の交通機関を乗り継いで帰ることになっていた。
今日は、何も聞かされていなかったので一哉は、いつものように車が出るのを待っていたに過ぎないのだが…。
一哉が忘れていただけかというそうでない。
一度言われたことは、決して忘れない。
初めから言われていなかっただけのことだ。
だが、こんな理不尽な扱いなどとうに慣れきってそこにやりきれなさや腹立たしさを感じるというような神経はとうに消えていた。
いつものようににっこりと笑って謝る。
「申し訳ありません」
すると何を言われても顔色を変えることのない弟に兄は気持ち悪いものでも見るかのような視線を送りつけ、ふんっと大袈裟な動きで運転席に乗り込む。
一哉は、助手席側まで回ると車に乗り込み、シートベルトを着用した。
「何かあったの?」
「いえ、大したことではありません」
通常、決して同乗することのない一哉の姿に綾が尋ねたが、宗司がそう答えるともう聞いてこなかった。
何があるのか…と少しの不安感を覚えながらも兄がハンドルを操作する横でただ流れていく景色を眺めていた。
車の中は、無言の空間だった。
兄と弟の間にあるのは、ぎすぎすとした妙な空気。
それを綾は、じっと後部座席から伺うように見ていた。
水原の屋敷に着くと車を置いてくるという兄の代わりに綾に付き添って屋敷の中に入る。
これで2度目だった。
以前、父に連れられて綾と引き合わされたとき以来か…。
玄関までも道に敷き詰められている砂利を踏みしめながら思い出していると、横を歩いていた綾から急に声を掛けられる。
「ねぇ」
この場にいるのは、綾と自分しかいない。
一哉は、それが己に向けられたものだと悟ると顔を綾に向けた。
「何でしょうか」
「ねぇ…どうして、一哉の名前って一ていう文字がつくの?」
突拍子もない、脈絡もない綾の疑問の声に、一哉は一瞬虚を突かれたように相手を見返すことしかできなかった。
何故と言われても、入っているからついているだけだ…。
答えようもない。
彼女の意図していることがわからなかった。
すると、さらに……。
「だって、一哉って4番目でしょ?おかしいじゃない」
そういうことかと一哉は、そこで納得する。
「それに、他の3人とは年も離れているし…顔も似てないし……本当に草壁の人間?」
ついに来たかと一哉は思った。
顔にこそ出さないが、胸の中では、盛大に舌打ちをした。
「草壁の人間でなかったら、お嬢様をお守りすることはできませんよ。正真正銘、父とは血が繋がっています」
柔らかな口調で答えたからか、さらに相手は踏み込んでくる。
こういう態度は、一哉の最も厭うものだった。
相手の痛みがわからないこそ人の奥底まで平気で踏み込んでくるのだ。入ってきて欲しくないところまで…。
「じゃあ、何で名前に…一ってつくの?」
「今、お答えしたとおりです。父とは、血が繋がっています」
笑みを張り付かせて答える一哉の表情からは、決して彼女の問いに不快感を感じているなどとは、到底見えないだろう。
しかし、目の前の人物を殴りつけたいくらいには、不快感を感じていた。
それを感じ取らせるような子どもっぽさは見せないが…。
一哉の答えに漸く理解したのか、綾は目を見開いた。
「母とは血が繋がっていません。要は、妾の子という奴です。今の家には、実の母親が亡くなってから引き取られました。4歳のときです」
くすりと笑いながら答える一哉。
綾が何と答えて良いか分からずにいると、背後から叱責の声が飛んでくる。
「何をこんなところでぐずぐずしている。お前は、碌にお嬢様をお連れすることもできないか?」
「宗司。待って」
車を置いて戻ってきたのだろう一哉を睨みつけて言う宗司の厳しい姿に、綾が自分の所為だと言おうとしたのだが、それを遮って一哉が頭を下げた。
「申し訳ありません」
「違うの」
「さぁ、お嬢様行きましょう」
綾の言葉など聞かずに宗司は、彼女の肩を押して屋敷の中に入らせようとする。
頭を下げる一哉を置いて―。
綾は、強引な力で宗司に押されながらも首を動かして、自分より幼いはずの妙に大人びた少年を振り返ろうとした。
合点がいった―。
彼に対する兄弟たちの妙な雰囲気も…。
全てが……。
屋敷の中に入っていったのを確認した後、一哉は顔を上げた。
そして、己も用があるからここへ呼ばれたのだろうと理解していたので、遅れて屋敷の中へと入っていく。
その顔は、暗く険のある顔つきだった。
決して、誰もが見たことないような……。
チッと小さく舌打ちをしたが、その音は誰の耳にも入ることはなかった。
主君の屋敷である水原の家に足を踏み入れるころには、その顔つきは消失し、いつもの穏やかなソフトな顔つきに戻っていた。
それは、彼の―草壁 一哉という人間の仮面だった。
10年という時を経て培われてきた分厚い仮面……。
決して剥がれない。破れない。強力な仮面。
それを彼が、剥がすのは、1人になったときだけだろう。