更新日記と小説(18禁)とたまに嘆き.
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2008
Vizard (56)
弟が口にした言葉に耳を疑った。
ドアに手をかけたまま振り返った先にあったのは、真剣な顔をした弟の表情だった。
「お願い…だと?」
怪訝な顔つきで聞き返した宗司のもとに、一哉は足を踏み出す。
敷き詰められた砂利を踏む音が響く。
お願いなどと今まで一哉の口から聞いたことなどない。
何があっても頭など下げぬ面白みも虐め甲斐もない弟だった。
これほどその言葉が似合わない存在がいるだろうか――。
「一体、何を?」
常日頃、お願いなどと口にしない者のそれであれば、誰であろうとその内容が気になって当然だろう。
一体どれほど高尚なものなのか。それともくだらないものなのか。
聞き返した宗司は、まだ快諾するか拒否するかどちらとも決めていなかった。
「しばらく、お嬢様をお任せします」
「は?…何を言って……」
宗司の目を見据えてそう口にした一哉の表情は、冗談で口にしているとは思えないほど真摯な表情だった。
しかし、一哉の口にした言葉は冗談でも草壁の人間が軽々しく口にしていい言葉ではない。
その言葉の持つ意味が分かっているのかと疑った。
「理由は、今は口にできません。期間もどれくらいになるかわかりません。ですが、よろしくお願いします」
そう言うと、深々と頭を下げて見せた。
しかし、宗司には納得できない。できなくて当然だ。不確定要素が多すぎる。
一方的に職務を放棄すると言っているのだ。しかも、それがどの位なのかも分からないという。
はいそうですかと頷けるわけもない。
一哉も一哉で、はっきりと分かっていないものをそう簡単に口にすることはできない。
ただの自分の杞憂だけで終わるかもしれないし、己の推察が的を得ている可能性だってある。
そのどちらも否定することができないのが今の状態なのだ。
「そんな一方的な要求を私が聞くとでも?」
双方ともに、譲れない部分があるためににらみ合いになるのは、必至だ。
「聞けないと?」
喉の奥から搾り出すような声に、怜悧な瞳が向けられる。
「当然だ。お前、自分が言っていることの意味分かっているのか?」
「もちろん」
責めるような強い口調で告げられる言葉に一哉は、即答した。
分かっている。しかし、だからと言って、見過ごせるわけがないのだ。
「貴様…。自分の責務を放棄するということを分かっているのか!?草壁の人間として許されない行為だぞ!いくらお嬢様に目をかけていただいてるからといってやっていいことと悪いことがある!その判断もできないのか!」
宗司の一喝にも一哉は顔色一つ帰ることはなかった。
変わらぬ瞳で宗司を見ていた。
「事と次第によっては、今の任を外されるぞ」
「構いません。お忘れですか?一度は、今の任を外して欲しいがために勘当を要求した人間です」
激昂する宗司とは対照的に、一哉は冷静だった。
落ち着いた淀みない声で答えた一哉を、細めた双眸で睨みつける宗司。
己が望んだものを今、また簡単に手放そうとしている弟が憎い。
「貴様…」
「お願いします」
「お前の地位なんて戻ってくるときには、なくなってるぞ。私が獲ってやる」
そんな言葉でも一哉の顔色を―眉一つ動かすことはできなかった。
ただできたのは、俄かに明るくなったような声だった。
「ありがとうございます」
もう一度、深く頭を下げると一哉は宗司に背を向けて屋敷の中へと戻っていった。
そんな弟の後ろ姿を宗司は、彼の姿が屋敷内に消えていくまでずっと睨むような目線で追い続けた。
朝、屋敷を出ようとした綾は、そこにあるはずの姿が見えないことに不安を覚えた。
そういえば朝から全く姿を見かけていない。
玄関先に現れたもう1人に不安に駆られたまま、焦ったような顔つきで伺う。
「宗司…。一哉は?一哉がいないの」
「一哉は、別の用件で動くことになりました。何卒、ご理解ください」
「え…。聞いてない。聞いてないわ」
当然、綾は顔を青ざめさせて聞いていないということを繰り返した。
宗司は、綾の様子を見て奥歯を噛み締める。
何故、こうもあの弟は主の気を占有させ続けることができるのか。
「どうして?宗司は何か知ってるの?」
「私も詳しいことは…」
結局のところ一哉が何をするために綾のもとを離れたのかは宗司は知らないので、答えようもない。
また、いい加減なことを言うことだけは彼自身避けたかった。
言葉を濁すことしかできないもどかしさを感じつつもそれしかできない宗司は綾にそういうことしかできなかった。
綾は、一体自分を置いて一哉がどこに行ってしまったのか、それだけが不安だった。
このまま戻ってこないような気がして――。
自分から離れたいと言っていた一哉の言葉を聞いているだけに気が気ではなかった。
夫である堺が帰ってこなくても気にしたことなどないのに、少し一哉の姿が見えないだけでその不安は言い様のしれないほど大きなものだった――。
馴染みではあったが、しばらく訪れていなかった場所に足を踏み入れる。
相変わらずぼろぼろだった。
自分が顔を出せば、きっと彼女は驚くに違いない。
どれくらい時間が経過しているか――。
ここに足を踏み入れなくなってからというものの一年は有に経過していた。
懐かしさすら覚える扉の前に立ち、ドアノブを回す。
ぎぃっと物々しい音が立ち、ゆっくりと戸が開く。
柔らかな身のこなしで置くへと進んでいくと、前回とは違い、広いデスクになめらかな曲線美を描く脚を乗せて口に銜えた煙草の煙をぼんやりと追いかけていた。
ドアが開く音に彼女はそちらに顔を向ける。
そこに懐かしい顔を見出して驚いた表情を見せた。
一哉は時間の経過など全く感じさせることもなく、女に近寄っていった。
「久しぶり」
にっこりと笑いかけて言う一哉は、笑っているようで笑っていない。
女は、机の上に投げ出していた両足を床に下ろしながら瞠目した瞳で一哉を見つめた。
彼女がよく知るそれとなんら変わらない笑みを浮かべているはずなのに、背筋があわ立つような気がするのは、なぜだろうか…。
女が返事を返すのを忘れて一哉を見つめていると彼は、続けた。
「調べて欲しいことがあるんだ」
ぴくりと女の顔の筋肉が動いた。
「もちろん、報酬は払うよ。これでも俺、金はあるから」
聞かなくても知っている。
以前、自分が調べていたことに対して、一哉に冗談半分で高くつくと言ってやったら、その数日後、己の口座に大金が振り込まれているのを見て、驚愕したことは記憶に新しい。
前から、底の知れない不気味な一面に薄々と感づいていた女だったが、その時に確信したのだ。
自分の手に負える少年ではないと――。
それから、全く音沙汰がなかったというのに、急にふらりと表れて彼は、調べて欲しいことがあると彼女に言う。
一体何をという興味と、何をするつもりなのかという不気味な不安が彼女の中でせめぎあっていた。
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